しあわせを背負うホリデー

 ショッピングセンターに買い物に来た。
 ほとんどの人にとって、何の変哲も無い休日の過ごし方だろう。子どもの服を家族で買いに出かけるなんて。
 でも私にとっては、やっとやっと大きな溝を飛び越えて、ここに来たのだ。




「全部買えたか?」
「ばっちり。肌着もロンパースも買ったし、お靴も買えた! よかったねー」
 ベビーカーの中ですやすや眠る娘に、意味もなく話しかけてみる。
 私たちは順調にミッションをコンプリートした。お目当てだったベビー服コーナーからはみ出して、思い付きでベビー用バスチェアまで買ったのだ。この買い物の旅は、予定以上の成功を収めた。
 三人でお出かけ、できるじゃないか。娘はぐずりもせず、ざわざわとした人声の中ぐっすりと眠っていてくれた。想像していたような困難は無くて、私は、気が大きくなっていた。
「お昼、食べて帰ろうか」
 消太はベビーカーを押しながら、穏やかにステキな提案をしてくれた。
「うんっ」
 数ヶ月ぶりの外食。私は元気に返事をして、ベビーカーを押す邪魔にならない程度に、消太の腕に手を絡ませた。
 控えめながら、腕を組んで歩く。デート、みたいだ。
 なんだか久しぶりすぎて、照れて顔が見られない。そんなこそばゆい気持ちさえ、嬉しくて楽しくて仕方なかった。

 早めのランチで空いていたパスタ屋さんに入った。何度か来たことのあるお店で、季節限定メニューのスープパスタを頼んでみる。母乳の関係でカロリーセーブしてるので、ハーフサイズ。そのかわりサラダを注文した。
 娘は時々唇をちゅっちゅと動かしながら、すやすや眠っている。授乳の時間まであと30分くらいある。ちょうどいい。
 少しして、とっても美味しそうなパスタが運ばれてきた。私のと、消太のと。
「いただきます」
 そう言って一口頬張って、で、私は今、赤ちゃん休憩コーナーの授乳室にいる。
 あぁ。
 フォークに一巻き、口に入れた瞬間に、娘はふにゃふにゃと泣き始めた。前の授乳から考えてまだもう少し余裕があると思ってた。
 あやして誤魔化して、なんとか、急いで食べてしまおうかとも考えた。でも、無理だった。胸が痛くて。心の方じゃなく実際に。泣き声を聞いて、母乳が湧き出してツンと痛み始めたのだ。
 母乳パッドに限界がきて服が濡れたら困る。それで、消太をレストランに残して、私は子どもと二人、一つ上の階の授乳できるところまでやってきた。
 意外と遠い。ベビーカーだからエレベーターを探し、荷物を背負って、母乳が漏れてないかソワソワしながら歩く店内は、あまりに広かった。
 やっと授乳室に着いたからといって、さぁどうぞとあげるわけにいかない。生産量のコントロールがへったくそな私のおっぱいは、すぐにあげると娘が溺れそうなほど勢いよく噴き出すのだ。タオルで服をカバーしながら、母乳パッドに吸い取らせるように絞って、ぱんぱんに張った圧を抜く。
「ごめんね、もうちょっと待ってね」
 お腹が空いて泣いている赤ちゃんの横で、あくせく乳を搾り、ようやく準備を整えて授乳が始まる。
 ぱくりと小さな口に咥えた瞬間に、さっきまで泣いてたのが嘘のように穏やかな顔になる。一生懸命おっぱいを飲む愛らしい姿に、ほっと幸せを感じる。可愛い。幸せ。
 スマホの時計を見ながら、3分ずつ、左右2回ずつ。どちらか偏って飲み残されたらたまらないから、時間管理には慎重になる。いかんせん、乳腺炎を起こしやすい体質なのだ。
 慣れない授乳室の椅子に座り、可愛い動物の並ぶ壁紙をぽけーっと眺めて、それで、私の頭には、食べかけのパスタが浮かんだ。
 きっと、戻った頃には冷めている。
 仕方ない。
 
