繋がるDecember T

 しばらく前から取り壊し予定のまま放置され、キープアウトのテープが貼ってある団地なんて、あからさまに危険の色が濃い。そんな場所に意気揚々と踏み込む姿を見た時は、襲われに行くつもりなのかと神経を疑ったが、どうやらただ危機感の薄い女だったらしい。
 案の定、半グレのヴィランに襲われているところを助けたのが、約二週間前のこと。
 あれからも、彼女が同じような時間に歩いているのを何度か見かけた。
 それも一人でだ。
 警察に引き継ぐ時にはヘラヘラと平気な顔していたが、彼女は夜道で、度々後ろを振り返ったり走ったり、恐怖が拭えず神経質になっていた。
 拘束されただけで特に怪我も無かったとはいえ、怖かったに決まってる。
 それなのに、ショックを認めたら恐怖が止めどなく溢れてしまうから、無意識に認めるのを拒絶しているのだろう。大丈夫大丈夫と笑って自分を納得させて、恐怖を無かったものにしようとしている。
 そういうヤツが一番危ないんだ。
 怖かったと泣いてケアを受けるとか、一人では不安だからと誰かに送ってもらうとか、そういう対策をしないから。
 一応、それっぽい時間にパトロールしてみているが、所詮巡回ルートの一箇所。張り込むわけにもいかないし、タイミングが合わなければそれまで。毎日見守ることはできない。
 今日は、俺が通った時には姿を見ることはなかった。
 まぁ、頼まれてもいないのに一人だけを特別扱いするのもおかしいし、探したり心配したりってのは俺の業務ではない。俺は俺の範囲で、仕事をするのみだ。
 ここ鳴羽田は、元々お上品な地域ではなかったが、数年前から一気に路地裏の小悪党が増えた。アングラヒーローとして俺が担当する地区としては適所だ。
 ビルの影、廃屋、小さな飲み屋。人の多い通りから、ちょっと脇道にそれただけの場所に潜んでいる危険に、意外と多くの人は気が付いていない。だから、ヴィランが表通りの一般市民に危害を加える前に、日陰者同士の諍いの段階で確保できるのが一番だ。
 闇の中を駆け抜け、パトロールや情報収拾であちこち飛び回り、もう日付が変わった頃。
 偶然、電柱の上から、あの時の女性を見つけた。
 シンと静かな深夜の住宅街で、動く対象は目立つ。彼女はよたよたとおぼつかない足取りで、民家の塀に手をついて時折立ち止まっては進みを繰り返している。こんなに寒いのに、コートの前を開けて。
 具合でも悪いのか、それとも、また何かに巻き込まれて歩けなくなっているのか。
 周囲にヴィランらしき気配は無いとはいえ、犯罪じゃないと断定するには情報が足りないし、見逃すにはあまりに挙動が普通じゃなさすぎる。仕方ない。おせっかいはヒーローの本質だ。
 電柱からぴょんと飛んで屋根を伝い、それから、ストンと彼女の前に降り立った。
「わ、あ、あぁ、なんだ、ヒーローさん」
 一瞬、驚きと同時に強張った彼女は、俺の顔を見て頬を緩め、へらりと笑った。
「その節は、たいへんお世話になりました」
 若干呂律が回っていない。お辞儀でカクンと頭を下げて、下げたきり、彼女はふらりと電柱に肩をつけて寄りかかった。
「おい、大丈夫か」
 咄嗟に支えた細い肩は少し震えていた。触れない方がよかったかと心配した矢先、クスクスと笑い声が聞こえてぎょっとする。
「ぼーねんかいで、若いからって、のみすぎちゃった」
 にこにこと見上げてくる、真っ赤な顔。白い息。潤んだ瞳。アルコールが香る。あの日と同じ甘い香りも。
 ただの酔っ払いだ。
「……家まで送るよ」
「えー、そんなぁ、そんなね、何度も迷惑かけられないの」
 顔の前で、手をぶんぶんジグザグに変則的に振り、彼女は俺の申し出を断った。
 そう思うならば夜道を一人で歩くなよ、なんてのは、まるで俺がいつも注目しているみたいで言葉にはできない。
「見つけたからには、放っておくわけにもいかないだろ。ましてやこんな時間に一人で」
「うん……。ふふ、ごめんなさい」
