三歳の教示

「ごめんね」
 三歳の娘が、眉を下げて俺に謝っている。その姿に酷く心が痛んだ。





 ナマエが夕飯の支度をしている時間、束の間の2人遊び。それは、お医者さんごっこの最中の事だった。
 全身に架空の大怪我をした俺は、名医である娘のおかげで一命をとりとめた。聴診器をつけて「またムリしてー」とため息を吐くのは嫁の真似だろうか。セロハンテープを利用した最先端の治療をあらゆるところに施して、得意げに「はいもう大丈夫ですよ、あとはよく寝てくださいね」なんて言う姿はなかなかサマになっていて、子供の観察力に驚かされる。
 俺が全快したことで、場面は急展開を迎える。次は突然発熱し倒れた娘が、お医者さんとなった俺に診察される番というわけだ。
 クッションのベッドに転がった娘は、ダルそうに身体の力を抜いて、弱々しい声を出した。健康優良児でほとんど熱なんて出した事ないくせに、どこで覚えてくるのやら。
「あのね、ちょっと具合が悪いの、ごめんね」
「じゃあ、お熱はかろうか」
 幼児の渾身の演技に、自然と頬が緩んでしまう。おもちゃの体温計を娘の小さな耳に当てて、38から動かないシールの数字を難しい顔で見て、俺もそれなりになりきってみる。
「熱がありますね、お薬出しますよ」
 救急箱から出した薬は、空になった葛根湯の瓶だ。見た目だけは本物の万能薬を開けると、ティッシュがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。おままごとのキッチンからお猪口みたいなサイズの木のコップを持ってきて、横たわる娘の前に差し出した。
「お薬用意しましたよ」
「ごめんね、おねちゅがあるの」
 よわよわしくコップを掴んで、わざとポロリと落とすところなど、主演女優賞ものだなと思う。はいはいと彼女の小さな背中を起こしコップを口元に当ててやれば「ごくごく」と音を当てながらお薬を飲んだらしい。またそうっと寝かせて、体を全く隠しきれないハンカチの布団をかけてやる。
「ありがとう、ごめんね」
 ふと、彼女が一生懸命ごめんねと謝っている事が気になった。さっきから何を言うにも、ごめんねをくっつけている。まだこんなに小さな体で(嘘だけど)病気に耐えてぐったりしている子どもが、一体何に謝らなければいけないというのか。
「どうして謝るんだ?」
「うんとねぇ、ごめんね、具合が悪いの。ねんねしてごめんね」
 薄目で、眉をへにょりと下げて。
 その姿にハッとした。心臓が、ぐっと締め付けられるように苦しくなった。記憶の中の、申し訳なさそうに涙の膜を張った瞳が、現実と重なる。ごめんねとたくさん謝るのは、〇〇の真似だと気がついて。
「謝らなくていいよ」
 ふわふわと黒髪の滑らかな、小さな頭を撫でる。小さくて貝殻みたいな耳も、ふっくりときめ細やかな頬も、愛しくてたまらない。同じくらい愛おしい存在とよく似た目が、気持ち良さそうに閉じられた。
 キッチンに聞こえるだろうか。ほんの少し、さっきまでより大きくした声が。聞こえてると思う。トントンと刻む音がぱたりと静まり、手を止めたらしい気配がするから。
「お熱が出るのは、お前が悪いんじゃないからね」
「そうなの?」
 丸くキラキラした無垢の瞳が俺を見上げる。まだ納得していない、ハテナに満ちた顔で。
「お熱のある時は寝るのが一番いい事だから、寝るのが正解だよ。正解は、ごめんねしなくていいんだよ」
「じゃあ、なんていうの?」
 予想外の質問にはたと数秒黙考して、そうだな、彼女がこう言ってくれたらいいなという希望を口にしてみる。
「具合が悪いから、そばにいてとか。お熱があるから、お水持ってきてとかかな」
 えー、と疑心とワクワクが入り混じった笑顔が、明後日の方向を見つめて何か考えている。
「して欲しい事を言っていいんだよ。何も悪くないし、具合の悪い時はたくさん甘えていいんだよ」
「じゃあね、おねちゅがあるからね、だっこして?」
「ああ、いいよ」
 やったぁと短い手を精一杯広げた娘の軽い身体を抱き上げて、しっかりと腕の中に閉じ込める。
「ちがうの! ねんねみたいにだっこして!」
「ねんねみたいに?」
 こうか、と横抱きにして、立ち上がる。さっきまでの具合の悪さはどこかに行ってしまったらしく、きゃっきゃと喜んでいる。
 健気にごめんねと謝る娘は、本当に罪悪感などは感じていなかっただろう。ただの真似っこ。その言葉の意味も気持ちも理解などしていないだろう。でも、覚えてるのだ。染み付くんだ。具合が悪いと謝る、という心が。そんな風に思わなくていいのだと、教えなければならないやつがもう一人いる。
「あ、いないばぁみる」
 突然抱っこを拒否しだした娘を床に下ろして、テレビの前に跳ねていくのを見送る。キッチンからは、ことこと鍋の沸く音の中に、小さく鼻をすするのが聞こえた。
 食欲をそそる香りにつられるようにキッチンへと向かえば、ほんの少し潤んだ瞳の彼女が俺に向かってへにゃりと微笑んだ。菜箸を置いて、ふわりと胸に顔をうずめて抱きついてきた彼女の、俺よりもずっとずっと華奢な首元に顔を埋める。
「ふふ、髭痛いよ」
 身じろいだ背中をぎゅっと抱きしめて、耳や首に顎が触れるように首を振る。これは、甘え下手な彼女へのお仕置きだ。
「もっとか?」
「やぁ、やめなさい」
 クスクスと揺れる肩に、髭じゃなくて唇を寄せてみる。音もなく首筋をなぞり、耳を甘噛みしてやる。
「謝るなよ」
 背中に回り切らない細い指先が、服に皺を作った。
「遊んであげられないのが、申し訳なくてさ」
「そこは、俺にもう少しやらせて欲しい」
 娘を産んでから、母乳の分泌過多で度々熱を出したり、生理で起き上がれないほど辛そうになったり、その都度ごめんねと自分を責める彼女を慰めてきた。でも、謝らせ続けたのは俺なんだろうと思う。
「うん、ありがと」
 娘が真似して初めて、ああ、そんな風に覚えないでいいのだと、強く思ったのは彼女も同じはずだ。
 二人の間に空気を取り込んで、触れるだけの戯れのキスをする。うまく言葉で伝えられない気持ちが、それで、伝わったらいいのにと思った。

――――――

「これとこれと、このえほん、よんでほしいの」
「ん、ごめんな。この仕事が終わってからな」
「……おとうしゃん、おしごとは、悪いことなの?」
「!」

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