先生は、これでおしまい
「好きです、先生」
目眩く青春の只中に、何度も、何度も、彼女は冗談みたいに明るく、俺のようなオッサンに向けて恋を投げつけた。
「色恋にかまけている時間があるなら、もっと強くなれるように訓練でもしてろ」
そんなニュアンスのことを、何度も、何度も、返していた気がする。
* 先生は、これでおしまい *
卒業後、会うのは初めてだった。
地方に応援に呼ばれ、ヒーロー活動をした帰り道。そういえばアイツはこのへんの事務所だったか、と暖色に染まる通りを歩いていると、先生先生と大きな声で呼び止められた。
元気で可愛い、という言葉が似合う彼女の声を忘れるはずもない。
眩いヒーロースーツを身に纏い、まるで学生に戻ったようにニコニコと嬉しそうな彼女は、色気もへったくれも無いお願いをする。
「先生! 久しぶりに戦闘訓練してくれませんか」
俺は、この時を待っていたのかもしれない。
「あぁ、いいよ」
自分から出た声が、なんだかふわふわしていて驚いた。
「負けても泣くなよ」
慌てて厳しい事を言うつもりが、子ども相手のような物言いになってしまって、奥歯を噛んだのは秘密だ。
ルンルンと軽い足取りの彼女に連れてこられたのは、広い公園のグラウンド。
そっからは、個性使用禁止、武器サポートアイテムの類使用禁止、急所ありハンデなしの格闘バトルがはじまった。
彼女が在学中は、かなりの時間こうしてぶつかり合ってきたものだ、と、懐かしむ暇もない攻撃と防御の応酬。
剛柔バリエーションに富んだ彼女の体術は、個性に頼らずとも苛烈にして寛雅。想像を超えるアクロバティックさで、組み合うと間近で反射神経の意表を突いてくる。
プロヒーローとして現場に出るようになって、その動きにはますます磨きがかかった。
「そろそろ、先生のことっ、倒せそうな気がします!」
元担任として誇らしいほどに、強い。卒業の頃彼女に体術で敵う生徒は一人もいなかった。
捕縛布がありゃ、なんて思ってしまうんだからよっぽどだ。けれど。
「あ゛? もう一回言ってみろ」
まだまだ負けてやるものか。
恐らくあと数手。間違えなけりゃ彼女の足を掴めるだろう。
「ふぎゃ」
ほら。空中で捕まえて、動きを流すように回転させて地面に放り投げる。およそ女の子にするべきじゃない荒技も、彼女は難なく着地を決めて土埃を纏う。
低い姿勢から、立ち上がる。風に髪を靡かせて、真っ直ぐに俺を見つめる好戦的な瞳。その姿はまるで、スモークの中歌うアイドルだってのに、マイクじゃなくて拳を握って、武術に舞うのだ。
「まだいけるだろ」
「いけるに、決まってるじゃないですか!」
「その意気だ」
地面を蹴り、拳を振りかぶり、フェイントをかまし、ステップを踏み、ディフェンスでいなす。なんて無駄がなく美しい身のこなし。
「先生! あの、伝えたいことが、あるんですっ」
「無駄話とは、余裕だ、な」
受け流したはずの打撃や、躱して空を切ったはずの蹴りが、派手な音を立てる。
テンポを上げた攻防は、組み合って服を掴み合い、絞技にもつれ込む。完全にキまる前に返し、返されて――。
取っ組み合いの密着で、彼女の肉体のしなやかさと強靭さを肌で感じる。
「あ、やっ、そんなところ触っちゃ」
は?