 この子が産まれて三ヶ月。近所のスーパーに短時間の買い物は行くけれど、広い複合商業施設に来たのは産後初めてだった。
 朝からーーいや、昨日の夜から大変だった。オムツは何枚、おしり拭きに、授乳の時用のタオル、おむつ替えマット、着替え一式に、スタイの替えに、ゴミ袋、あ、母子手帳はいるの? 一応入れよう、それから母乳パッドに、それからそれから。あれこれと床に整列させて、足りないものは無いか考えて。
 そんなたくさんを詰め込まれて、誕生日に消太がプレゼントしてくれたバッグは、グエっと声が聞こえそうなくらい不恰好に膨れた。まだ入りきっていないオムツ替えセットが、横で私の浅薄を馬鹿にしてきたくらい、それは最初から不可能な話だったのだ。
 仕方ない。ふむ、と一息、諦めて、昔使ってたリュックを押し入れから引っ張り出してきた。
 あーあ、と思ったのは、久しぶりのお出かけだから、ちょっと、可愛い格好をひて行きたかったって事。それだって、授乳に不自由のない服しか選択肢は無くて、せめてその中で楽しもうとしていて。
 選んでいた服に、一番似合うバッグはこれだと思ったのに、用意してみたら荷物の多い事多い事。
 靴もーー靴は、仕方ない。抱っこしてヒールは危ないし、重さに疲れて足が痛くなるかもしれないし、合理的じゃないから。妊娠中からずっとヒールのある靴は靴箱に仕舞われたままだし。
 消太は、何も気にしないだろう。私がテキトーな化粧でラフな格好をしていても、可愛い服を着てバッチリアイラインまで引いても、どっちでも変わらない態度で愛してくれる。だから、私のエゴなのだ。わがままなのだ。消太に少しでも可愛いと思って欲しかったなんて。少しでも可愛い私で消太の横を歩きたかったなんて。
 朝、実は久しぶりに髪を巻いてみた。それはあんまり上手くいかなくて、格闘の末、結局、頭のてっぺんで大きなお団子にまとめてしまった。ちょっとだけしゅんとした私に、消太は、可愛いよってスッキリしたおでこにキスをくれた。それはそれは十分幸せなのだ。
 消太がいいと言うのに、私だけが変にこだわって落ち込んだりしている。消太のためならば、消太がいいならいいのに。
 そもそも子どもの服を買いに来て、子どものためのお買い物で、私が浮かれる必要なんて無かったんだ。おしゃれだって非合理的。
 母としての務めより、見た目やパスタが重要なわけ、ないのだから。不要なところで心を乱してどうするんだ。
 私の楽しさより、この子がお腹いっぱいで健やかである事が一番幸せで、当然そうだもの。普段のリズムより20分以上早く泣いたって、そんなの、対応して当たり前だもん。お母さんだから。世のお母さんはみんなやってる事。
 消太と一緒に食べたかったなんて、わがままだ。
 さっきまで全て順調だと思っていたのに、当たり前の事をしているだけなのに、なんだか鼻の奥がツンとし始める。
 私は魔法の言葉を唱える。
 この情緒の乱れはぜーんぶ、ホルモンバランスのせい。産後のホルモンバランスの乱れからくるの。だからメンタルが弱いとかじゃなくて、勘違いみたいなもの。私はちゃんと分かってる、できる。
 偉い子にたくさんおっぱいを飲んだ娘を、とんとんしてゲップもさせる。母乳パッドも取り替えて服を直して、よし、切り替えて、と授乳室のカーテンを開けた。
 授乳室のすぐそこにある、オムツ替えベッドでオムツを取り替える。柔らかな肌を綺麗に拭いて、手で仰いでちょっと乾かして、オムツを装着。
 ロンパースのボタンを止めてハイ完成。
 手を洗った直後、スマホがブーブーと震えて、消太からのメッセージを知らせる。
 ーー大丈夫か?
 短いながら気遣いを感じるメッセージに、今終わったから戻るよ、と返信。
 さて、レストランまで戻ったら、あぁ30分も消太を一人にしちゃったな。
 とっくに食べ終わってるだうし、冷めきってるだろう。楽しみだった食事が一気に色褪せて、戻る足取りは急ぐ気にもならなかった。
「おまたせ」
「ん。おつかれ」
 やっと戻ってきたテーブルには、私のパスタだけがぽつんと残って、消太のは空の食器まで下げられていた。半分に減ったコーヒーだけ消太の前にあり、食後いくらか時間が経っている事を知る。
