花火とジェットコースター

 屋台の食欲をそそる香り。祭囃子。ごきげんな喧騒。それらが一つも届かない、雄英の正門前。約束の金曜日。私は、山田くんを待っている。
 特に急いでもいないサポートアイテムの調整をして、日が暮れるまでの時間をつぶした。気もそぞろで停滞を極めた作業を片付けて、メッセージで伝えられた通りに録音機材の入ったリュックを背負って突っ立っている私は、空腹なんて感じないほど緊張していた。
 これから、あの山田くんと二人で、花火を見る。
 一人とか家族とじゃなくて、友人(と呼ばせてほしい)と一緒に夏のイベントに行くなんて。嬉しくて楽しみで、その反面、舞い上がるな勘違いするな、という気持ちが拭えない。
 この一週間ちょっとの間、私はひどく葛藤していた。期待するな、勘違いするなと自分自身に言い聞かせている時点で、すでに、期待も勘違いもしていることを認めざるを得ないんじゃないかと。
 どんな顔して、彼の隣に立てばいいのか分からない。二人きりで花火を見る今日にロマンティックなんて一つもないのに。山田くんの気持ちが私のように慕情に揺れていない事を確認して一蹴されたい。こんなにも、人の気持ちが知りたい、なんて思うのは初めてだ。
 雄英の門の照明が、私の影を足元に落とす。ぎゅっとリュックの紐を握ってつま先を見て、時間が少し過ぎたんじゃないかとスマホを確認しようとした時。
 キキッと軽快な音がアスファルトを擦って、視線を上げる。
「HEY! 待たせたな! 後ろ、乗って!」
 一瞬誰かと思った。甚平を着た山田くんが、自転車に跨り、親指で後ろの荷台を指している。
 え。え。え?!
「さっきまで友達と縁日行ってて、遅れそうだったから自転車で――」
 意外と甚平にサングラスも似合う。じゃなくて、なにそれ、二人乗り。待って待って、やっぱり友達といたのに、わざわざ、ここまで迎えに。ちょ、人に、誰か来たら見られる。
 わたわたと首を振り、足すら落ち着かない私に、山田くんは片眉上げて笑う。
「押して歩いてもいいケド、サッと行った方が見られないと思うぜ?」
 そ、そうだ。乗れと誘われている今の状態も、いつ誰が出入りするか分からないのに。こんなとこ見られたら終わる。
 山田くんは背中のボディバッグをくるりと前に回し、さぁさぁと自転車の向きを反転させ、荷台を私に差し出した。
 ええい、乗ってしまえ。勇気を出してちょんと横乗りして、早くも後悔する。
「よっ、よーし、しっかり捕まっとけよォ!?」
 ぎゅっと握った甚平の向こうに鍛えられた山田くんの脇腹を感じる。屋上で会ったあの日、指先に触れて以来の接触。胸が苦しいくらいに高鳴るのを、バレたくない。
 滑るように走り出した自転車は、坂を下る。アスファルトのヒビ割れにガタンと揺れてビクリと抱きついてしまって、息が止まる。重力を味方にした加速も、予想外の展開も、まるでジェットコースターみたいだ。
 ひっついた背中は、薄っぺらいしじら織一枚隔てて山田くんの体温を透かしてくる。ボディバッグのベルトが縦断していてくれるのがありがたいと思うほど距離が近い。心臓がうるさい。というか、速い、速すぎるっ、こわい!
「このながーいながい くだりーざかを〜」
 それ歌うならブレーキいっぱい握り締めなさいよ!
 心の中でしか突っ込めないから、声が出ないっていうのは厄介だ。もっとゆっくりって頼めない。こんなのズルい。ひたすらに、ぎゅっとしがみついて、ドキドキの原因が何かすら分からなくなる。
 歌の終わり、ゆるりとスピードを落とした自転車は、坂を下りきる前に細い脇道にそれた。一車線分しかない山道は、途端に森の中になって、ほどなくして舗装すらされていない砂利道になってしまった。
「ここに停めて、ちょっと歩くけど……ダイジョブ?」
 ざりざりと停車した自転車。私は恐怖で固まった体をぎこちなく動かして、その背中から離れた。顔がこわばっている気がする。
「悪かったって、けどジェットコースターみたいで楽しかったろォ?」
 恨みを込めてじとっと見つめると、山田くんはへらりと軽やかに躱してガチャンと自転車のスタンドを立てた。ジェットコースターがシンクロしてて、悔しいけど、読まれてる嬉しさも感じて、問いかけに応えず頬を膨らませる。
 足の裏に地面があって、自分のペースで歩ける。このタイミングで何気無い日常への感謝を教えられるとは思わなかった。
 月明かりの届かない木々の中の細道を、スマホのライトを頼りに進む。緑の匂いが濃く肺を満たし、雑草がふくらはぎをくすぐる。車の走行音が遠く聞こえ始め、少し行くと、突然に視界が開けた。
 夜空のベールを被った街が遠くまで闇を彩って輝いている。車のヘッドライトや電車の窓が流れて動くのが綺麗。
 視線を足元に下げると、土留のてっぺんにいるのだと気がついた。下の方には道路があり、そのために切り崩された山肌は、階段のような大きな段差になりながら切り下がっている。
 土留を一段よいしょと降りて、山田くんは手を差し出してきた。
「ここ、座って見る感じ。いい?」
 むり。眉間に皺が寄る。差し出された手を取るには、もうドキドキしすぎている。一人で降りれます、と首を振って、スカートを押さえながらしゃがんで、下の段に脚を伸ばした。
 山田くんの横に立って、もう一度街を見渡す。そんなに高くないけれど、見晴らしは良くて確かに花火がよく見える、最高の場所だった。
 ひとつの深呼吸は、吹き上がる風にさらわれて森へ流れていった。