 ゲラなのか。俺にいくらか体重を預けたまま、彼女は耐えきれないように吹き出した。
「何笑ってんだ」
「し、心配してくれるなんて、ヒーローみたい」
「ヒーローだよ……」
 面倒な酔っ払いだ。さっさと送り届けてしまおうと、背中を向けて彼女の前にしゃがむ。家がどこか知らんが、あの団地も近いし、恐らくそんなに離れてもいないだろう。
「重いから、そんな、だめです」
 コツコツ、と靴が不規則なリズムを叩くのが聴こえる。その状態で、じゃあ気をつけて帰れよ、なんて一人で帰すと思うのか。時間の無駄だから、遠慮してないでさっさと乗ってほしい。
「重さは知ってるし、問題ないのも知ってるだろ」
「あ、そっかぁ」
 間の抜けた納得をしたようで、靴音が一歩俺に近づいた。
 お願いします、と厚手のウールに包まれた腕が首に回ってきて、次いで背中に柔らかな重みがのしかかる。
「立つぞ」
「はい」
 気合いを入れるまでもなく立ち上がり、小さく跳ねてしっかりと背負う。事件後に抱きかかえた時もそうだったが、この程度の体重、ヒーローとして鍛えていなくても大抵の男は軽々持ち上げるだろう。
「家、あっちだな?」
「そう、団地の向こうのほうの……」
 歩き出して数歩で、くたりと捕縛布に顔をつけて、彼女の声はふにゃふにゃと尻すぼみになる。
「寝るなよ、おまえ……名前は」
 別に、名前が知りたかったわけではない。今呼ぶのに不便だったのと、話題がないと寝てしまったらどこに送り届ければいいのか分からないから。
「名前は、ミョウジナマエ。あなたはイレイザーベッド」
「ヘッド」
「イレイザーヘッド……」
 泥酔というには会話が成り立つ。ような、成り立っていないような。あぁ、だから酔っていると思われなくて飲まされたのか。
「ねぇ、やっぱりこの布、ちょっとじゃまかも」
 ミョウジはぐりぐりと肩口に顔を擦り付けながら、捕縛布をよけて俺の耳元に辿り着き、うーんと唸った。髪に遮られたすぐそこに冷えた頬を感じる。
「髪もじゃまかも」
「文句言うな」
 ふふふ、と白い吐息が髪を揺らしてくすぐったい。
 不意に、ポケットの中の端末が電話の着信を知らせた。よっ、と背中の重みの位置を正して、片手でポケットを探る。
 緊急の呼び出しかと思ったが、画面には見たくない名前が表示されていた。
 後腐れない関係でいいというから一度だけ抱いた女の名前。もう一度会いたいとしつこい連絡は無視していたが、しまいには虹だとか犬だとか、反応に困るクソ面倒くさいメッセージを送ってくるようになってうんざりしていた。
「なーに、かのじょ?」
「違う」
 仕事中に電話とは。限界だな。ササっと親指一本で関係を断つ。ブロックして連絡手段を抹消。メッセージアプリでしか繋がっていないと楽だ。これで俺の一日の舌打ちの回数が減る。あの女は、俺がヒーローなことも知らないし、本名も名乗っていない。
「で、どこだよ。家」
 清々とした気分で端末をポケットに戻し、もう一度、背中でだらんと脱力している彼女を抱え直す。温もりは、ううんと鼻で鳴いて、人差し指を前に向けた。
「次のとこ左の、あの、白いアパート」
「ん」
 ブーツの足音は、一人で歩いている時と違ってザリザリとアスファルトを踏みしめて音を立てる。前方を示していた指は力なく垂れ下がった。寝るな、と声をかける以外、ちょうどいい話題が見つからない。怖いなら一人で歩くなとか、一方的に言いたいことならそれなりに浮かぶけれど。
 一度助けた以上、その後が気になってしまうのはヒーローとしての性なのか。俺の巡回ルートに度々姿を見せるのだから、忘れるにも至らない。名前も、家も知ったら尚更。
「ありがとう、イレイザー……」
 蕩けるような声が、小さく、熱く、耳に届く。
 背中の重みが、ヒーロースーツだけでは寒かった体を暖めてくれて心地いい。
「別に、仕事だ」
 師走にしては平和な夜に、息抜きに近いほど簡単なミッション。無意識に態度で示されるヒーローとしての信頼が心を緩ませる。
