せんせいはまたたび

 私は相澤先生に好かれていると思う。
「せーんせっ」
 自信はまだない。そう感じるのは私の個性が猫で、先生が猫好きだからかもしれない。けど、それだけじゃないかもしれない。
「はにゃ、寝てる…」
 ベンチに寝転がる長い躯体。脚ははみ出して、ブーツがきちんと地面を踏んでいる。貴重な個性を宿すその瞳はぴたりと閉じていて、規則正しい呼吸だけが小鳥の囀りの中に漂っていた。
 ここは、私がよく訪れる、校舎南のベンチ。校舎を囲む林に程近く、猫以外はあまり来ない。たぶん元々相澤先生が一人で休憩したい時なんかに来ていたんだろうなと思う。私が入学してからは、半分横取るように私もここをお昼寝場所に利用していた。
「……私の場所が無いじゃあないですか」
 とても朗らかないい天気だったから、私はここに日向ぼっこ兼お昼寝をしにきたのに、ベンチは大きな体に占領されていた。
 相澤先生は寝袋を持って来ていながら、ベンチの背もたれにかけているだけで使っていない。つまり、これをちょっと借りたとて、迷惑にはならない、はずなのである。
「仕方ない、お借りしますね」
 派手な黄色のそれを、ふわりと持ち上げてみる。想像以上の軽さに驚いた。
 ベンチの前に並行に、それを広げてみる。なかなか良さそうである。
 さすがに持ち主に無許可で中に入って寝るのは忍びない。つやつやした表面にころんと寝転べば、柔らかな芝生と寝袋の綿でなかなかに寝心地がいい。草の青々とした香りが近くて、お日様をたくさん吸い込んだ寝袋の何とも言えない暖かさ。寝る。眠るにとても良い。
 横のベンチで先に夢の世界へ入っている相澤先生を見上げる。その横顔の、綺麗な鼻筋の流れと、薄く力の抜けた唇までの短い距離を視線で辿る。端麗な顔立ちだなぁとぼんやり思うけれど、うとうと下がる瞼に、まるで夢との境が分からなくなっていた。