「ほい、虫除けスプレー使う?」
 パスされたスプレーが、反射的に出した手の中に収まる。ナイスキャッチ、と茶化してくる彼に目を細め、リュックを降ろして録音機材を取り出した。
「あ、サンキューな。俺が持てばよかった」
 気にしなくていい。頭を左右に一往復。手際よく録音機材をセッティングしてくれる彼を見ながら、私は貸してもらった虫除けスプレーを腕にふりかけた。
 山田くんは、何で、私を誘ってくれたんだろう。
 いや花火の音を録るためだけど。
 勘違いしない、慈善活動だなんて、何度言い聞かせても、こんな待遇。都合のいい妄想を生み出してしまう。
 ねぇ、さっきまで一緒にいた友達と見なくてよかったの? 何て言って抜け出して来たの? 録音、私やっておくから遊んでていいよ、って言った方が気の利く女の子になれたのかな。
 何も聞けない。声が出ないからじゃない。孤立してる子を可哀想に思ったなんて言うのは憚られて、彼は答えに困るだろう。私だって、期待している答えが来るはずもない。いっそ打ち砕かれた方がこれ以上淡い期待を募らせなくて済むのだ。何にせよ確かめる勇気はない。
 制服のスカートから出た足に、しゅーと吹きかけたスプレーが冷たくて気持ちいい。
「OK、あと録音押すだけ! 時間もそろそろだな」
 にっこりとこっちを向いた山田くんに、ありがとう、と虫除けスプレーを返す。彼はそれを握り締めたまま、あー、と宛のない声を出して、頭をかいた。
 なに、何か問題でも? 首を傾げて、サングラスで見えない目を探るように見つめる。
 彼は、準備運動するみたいに唇をイとかウとかンって形に忙しく動かして、それから、ラジオの時とは大違いの穏やかな声で言った。
「俺たちのラジオ、好評だよ」
 俺たちの。
 その言葉に、じわりと体温が上がる。
 山田くんはふいと顔を背けて、ボディバッグから小さなレジャーシートを取り出し、土留の段に広げた。
「イスじゃなくてゴメンな」
 そこに腰を下ろした彼がポンポンと隣のスペースを叩くから、私はその輝く特等席へそうっと座る。
 山田くんは膝に肘をつけて、指を組んで口元を隠した。真剣な目が、花火の上がる方向を刺す。
「あのさ、俺ネ、ミョウジサンと一緒に花火を見たくて誘った、んだケド、んーと……迷惑じゃなかった?」
 困ったような微笑みが、伺うように私に向いた。
 迷惑じゃ、ない。そんなわけない。
「結構強引ってかさ、無理なことはちゃんと言ってくれよ、な?」
 強引だろうか。いつだってきちんと言葉を選んでくれている。無理なんてこれっぽっちもしていない。そりゃ、たくさん勇気はいるけれど、でも、花火も、ラジオも、誘ってくれて嬉しい。スマホに打った文字じゃ伝えきれない感謝がたくさんある。
 もしかして私に愛想がないから、あまり乗り気じゃないと思わせていたのかもしれない。不安にさせていたのだとしたら申し訳ない。
 山田くん、あのね、音関係のサポートアイテムを製作していたら、演劇部の子が音響に興味ないかって話しかけてくれたの。学校でBGM作ろうとソフトをいじっていたら、音楽好きな人がちょっとだけ話しかけてくれたの。山田くんみたいに面白い返しもできないし、愛想よくもできないし、一つも盛り上がらなかった。だけど、今までだったらすぐに拒絶していた他人の声を、聴いてみようと思う勇気を持てたの。
 山田くんのおかげで私の世界は広がっている。山田くんとのラジオをこえて、もう、たくさん私を助けてくれている。
 声が出たら。まくし立てるように、彼のトークみたいに、伝えられたらいいのに。大き過ぎる気持ちが喉を押す。伝えたいことが溢れて、唇が久しぶりに音を探す。息だけが支えてうまくいかなくて、眉を顰めて口を閉じた私を、山田くんはずっと優しい目で見ていた。
「よかった!」
 私は難しい顔をしているのに、山田くんは読心を発揮して、安心したようにニコリと笑った。
 どうしてこんな表情で読み取ってくれるの。ううん、違う、全部は伝わってない。何か打とうとスマホのメモアプリを開いたのに、彼の大きな手が画面を遮る。
 一つ目の花火が、パンと空に弾けた。
「しー」
 そう人差し指を口の前で立てて、彼は録音開始のボタンを押す。
 しーって、私は喋れやしないのに。
 彼は声もなくハッと眉を上げて、おどけてお口にチャックのジェスチャーをした。
 花火が、次々と上がる。
 山田くんが喋らないから、私も、黙って花火を見た。
 心を読まなくても、話をしなくても、声が出なくても、山田くんの空気が優しくて暖かくて、目の奥がツンとした。
 こんなの好きにならない方がどうかしている。照らされると、目を合わせると、見つかってしまいそう。
 夜空に弾けて滲む花も、キラキラと光を映すサングラスも、点滅する録音のランプも、夏の緑の香りも、深く深く、私の脳裏に刻まれた。





「ラジオ、やめようと思うんだ」
 インターンで余裕なくって、何事も中途半端は良くないからサ。そう、いつも通り大きな口で笑顔を作った彼が、心に何か大きなものを抱えていることは分かっていた。
 私は憧れを拗らせて、あなたは素敵なヒーローだと伝えたくて、伝えられないまま、頑張って、とだけ入力した画面を見せて手を振った。
 淡桃色の憧憬は丁寧に心の奥底にしまい込んだ。
 制服が冬服に戻り、ヒーロー科が実戦の緊張感にヒリついた、初秋のことだった。

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