「おまッ、ぐ」
突然の色気にピクリと思考が停止して、隙をついた絞めが防御の網をすり抜けて首に入る。そのギリギリで力技で振り解いても、体勢を立て直す暇は無く。
「――なんちゃって」
ぐるりと反転した視界。背中を打ちつけた地面。
直感でやられると悟る。焦りから一瞬で、教え子の成長を喜ぶよりも、意地とプライドが上回った。
「おい、っ待て」
そのプライドをねじ伏せる、脳裏にこびりついたさっきの声。俺の腕を足で押さえつけのしかかってきた彼女の、脚の付け根が顔のすぐ、情けないああ俺の負けだ。
「待ちません!」
勝負は決した。
風圧だけが額を掠め、寸止めされた拳が視界を埋め尽くす。
抵抗の意志を持って張り詰めていた筋肉が、降参して力を抜いた意志を受け取って、彼女はその拳を天に突き上げた。
「やったぁ! や、やったぁぁ!」
「……ずるいぞ」
ずるい。ずるすぎるだろ。
俺の上から立ち上がり、両手を上げてぴょんぴょん跳ね回る姿は、子どもみたいなのに。
「やったぁ、やったぁ、先生倒した!」
茜空は高く、寝転んだ俺の上に広大に広がっている。
何分取っ組み合いをしていたのか、僅かに呼吸が乱れている自分対して、彼女は余裕そうに喜びに駆け回っている。
彼女とて、今日一日ヒーロー活動をして、疲労が無いわけないだろうに。俺の動きに全神経を注ぎ紙一重の攻防をしながら、俺を出し抜くために小賢しさまで駆使して、つまりは持てる全てで挑まれただけだけれども。
「元気があって大変よろしい」
負けました、とは口にできなかったが、負けるべくして負けたのだ。若さとは素晴らしい。
夕陽が眩しすぎて、腕が目元を隠す。
笑ってしまう。なんて格好悪い負け方だろう。反則だろ。
「ふふ。せんせ」
彼女は跳ね回るのをやめて、俺の横にしゃがんだ。彼女の作る影が俺を覆うので、腕を退けて、歓喜に輝く瞳を見つめ返す。
「何だ」
まつ毛を震わせて、大きく一つ息をした彼女は、さっきまでの激闘を思わせない可愛らしい笑顔を浮かべた。
「私、強くなりましたね」
「そうだね」
「先生の隣を、歩きたいんです」
「追い抜かす勢いだろ」
クスクスと降ってきた笑い声が、まるで星の光のようにキラキラしている。
「好きです、相澤先生」
負けてしまった今、そんな暇があったら訓練を、なんて跳ね返すことはできない。
何度も、何度も、受け止めたかったのにスルーしてきた言葉を、噛み締めるように受け止める。
「――知ってるよ」
いいのだろうか。もう、この気持ちを隠さなくても。卒業したとはいえ。いや、もう、知ったことか。
何度も、何度も聞いた告白を、また言ってくれたことが、まだ想っていてくれたことが、嬉しくて仕方ない。込み上げるこの気持ちは、誤魔化して隠すには大きすぎる。
「先生、好きです。わ、私と、付き合ってください」
初めて聞く続き。何度も、何度も、飲み込んだのであろう願いが、ついに声となって俺に届く。
嬉しいよ。ありがとう。俺も、好きになってしまった。
けれど、突然に甘い言葉など出てきやしない。長年連れ添った心の蓋は、少しずつしか緩まないのだ。
真っ赤な空を背負って俺を覗き込む、柔らかな頬が土で汚れている。ありがたい理由を得て、拭うように触れる。くすぐったそうに首をすくめて目を細める、仕草のひとつひとつが可愛い。
「あぁ……待ってた」
今はまだこれで、精一杯だ。罪悪感も照れ臭さも。
それでも彼女は、涙を浮かべ頬を染めた。
「お待たせしました」
もう、まったく、どうしたもんかね。
黙ってても愛おしいが溢れる。