「ごめんねー、時間かかった」
「そうだな」
 パキン、と何かがヒビ割れる音が聞こえた。
 待たせすぎたのだろうか。仕方ない事、じゃないだろうか。
「あ、えー」
 笑顔でいようとして、その「そうだな」の意図を質問する言葉が出ない。
「食べなさい」
 消太は落ち着いた声で、食事を促した。
「うん……」
 なぜか、そんな気はないだろうに、”急いで”食べなさいと言われた気がしてしまった。くずくず思考が弱り始める。
 ホルモンバランスのせい、ぜんぶ、ちょっと変になってるだけ。
 パスタを、フォークに一巻き。さっきと同じように。今度は冷めた一口。
「ふ、え、あ、あったかい」
 口がびっくりして、変な声が出た。
「何で」
「スープパスタは冷めたらまずいだろ」
「そ、」
 そういうことじゃなくて。言葉より先に溢れそうになる涙を、俯いて堪える。
「さ、っきのは」
「俺が食べた。おい、何で泣く」
「わかんない、ごめん」
 ぽとんと一粒、堪えきれずに目から雫が落ちてしまった。違う違う。変な空気にしたくない。
「いやっ、なんか、サプライズ感あって、感動しちゃったぁ。冷めてると思ってたから」
「こっそり一口貰うつもりが、つい、食べすぎたんだ」
 そんな事言って、優しさがそこかしこから滲んで言い訳になってない。
「胃もたれしてない?」
「馬鹿にするな。1.5人前くらい余裕だよ」
「あったかくて、美味しい」
 消太はふっと微笑んで、涙目でパスタを頬張る私の、もぐもぐ動く頬を愛しそうに撫でた。
「ゆっくり食べろよ」
 ゆっくり、をパスタと一緒に噛み締める。消太の”食べなさい”は、新しいの頼んだから冷めないうちに食べなさい、だったなぁきっと。
 やっぱり私の勘違い。でも、私の察しが悪くて勘違いしたんじゃない。悪いのは産後のホルモン。ほらね。
「食べ終わったら、もうひとつ買いたい物があるんだが、見に行ってもいいか?」
「うん、何買うの?」
 娘はお腹いっぱいで再びすやすや寝ている。次の授乳時間まで特に問題ないだろう。
「リュックを」
「仕事用?」
「いや、家族で出かける用に」
 何か消太も持ち物が増えるのだろうか。もぐもぐしながら頭の上にハテナを浮かべると、消太は穏やかな目で私を見つめた。
「誕生日にあげたバッグ、持ちたかったんだろ」
「……なんでわかったの?」
「そのスカートに、いつも合わせてたから」
「正解……」
「いつも一緒に出かけられないから、俺といる時だけでも。せめてその背中に背負ってた荷物は、俺が全部持つよ」
 それは私のわがままの全てを肯定してくれる言葉だった。そして私の当然を打ち砕く。
 楽しみにして良かったのだ。服とバッグを合わせても良かったのだ。パンパンで入り切らないと、消太が持ってと、言ってよかったのだ。
「ありがとう」
 目を丸くした私に、消太は歯を見せてニヤリと笑う。
「授乳は、残念ながら俺にはできないからな」
「んっ」
 一瞬、消太が授乳しようとする姿を想像してしまった。
「でもオムツくらい替えるから、授乳終わったら交代でもいいんだよ」
 消太は今日だって私のリュックを代わりに持ってくれたり、ベビーカーを押してくれたり、優しかった。それ以上に求めていいなんて。
「消太、優しい」
「優しくなかった事あるか?」
「ない。ごめん」
「俺も××と二人で出かけることもあるだろうし、常に荷物を用意しておけば合理的だろ」
「すごい、頼れる」
 一人で先に食事をしながら、私を待つしかできなかった三十分は、消太にとっても手助けのできないもどかしい時間だったのかもしれない。
「ところで」
 戯れる言葉をぴたりと止めた消太は、コーヒーカップを摘んで、神妙な顔をした。
「あの、赤ちゃん休憩コーナーって、俺が入っても通報されないんだよな?」
「ふふっ」
 されないと思う、けど、自信はないかな。


 大きなリュックを買った。
 そこには、何だって入るのだ。

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