バスタイムマスター

「やだ!」
「え」
 夕食の後、娘をお風呂に誘った消太は、拒絶の言葉に口をぽかんと開けて固まった。
 開けた口を一度きゅっと閉じて、娘の前にしゃがみ、目線を合わせてもう一度。
「お父さんと入ろう」
「おかぁしゃんがいーの」
 ぷいっと顔を背けて、てとてとした足音が私に向かってくる。
「なんで……」
「消太、顔こわっ」
 壮絶な顰めっ面を隠す事もせず、娘の後をつけ一緒にキッチンにやってきた消太は、私の笑いに少し悲壮感を緩めてむっと下唇を突き出した。
 娘はひしっと私の脚にしがみついて、その勢いで座り込む。
 イヤイヤ期、という感じだろうか。普段のルーティンを崩そうとしてくる娘に完全にダメージを受けている。
 消太は、家に居られる時は必ずお風呂をやってくれていた。それはもう、初めて沐浴をした日から、ずっとのこと。もちろん仕事柄お風呂の時間に家にいるとは限らないので、毎日ではないけれど。
「なんだろね? 最近お母さんがいいんだね」
 数日前の誘いを断られ、それからチャンスなく今日、また断られてしまった消太はひどく落ち込んでいる。
「おかあしゃんだけとはいる」
 消太は悩み顔のまましゃがみ、私の足にぐりぐりとおでこを擦り付ける娘の髪に優しく指を通した。
「それは……お父さんもヤダ」
「ぷっ」
 まさかの消太もイヤイヤ期だ。吹き出してしまった。
「やーだはやーだ!」
 負けじと大きな声で対抗する娘。
「〇〇と入る」
「はいっない!」
 ぐぬぬ、と見つめ合う二人のバトルが可愛くて、笑いを堪えながら見ていると、消太はすくっと立ち上がった。
「今日は諦める」
 その、渋い顔といったら。
 可哀想に。娘とのお風呂は、家を空けている時間の長い消太にとって、そしてまだ寝る時間の早い娘にとって、大切なコミュニケーションの時間なのに。それに、女の子とお父さんがお風呂に入れる期間なんて、生まれてからのほんの数年に限られているのだ。
 貴重な機会のうちの一回を逃した消太は、わかったよ、と優しく言って、娘を抱き上げた。
「じゃあお母さんと入っておいで」
「うん!」
 その小さな体は消太の腕の中にしっくり収まって、お風呂の采配に納得した彼女はニコニコと笑い始める。
 その笑顔に、消太もふっと息を漏らし微笑んで、眉を下げるのだ。
「……皿は洗っておくよ」
「ありがとう」
 私に伸びてきた小さな手を受け入れて、幸せな重さを腕に抱く。
 消太は私たちを見送って、シンクに向かい腕を捲った。



 ベッドにて、寝る前の絵本を読むことを許可された消太は、心地よいテノールで可愛らしいお話を読み上げた。読んでいる最中に絵を指差して話し始める娘に、甘く相槌を打つ優しい声が、隣で聞いている私の眠りも誘う。
 ページが進むに連れて娘は大人しくなって、おしまい、の声と同時にぱたんと畳まれた時には、すっかり瞼は落ち、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。
 なんとも贅沢。私までこの心地よい読み聞かせを享受できる幸せ。
 絵本をベッドサイドに置いた消太は、指の関節で娘の頬の柔らかさを確かめて、ふすんと鼻を鳴らした。
「何が悪くて嫌がられたんだ? 髪の洗い方か? 頭からお湯がかかったからか?」
 小声で不満を漏らす彼は、お風呂を断られた事を根に持っていた。二回連続で断られたのが相当ショックらしい様子に、不憫ではあるのに笑ってしまう。
「そんな時期ってだけかなぁ。機嫌悪いわけでもないし。私も、抱っこが嫌だとかご飯が嫌だとか言われるよ」
「そんなもんか……」
 枕に頭を預けて、布団をかけ直した消太は、私たちの間を隔てる愛の結晶に、熱く燃えた眼差しを注いでい、ぼそりと呟いた。
「作戦を考える」
 絶対に振り向かせてやる、と言わんばかりの声色に、私はまた吹き出してしまった。



「これ」
 数日後、消太は帰ってくるなり、紙袋をテーブルに置いた。
「なぁに?」
 中を覗くと、なんだか可愛らしいものがたくさん入っていた。
「これは……入浴剤?」
 お花の形や、小さなフィギュアの出てくるバスボム、温泉の香りの疲労回復効果のものまで。
「おとしゃん、なにー?」
 お土産に喜んで袋を覗いた娘は、目をキラキラさせている。
「お風呂に入れるんだよ」
「はいるっ」
「お父さんと入る時しか、使えないんだよ」
「いこ!」
 小さな手を大きく上に上げて、消太の手が掴まれる。いこういこうと急かされて引っ張られる消太の、その幸せそうな勝利の笑みに、私は明日からの入浴剤の隠し場所を考えながら、ほっと心が温まるのを感じた。

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