憧れと思い出

 絶対に定時で上がってみせる!
 記念すべき特別な金曜日。今日ばかりは、その気合いは段違いだった。
 大手サポートアイテム製作会社の子会社に勤めて数年。慣れた環境での業務は見通しも立てやすい。今日ならいける。後輩のミスには先手を打ち、トラブルは効率的に対処し、やるべき仕事を時間内に終わらせる成算がある。
 脳がドーパミンを出す音を感じるほどの奇跡的な集中。何の苦にもならないしゃかりきで順調に全ての仕事をこなし、見事定時に退勤を決めた私は舞い上がっていた。
 毎日帰宅するアパートのドアでさえ、夢の国への入り口に見えた。きっと声が出てたら鼻歌なんか歌っていただろう。
 お楽しみは、深夜一時から。
 そのために、お風呂も食事も手早く済ませ、バッチリと仮眠して疲れも眠気もスッキリ。マグカップにたっぷりのコーヒーを淹れて、万全の準備を整えてラジオを点ける。
 山田くんの、いや、プレゼント・マイクのラジオ番組が、今からはじまるのだ。
 雄英を卒業した山田くんは、ヒーローデビュー直後からそのキャラクターでメディアへの露出が多く、雑誌やイベント司会まで幅広い活動を行っていた。ヒーロー活動に留まらないのだけれど、メディアを通した彼も確かに人を救うヒーローだった。誰も傷つけないで笑いを生む彼のトークに、私も何度も元気や勇気をもらったのだ。
 彼がラジオ活動もはじめたと知った時、身体中の血が沸くほどの喜びを感じた。
 既存番組のミニコーナー担当から、準レギュラー、マンスリーパーソナリティなどラジオ活動も経て、ついに、冠番組を持つまでになったのだ。
 しかも、深夜帯四時間生放送。
 彼の明るいトークは、深夜のワーカーも、夜泣き対応中のママも、徹夜の学生も、あらゆる人にパワーを届けるだろう。
 番組製作が決定したときからずっと楽しみにしてきて、必ず必ずリアルタイムで聴くと決めていたくらいには、私は彼を応援し続けている。
 まだ高校生だったあの頃、俄かに胸を焦がした思春期特有の倒錯はすっかりと鳴りを潜め、色も形も変えて久しい。
 今はただ、画面の向こうの憧れ。密やかにその活躍を見聞きするだけで嬉しくて、推しという感覚だ。
 ああ、もう始まる。
 私はソファでぎゅっと手を組んで、その時を待つ。彼が登場するラジオは何度も聞いているのに、とてもドキドキする。
 プレゼント・マイクのファンとして、そしてかつての専属ミキサーとして、いちリスナーとして。
 さぁ、楽しいラジオを聴きましょう。
 電波に乗った明るい電子音。幕開けはド派手な演出で、彼の声がタイトルをコールした瞬間、あぁ始まった、と感慨に浸って目を閉じた。
 張り切ってるなぁ。この前出ていた雑誌ではちょっとクールな感じに決めてたけど、ノリが深夜の山田くんはやっぱり面白い。これじゃあ幅広く人気が出るのも頷けるよね。過去放送分って配信期限あるのかな。まだ始まったばかりだけど。
 ゲストの紹介も、話の振り方も本当に上手。初回ゲストは以前から共演したことのあるヒーローで、慣れた掛け合いが心地いい。テンポが良くて面白くて、作業用BGMにするには手を止めて聞き入ってしまいそうで向いてないかも。
『エビバディ! ガンガン送ってくれよ! 初のおたより募集だぜ? オイ、フリじゃねーからな?!』
 リスナーにメールアドレスやハッシュタグを知らせる山田くんは、リスナーにジョーク混じりで呼びかける。
『今日のトークテーマは、真夏のメモリー! 甘酸っぺ〜のから、男臭いのまで頼むぜマジで!』
 彼は、ゲストに夏の思い出話をきいて、巧みにトークを広げている。
 夏の、思い出。
 山田くんの声でそう問われると、私の意識は、ふわりとあの日へ飛んでいった。
 しがみついた背中の温度、夜空に広がる光の大輪と、お腹の奥まで響く打ち上げ音、サングラスの横顔、隙間から見えた瞳の色。
 いつでも鮮明な記憶は、胸の締め付けられるような疼きを伴いながら、いつだって私の背中を押してくれた。
