せんせいとまたたび

 雄英の敷地内に住み着いている猫たちは、校舎の南側、日当たりのいいベンチによく集まる。その理由は簡単だ。猫の個性を持つミョウジが、よくそこで休憩を過ごすから。元々俺がよく気分転換に訪れていた静かなベンチは、いつの間にか猫とミョウジに侵食されて賑やかになっていた。
 満更でもない、というのはこういう時に使うのだろう。猫好きの俺としては、たとえ俺には寄ってこないにしても、そこらにフラフラと猫が現れる空間は癒しだった。
「にゃにゃーん!」
 ある日、可愛い効果音をつけてドヤ顔でミョウジが差し出してきたのは、愛らしい猫の写真の袋。猫にモテちゃう入浴剤。またたびやキャットニップ等、猫に好かれる香り付き、と書かれたものだった。
「どうです、これを使ったら、きっと相澤先生にもたくさん猫ちゃんが寄ってきますよ!」
 ナイスアイディア、と目を輝かせるミョウジは、2度断ってもどうしてもと押し付けてきた。
 面倒になって受け取ったそれを、俺は今朝、無駄に早起きをしてしまった事を理由に、朝風呂でしっかりと使ってしまった。ジョークグッズみたいなものだろう。期待はしていない。けれどせっかく貰って使った以上、試してみたい気持ちも少なからずあって、結局俺は午前の仕事をきっちり切り良く終わらせて、いつもの校舎横へ向かった。

 そこに、ミョウジの姿は無かった。ベンチに浅く腰を降ろせば、猫は人の気配に少しだけ草木の中からこちらを伺っている。
 なんだ、やっぱり嘘じゃないか。クンクンと試しに自分の匂いを嗅いでみても、普段とさして変わらない。そんなもんさ。
 ふぅ、と背もたれに頭を預けて空を見上げる。高く聳える雄英校舎の、眩しいこと。目を閉じれば、瞼の裏には赤く光が透けて、穏やかに風が林から騒めきを連れてくる。大きく深呼吸すれば、この季節特有の青々とした力強い生命の香りがした。
 ふと、木々の囁きの中、そろりそろりと近づいてくるほんの小さな足音に気づく。ん? もしかして、と首を起こして足元を見れば、一匹の猫が近くまで来ていた。にゃあと短く鳴いたソイツは、俺のブーツやツナギの裾の匂いをフンスと嗅いで、徐に身体を擦り付けてきた。
 まさか。本当に効果があるとは。ゴロゴロと甘え出した一匹に続いて、よく見覚えのある面々が近寄ってくる。なんだこれは。今まで触れさせても貰えなかったのに。猫たちを驚かせないように、最小限の動きでポケットからチュールを取り出して、開封した時、
「あ、相澤先生」
 明るい声に目を向ければ、ミョウジがニコニコとお弁当を抱えて歩いてきた。
「使ってくれたんですね、入浴剤」
「あぁ」
 毎日来るわけでもないのに、どうして今日に限って。なんだか悔しい気分になる。期待しないどころか、使うもんかとすら思っていたのに、まんまとコイツの予想通り俺が喜ぶ展開になったわけだ。
「すごぉい、みんなメロメロだぁ」
 ミョウジは楽しそうにコロコロ笑ってベンチまで来ると、俺の横にストンと腰を下ろした。お弁当を横に置き、背を折って足元に群がる猫に手を伸ばせば、細く柔らかな髪が彼女の表情を隠す。
「ん、んん、にゃるほどぉ、確かに」
 猫を撫でながら、スン、と鼻を鳴らしたミョウジは、突然くるりと首を回して大きな瞳で俺を覗き込んできた。
「どうした」
「いい匂い、します」
 ふわっと胸に寄ってくる小さな顔。鼻をひくつかせながら、小さな手がツナギの腰の辺りを握った。
「おい、何やってる」
「んんー、だってとっても、うむ、これは大変」
 はぁ、と吐いたミョウジの吐息が正常でない熱を孕んでいる。下を見れば、捕縛布のせいで顔は見えないが、ぴょんとはみ出した猫耳がピコピコ揺れている。けしからんだろ、コレは。この状況がだ。
「ふぅ、先生、すごい効果です」
「やめなさい、ミョウジ」
「でもでも」
 するりと胸に頬を押し付けられて、ドキリと心臓が跳ねた。完全に上体をあずけてしな垂れてきたミョウジは、徐々にその顔上へと移動させ始めた。
「コラ」
「あっ! ここ! ここが一番いいです!」
「おい! いい加減に」
 捕縛布をぐいっと引っ張って、首筋に顔を埋めたミョウジの肩を片手で押し返せば、ムッと顔をしかめて、強引に俺に跨ってきた。なんて力だ。まずい。非常に。よろしくない。
 開封済みのチュールを持つ片手には、ベンチに飛び乗った猫が群がってきて、もうカオスだ。耳元をミョウジの猫耳がくすぐってくるし、制服のスカートが乱れて、白い太ももが俺の腰を挟んでいる。猫がにゃーにゃー鳴いて、足元に擦り寄る躯体と、手にはザラザラとした舌を感じる。なんだこの状況は。スカートで男に跨るなんて不用意すぎる、下着が当たってんだろこれ。くそ。
 はふ、としっとり濡れた柔らかさが、鎖骨を撫でる。その唇が、ゆっくりと開いて、口内の生温い吐息が肌に熱を分けてくる。ゾクリと背筋に得体の知れない感覚が走った。
「せんせぇ、ふぁ」
 甘ったるく間伸びしたその声に、脳内で大きな警鐘が鳴り響き、パチンと理性が戻った。
「何やってんだ、離れろっ」
「きゃん」
 ポトリと落ちたチュール。両手で掴んで引っぺがした肩。真っ赤な頬と、濡れた瞳が戸惑って俺を見つめた。ぽかんと開いた口から、八重歯が覗いている。
「か、わ、」
「かわ??」
 こてん、と首を傾げたミョウジは、まだふわふわしたような目つきで、なんですかぁ? と頭にハテナを浮かべている。
「何でもない。離れなさい」
「はぁい、ごめんなさい。我慢できなかったんです」
 へにょりと下がる猫耳。もそもそと膝から降りたミョウジは、さっきより少し理性的な顔つきになっている。さぁっと熱を奪うような風が、俺たちの間の邪な雰囲気を吹き飛ばしていった。
「うーん」
 立ち上がって両手を上に大きく伸びをしたミョウジは、まだバクバクと心臓のうるさい俺とは対照的に、パッと爽やかな笑顔を浮かべた。
「お腹すいちゃいました!」
 はぁ?
 さーてお弁当食べよっ、とベンチに座り直して、膝の上で包みを解く、その切り替えの速さはどうなってんだ。
「……俺は戻るよ」
 とても今一緒に朗らかな時間を過ごす気分にはなれない。立ち上がれば、猫たちがさっと離れて行った。
「ねぇ、先生」
 3歩、歩いた背中に鈴のような声が届く。振り返れば、意地悪く細めた目が愉快そうに俺を見つめていた。
「あれが売ってたお店、教えましょうか?」
 不思議なことに、返事は口から出なかった。ほんの少し、彼女のその言い得ない艶麗を睨んで、俺は背を向けた。
 ニャー、と一匹ついてきた猫が、沈黙は肯定ですよ、と笑っている気がした。

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