何度も、何度も、俺に放られた恋心を、実は大切に胸の内に仕舞い込んできたのがバレてしまいそうだ。
彼女の首を引き寄せ、体を起こす。訓練の続きかと身構えかけた彼女は、ハッとしてから、ぎゅっと瞼を閉じた。
「もう、先生はやめろよ」
攻撃でも防御でもなく触れ合う。
何度も、何度も、こうしたかったんだよ。
だから、おまえの先生は、これでおしまい。
目眩く青春の只中に、何度も、何度も、彼女は冗談みたいに明るく、俺のようなオッサンに向けて恋を投げつけた。
「色恋にかまけている時間があるなら、もっと強くなれるように訓練でもしてろ」
そんなニュアンスのことを、何度も、何度も、返していた気がする。
* 先生は、これでおしまい *
卒業後、会うのは初めてだった。
地方に応援に呼ばれ、ヒーロー活動をした帰り道。そういえばアイツはこのへんの事務所だったか、と暖色に染まる通りを歩いていると、先生先生と大きな声で呼び止められた。
元気で可愛い、という言葉が似合う彼女の声を忘れるはずもない。
眩いヒーロースーツを身に纏い、まるで学生に戻ったようにニコニコと嬉しそうな彼女は、色気もへったくれも無いお願いをする。
「先生! 久しぶりに戦闘訓練してくれませんか」
俺は、この時を待っていたのかもしれない。
「あぁ、いいよ」
自分から出た声が、なんだかふわふわしていて驚いた。
「負けても泣くなよ」
慌てて厳しい事を言うつもりが、子ども相手のような物言いになってしまって、奥歯を噛んだのは秘密だ。
ルンルンと軽い足取りの彼女に連れてこられたのは、広い公園のグラウンド。
そっからは、個性使用禁止、武器サポートアイテムの類使用禁止、急所ありハンデなしの格闘バトルがはじまった。
彼女が在学中は、かなりの時間こうしてぶつかり合ってきたものだ、と、懐かしむ暇もない攻撃と防御の応酬。
剛柔バリエーションに富んだ彼女の体術は、個性に頼らずとも苛烈にして寛雅。想像を超えるアクロバティックさで、組み合うと間近で反射神経の意表を突いてくる。
プロヒーローとして現場に出るようになって、その動きにはますます磨きがかかった。
「そろそろ、先生のことっ、倒せそうな気がします!」
元担任として誇らしいほどに、強い。卒業の頃彼女に体術で敵う生徒は一人もいなかった。
捕縛布がありゃ、なんて思ってしまうんだからよっぽどだ。けれど。
「あ゛? もう一回言ってみろ」
まだまだ負けてやるものか。
恐らくあと数手。間違えなけりゃ彼女の足を掴めるだろう。
「ふぎゃ」
ほら。空中で捕まえて、動きを流すように回転させて地面に放り投げる。およそ女の子にするべきじゃない荒技も、彼女は難なく着地を決めて土埃を纏う。
低い姿勢から、立ち上がる。風に髪を靡かせて、真っ直ぐに俺を見つめる好戦的な瞳。その姿はまるで、スモークの中歌うアイドルだってのに、マイクじゃなくて拳を握って、武術に舞うのだ。
「まだいけるだろ」
「いけるに、決まってるじゃないですか!」
「その意気だ」
地面を蹴り、拳を振りかぶり、フェイントをかまし、ステップを踏み、ディフェンスでいなす。なんて無駄がなく美しい身のこなし。
「先生! あの、伝えたいことが、あるんですっ」
「無駄話とは、余裕だ、な」
受け流したはずの打撃や、躱して空を切ったはずの蹴りが、派手な音を立てる。
テンポを上げた攻防は、組み合って服を掴み合い、絞技にもつれ込む。完全にキまる前に返し、返されて――。
取っ組み合いの密着で、彼女の肉体のしなやかさと強靭さを肌で感じる。
「あ、やっ、そんなところ触っちゃ」
は?