『おっ、早速サンキュー! 祭りのおたより多いなァ!』
 よさこいに青春を捧げた話、初めて生のねぶたを見た話、お祭りの人混みで迷子になった話など、どれも面白おかしく突っ込みながら紹介していた彼は、不意に、俺は、と自分のエピソードを語り始めた。
 心臓がどきりと跳ねて、湧き上がった淡い期待をかき消すように首を振る。
 なのに。
『高二の、花火大会かなァ』
 息が止まった。キンと全神経が彼の声を拾う事に集中して、口元を抑え、スピーカーを食い入るように見つめる。
 大きな口が、どのように動いているのかまで想像できてしまうような、色のある音が響く。
『もう時効だと思うから言っちゃうぜ? 当時やってたラジオの相棒がいてサ、花火の音を録音しに行ったことがあって』
 うそ。
 じわ、と涙腺が感動を押し出して瞳を濡らす。
『録音してっから、喋らないでひたすら花火をね、みてンの』
 懐かしむような彼の声が、遠くを見るあの目を連想させる。
『あの頃全力でやってたラジオが楽しくて、今の俺の活動に繋がってるっつーか、あの時のラジオの延長線上に、このぷちゃラジがあると思ってる!』
 信じられない。とっくに過ぎ去った何気ない日々の一部じゃなくて、私が彼の特別な思い出の中にいることが。
 原点なんだね、とゲストに言われてザッツライと答えた彼は、次のコーナーへ行くためにトークを締めた。
『届くかわかんねーけど言わせてくれ! サンキュー!』
 BGMが切り替わり、ミニコーナーのタイトルが叫ばれる。
 憧れと尊敬と胸の高鳴りが混ざり合った、青春の鼓動が蘇る。
 山田くんとの出会いが、私の人生の転機だった。私も、あの頃の私が今の私を作っていると思う。
 全身に波打つような感激を、どう処理すればいいのか分からない。
 私も。山田くんに、ありがとうを伝えたい。大した事できてなかったけど、誘ってくれてありがとう。私も楽しかった。嬉しかった。人と関わることは怖いばかりじゃないって知れた。山田くんのサンキューが、ちゃんと私まで届いたって、私こそサンキューなんだって伝えないと。
 続きのコーナーが何だったのかも、山田くんが初回にセレクトした楽曲も、頭に入ってこない。
 私の指は、まとまらない感情をどうにか文字に起こそうと、スマホの上を右往左往してメールを打つ。
 書いては消して、書いては消して、少しでも、ありがとうとおめでとうが届くように。
 生放送の終盤、ようやく送信ボタンを押した。伝えたい事はたくさんあったけど、結局、個人的すぎる内容はダメだと思って、書き直した。
 ぷちゃラジスタートおめでとうございます。それから一応トークテーマに絡めて、私も高二で見た花火が一番の夏の思い出で、当時一緒に見てくれた人に私もサンキューと伝えたい、といった事だけ。溢れる感情を押し殺した、当たり障りのないメール。
 きっと読まれることもないし、山田くんだって私だとは気づかないだろうと思うけど、それでいい。
 ソファにパタリと倒れこみ、ラジオの音に集中する。
 心地よく楽しめていたはずの彼の声が、もう、全く変わってしまった。ドキドキして、体が熱くなる。
 私の中ですっかり遠い存在になっていたヒーローのプレゼント・マイクが、あの頃の山田くんに繋がってしまった。ただのファンの一人だった私は、彼のラジオの原点にいた。
 どうしよう。懐かしさに押し潰されそう。もう手なんて届くはずもないけど。
 あの縁日、いつやるんだろう。
 スマホに指を滑らせて、神社を検索してみる。そんなに大きなイベントじゃないけれど、情報はすぐに出てきた。
 SNSに上がっていた縁日のチラシは、あの頃とは全く違うデザインのくせに、デカデカと日付が書かれているところだけ変わらない。縁日は、来週の土曜日。
 仕事は、休みだ。

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