出会いはNovember

 冬の寂しさを孕んだ夜の風は、キンと冷えて頬に染みる。目まぐるしい一日を乗り切ってオーバーヒートしそうな脳にはちょうどいい心地よさだ。
 今日は全員が定時で上がれたサクセスデー。会社の施錠をする一人を見守って、ビルの前で留まっている同僚たち。みんな疲労の中にも晴れやかな表情で、各々が退勤後の楽しみを頭に描いていることだろう。
「ミョウジさん、お疲れでした。また明日」
「お疲れさまでした」
 駐車場や駅へ向かう面々に笑顔でお辞儀して、私は一人、反対方向へ歩き出す。徒歩圏内のアパートは、鳴羽田《なるはた》の住宅街の中でも少し寂れた場所にある。
 治安と安さを天秤にかけて、安さを優先したのだ。おまけに、交通機関が必要ないため、私の時間は運行ダイヤに左右されない。通勤に時間がかからないというのは、実に合理的だ。
 私の今日のこれからは、コンビニで夕食を調達して、それから帰って資格の勉強。
 仕事柄――個性が原因で就職困難な人たちのサポートをしている――様々な年代の様々な個性の様々な境遇の人と、その人の人生について考える。まだ一年目である事と、年齢の若さゆえ、悩みに対する共感力や提案力を人生経験で補えない私は、専門知識を学ぶしかない。
 例えば、リラックスすれば個性を制御できるならば、その人に合ったリラックス法を模索する。そういう時、交感神経、副交感神経が、といった体の仕組みから、アロマの効能まで、使える知識は幅広い。
 だから、経験も、知識も、あればあるだけ良いのだ。
 闇夜に煌々と光るコンビニに入ると、もはや顔馴染みの店員さんが会釈をくれる。昨日と同じラインナップの棚を眺めながら、明日の朝食用のパンといつもの缶チューハイを抱えてレジに並んで、夕食用に肉まんを注文した。
 私と同じように、仕事終わりの会社員が多い店内だけれど、人目が多いのはここまで。
 コンビニを出て、アパートに近づくにつれて、街灯は減ってゆく。数年前、高速道路が開通して以来衰退の一途を辿っているらしいけど、それでもこの辺りはファミリーも住んでいて、治安が悪いと言うほどじゃない。
 ただ、取り壊しが決まったのに、なかなか取り壊されない四棟の団地は、窓ガラスが割れていたり落書きがあったりと不気味な雰囲気がする。
 その向こう側に、私の住むアパートがある。
 暗いだの人がいないだの不気味だのマイナス要素は多々あれど、一年以上この道を通っていて、物騒な出来事にあったことはなかった。
 だから、油断していた。澄んだ夜空に月がはっきり出ていたし、仕事の充実感も相まって強い気持ちでいた。肉まんが冷める事なんか気にして、普段より少しばかり近道するために、団地の敷地を抜けようと立ち入り禁止のロープを跨いでしまった。
 街灯なんて一つも点いていない。集合住宅の大きな建物に挟まれた空間は奇妙な静寂を湛えて、早足の靴音だけがそこに波紋を散らした。心臓の音が大きく感じて、少しの後悔が背中を冷やす。
「――っ!」
 突然、建物から伸びてきた長い影が、グンと私の腕を引いた。
 重力が狂う。何が起こったのか判断する間も無い。バタバタと強引に建物の中に引き摺り込まれる。人のものとは思えない、べっとりとした感触が体のいたる所に当たっていて、もつれる脚を半ば引きずられ、集合ポストを通り過ぎて階段を登る。
 悲鳴を上げたいのに、自分の体をコントロールできない。
 ドン、と背中を壁に押しつけられた衝撃で肺がヒュッと異様な音を上げた。止まったことで、ようやく目が機能を取り戻す。
 階段の踊り場。頭上の窓から月明かりを受け、至近距離で肌色といえない肌が艶めいている。息を荒げ、いくつかの触手のような腕で私を拘束する異形の男は、タコとかイカとか何かそんな個性なのかもしれない。
 どんな経験も知識も、私にはあるだけ良い。とはいえこんな経験は御免こうむりたい。
「な、なに、するの」
 男の興奮した呼気にかき消されそうなほど、酷く震えたか細い声が暗闇の中に溶ける。目の前でギラギラ光る濁った眼が、怯える私を見てニィっと三日月のように歪んだ。
 あぁ、ヴィランだ。仕事の引き継ぎができないまま、私どうなっちゃうんだろう。鳴羽田美人OL殺人事件の見出しでニュースになるんだろうか。それとも行方不明で捜索願い? 田舎のお母さんごめん。危険な道を通った私のバカ。これが一瞬の判断が命取りってやつ?