 たどり着いたアパートの外階段を登り、ここです、と言われたドアの前で立ち止まる。彼女はもぞもぞと俺の背中で動いて、ちゃりんと鍵を渡してきた。片手でそれを受け取り、彼女を落とさないように前傾姿勢になりながら解錠したはいいものの。どうしたもんか。
 女性の、しかも酔っ払って判断能力の欠如した相手の部屋に無断で入っていいのだろうか。しかし、ここで降ろしても、玄関で鍵もかけずに寝てしまいそうだ。ここまで運んでおいて、風邪でもひかれたら。
「ベッドまで運んで、イレイザーベッド〜」
 ふにゃふにゃと何一つ警戒していない声と、俺の左右でパタパタ動く脚。
「イレイザー、ヘッド、だ。入っていいのか」
「うん……ちょっと、ちらかってるけど気にしないで……」
 もうこうなりゃ、乗りかかった船だ。部屋の中の、床じゃないどこかに置いて帰ればいい。別に襲うわけじゃないし、誤解されるような事をしなければいい。鍵も手の中。出て行く時も施錠できる。
 諦めと覚悟が半々の気持ちでドアを開くと、ふわりと甘い香りが優しく鼻腔を通り抜けた。が、匂いの上品さとは正反対に、玄関の土間には色とりどりの靴がひしめいている。上がる隙がない。行儀は悪いが手が塞がっている。仕方なく、足でちょちょっと靴を端に寄せて、ブーツ二つ分のスペースを確保してそこに上がり込んだ。
「ちょっとじゃなさそうだが……」
 短い廊下も、何かしら物が落ちていたり積まれていたり。
 背後でバタンとドアが閉まって、彼女のお尻にポストがぶつかって、押されるように片足がフローリングを踏む。彼女は宙ぶらりんの足をブンブンして、トン、コン、と無造作に落ちたパンプスが土間からはみ出してフローリングに転がった。
「きにしない、きにしない〜」
 なるほど。この短時間と少ない情報でも、彼女ががさつな人間であることはよくわかった。
 玄関の電気をパチリと点け、どうやらまだ降りる気のなさそうな彼女を背負い直し、トイレのドアを通り過ぎてリビングへと進む。すりガラスのドアを開けて、壁を手探りして部屋を明るくして、驚いた。
「……汚すぎるだろ……」
 別に他人だ。叱るでもない、嫌悪するでもない。けれどつい、ため息と一緒に出てしまった感想。
「仕事してたらね、こんなもんだよ」
「いや、こんなにはならない」
 積まれた雑誌。袋に入れて出しそびれたような空き缶ゴミ。脱ぎっぱなしの服。使ったままの掃除機。夏でもないのに部屋の隅にある扇風機。
 そんなものをかわしながらソファまで辿り着く。ブランケットがごちゃっと置いてあるが、それくらいなら座り潰しても文句は言われないだろ。
「下ろすぞ」
「ベッドじゃない」
「……勘弁してくれ」
 ワンルームじゃなかったから、つまりベッドは別の部屋だ。引き戸があるからその向こうが寝室だと予想もつくけれど、流石にそこまでプライベートな空間に踏み込むのは気が引ける。
 ぱたぱたと俺の左右でうるさく抗議するつま先を無視して、ソファに腰を下ろした。もも裏を抱えていた腕を解くと、一気に重さは無くなりソファが揺れる。
「うえーん、ひどいヒーロー!」
 ここまでやってやったのに酷いとは。
 涼しくなった背中を丸めて立ち上がろうと腰を浮かせると、ぎゅっと捕縛布が引かれて首が締まった。
っ、何すんだ」
 掴みどころが悪すぎた。中途半端に立ちかけていたバランスを崩して、彼女の足の間にドスンと戻る。
「ごめん……」
 気まずそうな謝罪は、申し訳なさそうな中に滲む笑いが隠せていない。離せと言う前に離された気配に、今度こそすくっと立ち上がって、半分振り返り無言で睨む。辛うじて謝罪の感情を表していた八の字の眉が、みるみる笑いに侵食されて、クスクスと肩を震わせ始めた。
 もう帰る。そう言って立ち去ろうと甘い空気を吸った俺より早く、彼女が唇を開いた。
「片付け、手伝って」
 は? と声も出せずに口を開ける。
「お願いヒーロー……なんだか、眠れそうにないから、片付け手伝って」