「おまッ、ぐ」
突然の色気にピクリと思考が停止して、隙をついた絞めが防御の網をすり抜けて首に入る。そのギリギリで力技で振り解いても、体勢を立て直す暇は無く。
「――なんちゃって」
ぐるりと反転した視界。背中を打ちつけた地面。
直感でやられると悟る。焦りから一瞬で、教え子の成長を喜ぶよりも、意地とプライドが上回った。
「おい、っ待て」
そのプライドをねじ伏せる、脳裏にこびりついたさっきの声。俺の腕を足で押さえつけのしかかってきた彼女の、脚の付け根が顔のすぐ、情けないああ俺の負けだ。
「待ちません!」
勝負は決した。
風圧だけが額を掠め、寸止めされた拳が視界を埋め尽くす。
抵抗の意志を持って張り詰めていた筋肉が、降参して力を抜いた意志を受け取って、彼女はその拳を天に突き上げた。
「やったぁ! や、やったぁぁ!」
「……ずるいぞ」
ずるい。ずるすぎるだろ。
俺の上から立ち上がり、両手を上げてぴょんぴょん跳ね回る姿は、子どもみたいなのに。
「やったぁ、やったぁ、先生倒した!」
茜空は高く、寝転んだ俺の上に広大に広がっている。
何分取っ組み合いをしていたのか、僅かに呼吸が乱れている自分対して、彼女は余裕そうに喜びに駆け回っている。
彼女とて、今日一日ヒーロー活動をして、疲労が無いわけないだろうに。俺の動きに全神経を注ぎ紙一重の攻防をしながら、俺を出し抜くために小賢しさまで駆使して、つまりは持てる全てで挑まれただけだけれども。
「元気があって大変よろしい」
負けました、とは口にできなかったが、負けるべくして負けたのだ。若さとは素晴らしい。
夕陽が眩しすぎて、腕が目元を隠す。
笑ってしまう。なんて格好悪い負け方だろう。反則だろ。
「ふふ。せんせ」
彼女は跳ね回るのをやめて、俺の横にしゃがんだ。彼女の作る影が俺を覆うので、腕を退けて、歓喜に輝く瞳を見つめ返す。
「何だ」
まつ毛を震わせて、大きく一つ息をした彼女は、さっきまでの激闘を思わせない可愛らしい笑顔を浮かべた。
「私、強くなりましたね」
「そうだね」
「先生の隣を、歩きたいんです」
「追い抜かす勢いだろ」
クスクスと降ってきた笑い声が、まるで星の光のようにキラキラしている。
「好きです、相澤先生」
負けてしまった今、そんな暇があったら訓練を、なんて跳ね返すことはできない。
何度も、何度も、受け止めたかったのにスルーしてきた言葉を、噛み締めるように受け止める。
「――知ってるよ」
いいのだろうか。もう、この気持ちを隠さなくても。卒業したとはいえ。いや、もう、知ったことか。
何度も、何度も聞いた告白を、また言ってくれたことが、まだ想っていてくれたことが、嬉しくて仕方ない。込み上げるこの気持ちは、誤魔化して隠すには大きすぎる。
「先生、好きです。わ、私と、付き合ってください」
初めて聞く続き。何度も、何度も、飲み込んだのであろう願いが、ついに声となって俺に届く。
嬉しいよ。ありがとう。俺も、好きになってしまった。
けれど、突然に甘い言葉など出てきやしない。長年連れ添った心の蓋は、少しずつしか緩まないのだ。
真っ赤な空を背負って俺を覗き込む、柔らかな頬が土で汚れている。ありがたい理由を得て、拭うように触れる。くすぐったそうに首をすくめて目を細める、仕草のひとつひとつが可愛い。
「あぁ……待ってた」
今はまだこれで、精一杯だ。罪悪感も照れ臭さも。
それでも彼女は、涙を浮かべ頬を染めた。
「お待たせしました」
もう、まったく、どうしたもんかね。
黙ってても愛おしいが溢れる。
何度も、何度も、俺に放られた恋心を、実は大切に胸の内に仕舞い込んできたのがバレてしまいそうだ。
彼女の首を引き寄せ、体を起こす。訓練の続きかと身構えかけた彼女は、ハッとしてから、ぎゅっと瞼を閉じた。
「もう、先生はやめろよ」
攻撃でも防御でもなく触れ合う。
何度も、何度も、こうしたかったんだよ。
だから、おまえの先生は、これでおしまい。
-BACK-