 腕も首も壁に縫い付けられた状態で、足首に触れていた一本の触手が、ずずっと太ももへと這い登ってきた。気色悪い粘膜でべっとりと内腿を汚しながら、その先端が目指す場所など、疑問に思う余地も無い。
 最悪。気持ち悪い。臭い。
「ゃ、やめて! やだ」
「何やってる」
 低い声に、ヴィランはビクッと全身を跳ねさせて背後へと振り向いた。
 誰か来てくれた。のに、入り口付近にいるであろう声の主は、ヴィランへの攻撃をはじめない。
「それは、同意か?」
 気だるそうな確認。まさか。敵が私の口を塞ぐ前に、必死で希望の光に縋り付く。
「ちがっ、たす、むぐ」
 筋肉の塊のような触手がすぐに私の口を覆い隠した。ヴィランは入り口を睨んだまま。鼻まで塞がれちゃって、息ができない。
「んんー!」
 苦しい。怖い。伝わったの? 助けて。ぎゅっと目を閉じて祈るしかない。
 目を閉じていたから、何が起こったのか分からなかった。
 どすっと鈍い打撃音。ヴィランの怒号。呻き声を最後に静かになったと思ったら、私は一気に全触手から解放されて、気付けば床に崩れ座っていた。
「大丈夫か」
 埃っぽい空気がひゅっと喉を通って肺を満たす。咳き込む薄暗い視界で、近づいて来た真っ黒のブーツが私の前で止まった。長身らしい長い脚の間から、向こうが見える。階段の下に転がったヴィランは、縛られて気絶しているようだ。
 ありがたい。どこの誰か知らないけれど助けてくれてありがとう。胸に安堵を抱えて視線を上げ、絶望した。
「うっ、わ」
 最悪だ。ヴィランから助けてくれたのかと思ったのに、私を見下ろしているのは、獲物を横取りに来た別のヴィランだった。
 ボサボサの黒髪は俯いた顔にかかって、上下黒尽くめの服、首には何か細い布をぐるぐると巻いている。触手が無いから、このヴィランは布で私を縛るんだきっと。
「安心しろ。ヴィランは拘束した」
「あ、安心って、何それ、どうするつもりなの」
「どうするって、いや……俺はヒーローだ」
「は? こんな不審者じみた格好でよくヒーローだなんて、え」
 騙されると思ったの? と言う前に、眼前に差し出されたヒーローライセンス。ぱちりと瞬きをしてピントを合わせ、カードを凝視する。
 抹消ヒーロー、イレイザーヘッド。
 ライセンスの顔写真と、私を見下ろす実物を交互に見比べると、確かに同一人物のようだ。けれど、ライセンスの写真すらヒーロー感は無い。本物なのか、ライセンスごと偽物なのか。
「アングラでやってるとこれくらいの格好がちょうどいいんだよ」
「え……本当に、ヒーロー?」
「本当に、ヒーロー」
「じゃあ、えっと、家に帰っても……?」
 遠くに聞こえたパトカーのサイレンがどんどん大きくなってきた。いつの間に連絡したのか、警察は確実にここに向かっているらしい。
「悪いが、帰宅前に警察だ」
「あ、はい」
 偽造ライセンスの可能性は、疑わなくても良さそうだ。
 イレイザーヘッドは、ライセンスをポーチにしまうと、今度は大きな手を差し出した。
「立てるか? 怪我は?」
「わぁ、ヒーローっぽい」
「……大丈夫そうだな」
 パトカーが裏手に着いたらしい。赤い光が、踊り場の窓から差し込んで天井を染めた。
 手を借りなくても立ち上がれるんじゃないかって、ちょっと考えたけど、思った以上に全身が震えていて無理だった。大人しくその手に頼ると、イレイザーは私の状態をしっかりと観察して、グッと立ち上がらせるだけじゃなくすぐに体を支えてくれる。
「ありがとうございます」
 手が、暖かくて力強い。そんな事だけで、恐怖に支配された心が一気に緩んで、立っているのすらやっとなくらい力が抜けてしまって、情けなくも黒い服にしがみ着いた。
「その状態だと階段は危ないな。抱えるよ」
 肯定も遠慮もする前に、イレイザーは私の背中を支えたまま、少し屈んで膝裏に腕を当てた。
「ひっ」