 へらっとした笑顔に、既視感を覚えて頭が痛い。片付けなんてきっと、彼女にとってはどうでもいいんだろう。これは、俺にここにいて欲しいという遠回しなお願いで、眠れないのは、あの襲われた夜からそうなんじゃないかと。あの時もっと早く助けられていたら――。
 無意識に沈殿していた後悔の澱が舞う。邪険にできない。やれやれと鼻から大きく息を吐き出して、がしがしと頭をかいた。
 散乱している本から推測するに、どうやらとても仕事熱心らしい。彼女が明日も仕事なら、しっかりと睡眠がとれるに越したことはない。
「やれよ、おまえも」
「ナマエ」
「ナマエサンも、やってくださいね」
「呼び捨てでいいデスヨ」
 緩慢に伸ばした腕で、テーブルに放置されたいくつかのコンビニ弁当の空を手に取った。そのへんにあった袋に適当に放り込んでいく。
「コンビニのゴミばっかりだな」
「いいの、お腹いっぱいになれば」
 他人の食生活なんかどうでもいいが、どことなく自分を見ているようで良い気がしない。
 別の袋を見つけて、空き缶やペットボトルをまとめていく。ガサガサ、カラン、ポトン、とテンポよく響く中で、彼女はまったくやる気なさそうに、ぼんやりと俺を見つめていた。
 動け、という気持ちを込めてちらっと視線を投げると、彼女はだらだらとコートを脱いで、足元に落ちていたリモコンで暖房をつけて、ふうっとソファに寝転んだ。その手からポトンとリモコンが床に落ちる。まったく。呆れながらリモコンをテーブルに置くと、彼女は小さくありがとうと呟いた。
「栄養バランスとか、もう少し考えた方がいいんじゃないか」
「栄養ドリンクも飲んでます〜」
 ちょうど、栄養ドリンクの空きビンコーナーで、キャップを分別していた手を止める。俺だってあまり自分のために金をかける方じゃないし、見た目もこんなだ。けど、体が資本の仕事柄、栄養素については、たとえゼリー飲料でも考えて摂取している。
「健康的な食事は仕事のパフォーマンスにも重要だろ」
 お小言はヒーローの仕事じゃないし、彼女の栄養状態などどうでもいいが、掃除を手伝っているんだからこれくらいの棘は吐き出させてもらう。
「そういうってことは、自炊してるの?」
「……する時もある」
「してないやつじゃん」
 あははと笑っている彼女に反論ができない。実際自炊などほぼしないに等しい。
 唇を突き出して、猫背を丸めて、乱雑に床に広がったルーズリーフを一枚一枚拾って重ね、「おまえも片付けろ」と話題を変えてみる。彼女は笑いを引っ込めて、だらんと目を閉じた。
「んー、イレイザーと話していると、なんだか眠れそうな気がするの」
 最近、よく眠れなかったし、悪夢も見るし。そう、ふわふわとまったり緩んだ声での言い訳が、俺の中ではやはりと腑に落ちる。あの夜以来のことだろう、と追求はしないがそうだろう。それなのに、俺と話していて眠くなると言うのだから、ヒーローとしてのお節介心が働いてしまう。
 うとうと、部屋の明るさに瞼が負けるみたいにゆっくりと瞬きを繰り返しながら、彼女は安心して眠るために、俺の存在を確かめ続ける会話を投げかけてきた。
 年齢や、ヴィランは毎日出るのかとか、鍛えてるのかとか、残業ってあるのかとか。
 時々やけに間の長いやりとりを、彼女は明日もはっきり覚えているのだろうか。
 俺を沈黙させないためだけの疑問質問を背中に受けて、片付けを進めつつ簡単に応えていると、大きなあくびとむにゃむにゃ言葉を噛む音が聞こえてきた。
 ルーズリーフをトントンとテーブルに立てて揃え、色んな資格のテキストを綺麗に重ね、筆記用具をペンケースに仕舞い、ソファへと振り返る。
「この辺はよくパトロールしてるが、あれ以来怪しい影は無いよ」
 そうなんだぁ、と間延びした返事は、夢の世界に半分落ちている。
「ふ、あ……眠くなってきちゃった……」
 二度目の大あくび。
「……寝ればいいだろ」
 くしくしと目を擦っても、もう睡魔に身を委ねるしかないだろう。すでに瞼は開かない。
「おそう?」
「バカなこと言うな」
「ふふ、ヒーローだもんねぇ」
