――ガチャ
「あー！　おとうしゃんー！」
　ドアの音が聞こえるとすぐに玄関に走っていく子供たち。出張で不在が続いたわけでもない。朝いってらっしゃいをしたぶり。この熱烈な歓迎は毎日のこと。
　そして、玄関に行けないまま床に飛び散ったお茶を拭いて、一人取り残された私はほんの少しの寂しさを感じている。






「ふぅ。今日外でたくさん遊んだからかな、珍しく二人とも早く寝てくれた！」
「おつかれ」
　寝室で寝かしつけを終えてリビングに戻ると、消太さんはテーブルに二人分のビールを用意してくれていた。
「ありがとう、消太さんもおつかれさま」
　くっついてソファに座り、コツンとグラスを合わせて口に運ぶ。炭酸が喉を滑り落ちて、身体に染み渡っていく。テレビでは少し前に話題になった映画が、地上波初放送と銘打ってはじまったところ。
　消太さんも早く帰ってきて、持ち帰ってきた仕事も無さそうで、子供たちも早く寝て、二人きりで映画を見るなんていつぶりだろう。
「なんかさ、こうやって、二人でゆっくりするの久しぶりだね」
「そうだな」
「この映画、見たかったんだよね」
「前に言ってた気がした」
「え？　覚えててつけてくれたの？」
　ぱっとテレビから消太さんに目を向けると、まぁな、とニヤリ。
　小さな画面で、控えめな音量で始まった、大ヒットエンターテイメント。もう何年も映画館になど行けていない。けれど私には、彼が私の何気ない一言を覚えていてくれた、家で観る映画の方が何倍も心に響く。
「嬉しい」
　ほんの少し、むず痒い照れがあるのは、恋人のような甘い空気がご無沙汰だったから。怒涛に過ぎてゆく毎日の中で、ふと足を止めるように、私はこの時間に浸る。
「なんかね、最近消太さん不足だったかも」
　映画を見ながら、隣の彼の手を握る。すぐに指を絡ませて握り直してくれる暖かい手が、私を甘やかす。
　片手を繋いだまま、ビールが空になった頃。ほんのり酔いが回ったことにして、さらに甘えてみたくなった私はもやもやした心を少しずつ打ち明けた。
　玄関に彼を迎えに行けなくなったのはいつからだろう。息子が生まれて、家事に育児に精一杯で、おかえりなさいと走っていける余裕はいつしか無くなっていた。二人目に娘が産まれて、その余裕は更に無くなった。
　でも今年、下の子も幼稚園に行くようになると、途端に余裕がうまれた。すると、無邪気に玄関に走り消太さんに抱きつく子供たちを羨ましいと思う気持ちが湧いてきたのだ。
　気づけば、手を繋ぐ相手は子どもばかり。
　寝る時も、私たちの間に二人分も可愛い隔たりがある。何も悪くない、とてもとても幸せなのに、欲張りな私だけがおかしいのだ。
「俺は毎日、楽しみだよ」
　ぽつりぽつりと話す私の下手くそな独白を聞いていた消太さんが、映画に目を向けたまま言った。
「帰ってきたら、子どもが裸で走り回って、それをおまえが追いかけてたり、玄関におかえりって手紙が置いてあったり、ラップをかけてあったはずの俺の分のおかずが少し食べられてたり、玄関あけるなり戦いごっこに巻き込まれたり、今日はどうなってるかって、楽しみに帰ってきてるよ」
　その時々の情景を思い浮かべるように、優しい目をして、消太さんは続ける。
「それに、背中に二人乗せて潰れて助けてって言ってるお前も、三人してソファで寝てしまってる時も、毎日玄関まで迎えてくれてた時と同じくらい、可愛いよ」
「こどもが？」
「おまえが」
　最近言われる機会が減った、可愛い、という単語につい照れ隠しをしてしまう。
「騒がしくして平和で健やかな毎日を守ってくれる奥さんが、愛しいってことだが、わからないか？」
　消太さんはいつの間にかこっちを向いて、少し意地悪な顔をしている。優しい言葉に、甘えただった心がほくほくしてきた。
「俺たちの距離は、結婚した頃からみても、少しもひらいたりしてないよ」
「ありがと」と彼の肩にもたれて、繋ぎっぱなしの手の骨をくりくりと指先で遊ぶ。
「けどな」
　強い逆説の接続詞と、ぐっと縮まる距離。きゃ、と声が出て、背中がソファに押し返される。視界を埋め尽くす消太さんと、柔らかく私をくすぐる黒髪。
　突然のハイテンポな戯れに、驚いてクスクス笑ってしまう。もう、照れ隠しのバリエーションが笑うしか無いのだ。
　消太さんは繋いでいない手で私のおでこの髪を流して、へらへらしてる私の視界を更に暗くする。
「不足しているのは同意する」
　唇の掠る距離の囁きは、直接口の中に押し込まれてきた。ちゅ、と音を立ててゆっくりと一つが二つになる。
　熱い視線が私を射抜く。その熱は確かに昔と変わらない。
「合理的に解消しよう。映画は見れなくなるが、いいな？」
　ニヤリと口角を上げて、視線を絡めたままリモコンへと手を伸ばした彼は、既に答えを知っているみたい。
　その通り、私は黙って頷いて、ぷつんと画面は暗転に沈んだ。
　金曜日、明日は休み。平日のクライマックスは今始まる。