 ひょいと横抱きにされて、思わずぐるぐる巻きの布ごと彼の首にしがみつく。
「うわっぷ、これ邪魔」
「我慢してくれ」
 腕のたくましさと抜群の安定感にヒーローを感じる。階段を降りて、気を失っている敵の横を通る。動き出すんじゃないかって恐怖で、イレイザーに捕まる腕に力が入った。自分で歩いていたら怖くて立ち止まったかもしれないから、ちょっと申し訳ないし恥ずかしいけれど抱えて貰って助かった。
 口元をくすぐる布は、よく見ると、敵を縛っているものと同じだ。そうか、これはヒーローの武器なのか。
 建物を出ると同時に、警察の人が私たちを発見して、バタバタとヴィランの確保に動く。私はイレイザーに抱えられたままパトカーへと案内された。
「大丈夫か」
「あ、全然! 何もされる前に助けてもらえたので、ハハ、ありがとうございます」
 あまりに衝撃的な出来事すぎて、逆に笑えてきた。感情がバグるってこんな感覚なのかもしれない。客観的に見て、笑って済む状況じゃないのは理解しているのに、平気平気と元気に言いたくなってしまう。
 イレイザーは私をパトカーの後部座席に乗せると、警察に呼ばれて去っていった。
「車、閉めますね。少し待っていてください」
 車内を覗き込んだ女性警官は、ニコッと笑ってドアをしめた。おそらく、今ヴィランの搬送準備をしているんだろう。何人もの人があちこち行ったり来たりして、それから集まった野次馬の対応もしているらしい。
 ポケットのスマホを取り出してみたものの、指が震えてしまって上手に使えそうにない。大きく深呼吸して、落ち着け落ち着けと唱えて、膝の上で手をグーパーさせる。じんわりと指先に温度が戻ってきて、どれだけ冷えていたのかと驚いた。
 帰宅して勉強する気分ではなくなってしまった。というか、これからどれくらい時間がかかるんだろう。被害者って事で事情聴取? のパターンかな。なんだかドラマみたいで、ふわふわと現実味がない。団地の敷地に入った事怒られるだろうか。
 コンコン、と窓をノックする音に、俯いていた顔を上げると、ガラス越しにイレイザーと目があった。彼は、私のバッグとコンビニの袋を窓から見えるように上げて、それからそっとドアを開けた。
「荷物、これだけで間違いないか確認してくれ」
「わ、私の肉まん」
 もうほとんど冷めてしまった柔らかな塊を確認する。この肉まんが冷めないうちにって思って団地に入ってしまったんだ。ほかほか肉まんを楽しみにしていた気持ちは恨みに変わる。いや、肉まんは悪くないんだけど。
「貴重品より食べ物か」
 イレイザーの冷静なツッコミに、バッグの中もしっかりと確認する。財布の中も含め、貴重品に異常なし。問題なし。ほっとした途端、ぐうっと響いた腹時計。
「パトカーの中で、食べてもいいかな」
「いいんじゃないか、署に着くまでに食べ終わるだろ」
「いいかな。一応聞いてから食べようかな」
 イレイザーは、ふっと薄く笑顔を浮かべ「食べて元気になるならその方がいい」と言った。
 さっきより明るいせいだろうか。それとも、表情が柔らかいせいかもしれない。なんだか、イレイザーが、不審者じゃなくてちゃんとかっこいいヒーローに見えた。
「お待たせしました」
 警察の人が戻ってきて、運転席に乗り込む。
「あの、本当に、ありがとうございました」
 イレイザーは無言でドアをバタンと閉めて、片手を上げて挨拶をくれた。月明かりを受けて佇む長身は、角を曲がるまでずっとパトカーを見守っていた。
 何でもない帰り道のはずが、とんでもない日になってしまった。
 私は、きちんと許可をもらって、ギリギリ冷え切っていない肉まんにかぶりつく。食べ慣れているはずの味を、舌はあまり感じ取れない。
 事件のことを頭から掻き消すように、私は一生懸命に、明日の仕事のことを考えていた。

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