 そのまま、安心したように穏やかな顔で、すうっと呼吸が深くなる。
「ごめんね……あの時不審者っていって……かっこいーよ」
 不明瞭なお喋りをしていたナマエの唇は、僅かに開いたまま突然に言葉を切った。
 鼻からすうっと大きく息を吸って、眠気に抵抗するように震えていたまつ毛も、息を吐き出す時にはすっかり穏やかになっていた。
 脱ぎ捨てられたコートを、そのへんに落ちていたハンガーにかけてラックに吊るす。
 ふう、と、来た時より幾分か物が整理された部屋を見回すと、ちょっとした達成感が湧いて、我に帰る。
 何をやっているんだ俺は。
 本来ならば、酔っ払いの介抱だけならまだしも、部屋の片付けなど、ヒーローの領分ではない。多少気にかけていたからといって、ここまでやるのは、まるで下心があるかと勘違いされやしないか。いや、もう、済んだことだ。勘違いされたところで、彼女に言われてやったことだ。説明が通らない頭ではないだろう。
 ともかく、すやすやと安心しきって眠っている顔を見るに、なんだか、今夜の彼女は救えたような気持ちになる。
 さて、帰るか。しかし、このままでいいだろうか。
 ベッドに運ぶなど造作もないが、先日暴漢に襲われている彼女を、無許可に抱き上げて恐怖を与えてもいけない。何より寝室までは入り込みたくない。
 何か、かけるものでもないかと周囲を観察していると、ソファで猫のように丸くなって眠る彼女のお尻の下から、だんごになったブランケットが半分覗いていた。
 一応、あらぬ誤解を招かないように、触れる事も起こす事もないように、慎重にブランケットを引き摺り出し、ふわりとかけてやる。満足そうにむにむに動いた口角は、起きている時より一等あどけなく見えた。
「……帰るからな」
 小さな呟きに応答はない。
 さっき玄関を開けるために受け取った鍵は、そのまま玄関の靴箱の上に置いてある。俺は、何か、書き置きを残すか迷った末、やめて部屋を去ることに決めた。
 どうせ、また会うだろう。
 部屋の電気を消して、そっとブーツを履き、ゆっくりとドアノブを下げる。
 冷え込んだ風に肺は驚いて、室内との寒暖差にぶるりと筋肉が震えた。慎重にドアを閉めて鍵をかけたが、鍵をポストに返却したらどうせ音が鳴ると気付いて馬鹿馬鹿しくなった。
 ガチャン、と金属同士のぶつかる音が、静かな廊下に大きく響く。
 予想外に巻き込まれて柄じゃない事をしたせいか、無意識のため息が、ふぅっと真っ白く視界に広がった。
 夜に男を部屋に入れるなど無防備なやつだと思ったが、ヒーローとしての信頼を受けるのは、なんとも、やはり悪い気はしない。
 緩みきった寝顔を思い出し、不思議な満足感を感じながら、俺はのんびりと家路を歩いた。

 その翌日の、昼のこと。
 非番の俺は、消耗品と食料品の買い出しをしていた。ついでに猫缶や雑誌も買って、大きな袋を両手に下げて大通りを歩く。
「あ、イレイザー!」
 溌剌とした声が、青に変わった横断歩道の向こうから俺を呼んだ。
 渡ろうと踏み出しかけた足をピタリと止めて、道路の向こうへと視線を泳がせる。声の主は一瞬でわかった。何しろ、ひらひらと手を振っているナマエがいたから。
 彼女は、一緒に歩いていた男に声をかけると、そいつを置き去りに、白帯ばかりを踏んで駆けてきた。
 無装備で私服で、完全なるプライベートな買い出しの帰りに、まさかヒーローネームを叫ばれるなんて。というか、ヒーローとして助けた相手に、プライベートを見られるこの気まずさは何なんだろう。
 冬の薄ぼんやりした太陽を浴びながら、青信号を渡ってきたナマエは、俺の眉間の皺など気にもとめずににこりと笑った。昼間に見るのが初めてだからか、心なしか顔色もいいように感じる。
「イレイザー、こんなにすぐ会えるなんて。よかった」
 どうせまた会うとは思ったが、この邂逅はあまりにも、早すぎやしないだろうか。

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