「しょーたさん、しょーたさん」
 見慣れた私の部屋で、相澤先生はキッチンに立っていた。私はなんだかとってもキュンとして、楽しい気分で、ぴょんとじゃれて後ろから抱きつく。
「わかってるよ、大人しくしなさい」
 相澤先生は、がさがさと袋を開けて、小皿にザラザラと何かを出した。いい匂いがする。クンクン鼻を鳴らして待っていたら、お皿はコトリ、床に置かれた。
 にゃにゃ! 煮干し♥ 嫌いじゃないけど、私個性猫なだけで、床でご飯は食べないし、普通にハンバーグとかエビフライが好きなんです。
 おかしいな。口を開いても、うまく声にならない。
「待てができるなんてお利口さんだね」
 相澤先生は、見惚れるほど優しい笑顔で私を見下ろしていた。ふわふわと頭を撫でてくれる大きな手。相澤先生がずいぶん屈んでいて、私そんなに小さくないのにって、何だか変な感じがして、でも撫でられるの気持ちいい、顎の下はだめ、ふにゃーってなる。
「可愛いな」
 その優しい笑顔も溶けるような声も、ぜーんぶ独り占めしてるなんて、贅沢――。
「おい」
 え、突然怒ってどうしたの? 煮干しなかなか食べないから心配してるのかな。ん。ん? いや、これは違うな。
 瞼の裏がオレンジに染まって、網膜が光を捉える。意識が覚醒する。幻は幻のまま、どこか頭の奥に消えてゆく。
 夢で、あー、全部夢で、この声は現実……。
「おい…… ミョウジ」
 狸寝入りはバレていないらしい。躊躇いがちに、私の名前を呼んでくれる低い声が、耳を幸福にする。決して揺すったりしてこないのは、セクハラと言われないため? 女の子への配慮がしっかりしてて、そこも好き。
 寝ぼけた事にしてしまえば、夢の中と勘違いしたと言い訳をすれば、好きって言ってもいいかな。先生はどんな反応するのかにゃ。
「むにゃむにゃ、せんせぇ、すき……」
「……オイ」
 ベシッとおでこを衝撃が襲う。
「あてっ」
「ふざけるな、起きてるだろうが」
 揺すらないけど叩くのね。
 おでこを摩りながらパチリと見上げると、未だベンチに転がったままの先生が、そこから手を伸ばして厳しい顔をしていた。
「うぅ。何で寝たふりだってバレたんですか」
「あんなわざとらしい寝言があるか」
 さすがプロヒーロー、その辺の男子高校生と違って、騙されちゃくれない。
 空を見上げて、少し眠そうに目頭を抑えた先生は、私の視線を憚る事なく「くぁ」と大きなあくびをした。綺麗な歯並びを日の光が照らす。なんだか先生の方が猫みたい。
「お口おっきいですね」
「はぁ。見てないで、起きたならソレ返しなさい」
 先生は私の下に敷かれた寝袋を指差した。
「あ、すみません、勝手に使ってしまいました」
「いーよ、俺がベンチ占領してたからだろ」
 そうだ、寝袋借りてたんだった。パッと起き上がって、持ち上げた寝袋をポフポフ叩いて草屑を落とす。先生は身体を起こしてベンチに座ると、だるそうに膝に肘をついて、寝袋を折りたたむ私をぼうっと見ている。といってもまぁ、見ているんだか、見ていないんだか分からないぼんやりした顔をしている。
「随分いい夢見てたみたいだな」
 あくびをした時とは打って変わって、非常に小さく動いた口が、ポツリと、吐息みたいな声を漏らした。ぱちくりと先生を見つめて、首をかしげる。だって、寝たふりをして、わざと寝言を言ったことはバレてたはずなのに。なぜ私が本当に夢を見ていたと思うのか。
「……私何か他に寝言言ってました?」
 先生は一瞬まつげを伏せて、それから、ニヤリと私を見上げた。
「俺の名前、呼んでたよ」
 みゃ、と変な声が出た。俺のこと、じゃなくて、俺の名前。その意味が脳みそを揺らす。夢の中で呼んだ覚えは、あるから困る。
 顔が熱を集めて、私はたたみ終わった寝袋をぎゅっと抱きしめた。
 私たちはお互いに、恐らく、私の感覚で言えば、好き同士なのだ。直接表現なんてしないし、ましてや付き合おうとかそんな気持ちは今のところ無い。なぜなら教師と生徒だから。
 ただ、それでも節々からこの好意は悟られていると思う。相澤先生は――先生の気持ちは、よく分からない。生徒なんて恋愛対象にならん、と言いそうでもあるのに、時々残酷に特別扱いをしてくれる。そう、チョコをくれたり、膝まくらしてくれたり。
 そう。お互いそう、何も言葉にしない。もしくは完全に冗談や悪ふざけの類でしか伝えてこなかった。寝言のフリみたいにね。まさか本物の寝言が、願望丸出して下の名前を呼ぶなんて。
 それを先生はどう受け止めてその反応なの。好奇心旺盛なJ Kである私は、ついつい、その心持ちを知りたくなる。
 熱い顔をそのままに、私は大きく息を吸い込んだ。
「とぉっても、いい夢だったんです」
 今度は先生が、ぱちくりとして眉を上げた。その黒点をじっと見つめる。目は口ほどに物を言うを信じている私は、まだ口にできない想いを、視線に込める。自慢じゃないけどくりっと大きな猫みたいな目に、いっぱいいっぱいに甘い気持ちを詰め込む。
 風が木々をざあっと揺らしてやっと、私たちは瞬きを思い出した。緩んだ緊張に便乗するように、絡まっていたはずの視線が逃げていく。その関心が、木々の間からゆったりとこちらへ歩いてくる猫に奪われた。
 伝わらなかったかな、それとも迷惑だったのかな。もし、もし先生の好意が勘違いじゃないなら、何かしら反応してくれてもいいじゃない。
 むぅと唇に力を入れて、抱きしめすぎてシワのできた寝袋をふわふわと整えていたら、フっと吐息が聞こえた。
「こんなおっさんのどこがいいんだか」
 綻んだ顔の、その目は私よりよっぽと饒舌に愛を語っていた。滲んで聞こえた愛しいは、猫に向けるのとは違うそれで。私の心は得意になって、調子に乗って、言えもしない軽口を叩く。
 センセ、バレちゃってますよ、漏れ出ちゃってますよ。教師と生徒ですよ。私が先生への好意を口にするのはギリギリ許されるけど、先生が私に思うのはしっかりキッチリ隠さないと、まだ、ダメじゃないですか。
「んー、たくさんありすぎます」
 ニヤニヤと勝手に動く表情筋が、喜びを隠せていない。
「ハイハイ、ありがとね」
「全部聞きます?」
 先生は徐に立ち上がって、寝袋を私の腕の中から攫っていく。その面様は、いつも通りの無気力を取り戻していた。さっきまで見下ろしていた頭が、見上げる高さにやってきて、なんだか夢を思い出す。
「いつか、ね」
 大人でご立派な先生は、もうすっかり私への気持ちなんてその目にも頬にも出さないで、そのくせとんでもない事を言ってのけた。
 身を翻して校舎に戻ろうとする後ろ姿は、もう仕事モードだ。私の冷静は、今先生に奪われたってのに。
 卒業したら、告白してもいいんですか。先生の好きなところ全部聞いてもらっていいですか。その前に寒くなって来ますけど二人の場所を校舎内にも作りませんか。バレンタインがありますけど義理に見えれば渡していいですか。
 まるでほんのちょっとの餌を必死に舐めるみたいに、あんな一言で、嬉しさに舞い上がってしまって悔しくなる。
 あぁ、卒業が待ち遠しい。三年も必死にこの身体の中に閉じ込め続けた気持ちを、早く爆発させてしまいたい。でも、そんなこと、ダメだから。
「ねぇ、せんせ」
 数メートルの距離、「なんだ」と低い声が半身で振り返る。
「私、猫ですけど」
 先生は、無表情のまま、柔らかな風に髪を靡かせている。
「待ては得意なんですよ」
 我慢します。卒業まで待ちます。だからどうか、待ってる私を待っててください。
 先生に届いたかは、嗅ぎとれない。行く道へと体を戻しながら、視線だけ最後まで私に残して、先生の唇が動いた。
「お利口さんだね」
 ただ声だけが酷く甘くって、私はうっかり、夢と重ねて、相澤先生が優しく笑ったような気がしちゃって。現実は去ってゆく後ろ姿しか見えないのに。
 あぁ、喜びがほとばしる。キラキラとしたエフェクトが舞う。私はクラリと酔ったみたいに、ベンチに座り込んだ。

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