健やかなる時のアイシテルをちょうだい


 長針があと一周も回らないうちに、今日が終わるという時間。
 部屋への訪問者を知らせる電子音が、微睡を突いてぱちんと弾けた。
「しょうた……?」
 こんな時間に。思い当たるのは一人しかいない。慌てて覗いたインターホンの画面では、予想通り、見慣れたボサボサの髪と無精髭の彼がぬぼうっと立っていた。

 裸足のまま土間に片爪先つけて鍵を開けると、間髪入れず引かれたドアに倒れそうになって、慌てて立て直す。
「どうしたの、こんな時間に」
 ずいっと押し入ってきた恋人は、真っ黒なブーツの踵を踏んで無理やり脱ごうとしているが、どうやらうまくいかないらしい。
「どうもしなきゃ、来ちゃいけないのか」
 どことなく不機嫌な低い声は普段より覇気がない。
 消太は、結局屈んで手を使ってブーツを脱ぎ捨てると、バラバラに倒れたそれらを気にするでもなく、脱いでも黒のソックスが廊下を踏む。
「そんなこと、ないけど」
 項垂れた頭は長い髪に隠れて、愛しい目を見せてくれない。
「ごめんね、もしかして連絡くれてた? ちょっとウトウトしてて」
「連絡してない」
 伸びてきた腕が私を捕まえて、その胸に押しつけるように抱きしめた。優しく強い抱擁。見上げると、熱を孕んで潤んだ瞳が、その輪郭をぼんやりさせながら私を見下ろしていた。
「……おまえが足りない」
 鼓膜を震わすバリトンの囁きは、いつもより少し掠れている。
 求められた喜びに浸っている場合では無い。
「消太、ねぇ」
 もぞもぞと手を出そうとするけれど、しっかりと私に絡みついた腕が自由を許さない。そして割と遠慮なく体重をかけてくる。
「充電しにきた……」
 首元に落ちてきた唇が、耳を食んで、そこでハァと熱く湿った息を吐いた。くっついた体から伝わってくる消太の呼吸に、雑音が混ざっている。
 充電、したいならばさせましょうとも。
 もちろんそれは結構ですけどもね、さっき見てしまった上気した頬も、艶めく瞳も、この肺の異音も、吐息の熱さも、絶対に体調不良じゃないの。
「消太、ねぇ、熱あるんじゃない?」
「……ない」
 あからさまに何か隠すように、小さな黒点はふいっと私から視線を逸らす。
 手が出ないから、首を回して、すぐ近くのおでこにコツンとおでこを合わせてみる。
 ほら、すごく熱い。絶対に熱ある。
「具合悪いんでしょう?」
「べつに……」
 額の体温測定から逃れようと弛んだ隙に、腕を出す。
「よくないよ」
 なんとか拘束を振り解き、一歩下がると、消太は私を追いかけようとして足を踏み出し、よろけて壁にトンと肩をついた。低い呻き声が長い髪に隠されながら漏れ出たのを、見逃してやる私ではない。
「ほらぁ、ベッド、行く、よっ」
 肩を支え抱こうにも、この身長差、ましてやこの重たい筋肉を纏った男をスマートにエスコートするには私は非力すぎる。あぁ、単純な身体能力強化の個性ならなぁ、と状況によって都度変わるお願い事を頭の中に唱えながら、えっちらほっちらなんとか廊下を進む。
 どさりと、一緒にベッドになだれ込むように消太を転がして、私も一息。
 ふう。ぐったりと脱力して寝そべる消太は、もう目を閉じてはぁはぁと背中を揺らして辛そうに呼吸している。
 夜の寝室に、夕暮れのような土の匂いが漂った。
「体温計……薬と、お水も持ってくる」
 支えに肩に回しあっていた腕を解こうと胸を浮かせると、ただでさえ逞しくて重たい腕がぐっと私を布団に押し戻す。
「やだ」
「や、やだって」
 子どもじゃないんだから。弱った消太が可愛くて笑ってしまう。病人を笑うなんて失礼か。けれど病人と言うにはあまりに鮮やかにキメられた寝技に、もう抜け出す術がわからなくなる。
「寒い……はなれるな」
 絡められた脚。ぎゅっと押し付けられた胸筋が私を圧迫する。離れようにも私のパワーじゃ病人にも敵わないので安心してください。せめて捕縛布を取らせて。
 ケホ、ゲホ、といくつかの咳が私のつむじをそよがせて、あ゛ぁ、とトゲトゲした嘆声が布団に埋まる。
 一体いつからこんな体調で仕事をしていたのか。きっと仕事中は調子の悪さなんて毛ほども見せずにこなしたに決まってる。無理してばっかり。無理した挙句、私を頼りに来たのだ。
「すぐ戻るから、しょーた、着替えもしないと」
「いやだ」
 わがまま。消太のわがままなんて貴重なもの、私にだけ、いや、私にすら極々たまにしか見せない弱々の消太が愛おしい。
「もぉ、あまえんぼさんだなぁ」
 以前なら、一人で消太の家に帰って、玄関で倒れて、また翌日には仕事に出ていた。それをこっぴどく怒ったことがある。
 私に怒られたことは彼に多大なショックを与えたらしい。久しぶりに人に叱られた、なんて気まずそうにしょんぼりと眉を下げ、彼は初めて私に愛してると言った。その言葉を聞いて私は、彼の貫く立派で合理的な正義の脆弱性を知ったのだ。
 それからは、体調を崩したら連絡をくれるし、家に駆けつける事だって許された。消太が謝らずに遠慮せずに私に甘えるまでに、どれだけ時間がかかったことか。
 だから嬉しくなってしまう。おでこ熱々で苦しそうにしてるくせに、こんな時間まで仕事して、って説教は愛しさに染まって出てこない。私の所に来れたから花マル。
「ね、冷えピタ持ってくるだけ」
「……さみしい」
「えぇ〜レア消太」
 笑ってしまうのも仕方ない。無精髭の口元が、さみしいなどと零すのだから。私は嬉しいのだから。
 わかったよ、と、消太の弱った身体を抱きしめ返す。ようやく安心したように腕から力を抜いて、彼は、小さく呻いた。
「具合悪いのに、よく頑張ったね」
 乱れてごわごわした髪を撫でる。頬が安心に緩んで、熱に潤んだ瞳が私をぼんやりと見つめた。
「あいしてる……」
 目頭に溜まった涙が、目を閉じた瞬間鼻に伝ったのを、見ないふりしてあげる。
「はいはい、体つらいのね」
「そんなこと言ってない」
「消太の愛してるは、助けてみたいなもんでしょ」
 眉根を寄せて、違うのにって顔をしているけど。怪我をしたり、風邪をひいたり、仕事で何かに悩んで優しくない言葉を放った時、消太は決まってアイシテルを贈ってくるんだもの。
 不安なんでしょう。心配ばかりかけて呆れて見捨てられないか不安で不安で、私を引き止めたい、そういうアイシテル。そんな時にしか言えないアイシテル。
「大丈夫、すぐ良くなるよ」
 そんなあなたが愛おしい。
「ん……」
 こんなに弱っているところはさすがに初めて見る。熱を出して人が恋しくなるなんて、消太も人間なのね。知ってるけど。
 きっと体調以外にも、しんどいことがたくさんあるのね。知ることもないけれど。
「……何もいらない、から、どこにも行くな……」
「はいはい」
 可愛いおねだりに、私はぽんぽんと一定のテンポで背中を叩く。
 寝静まったらさすがに、色々させてもらうからね。もう、すぐにでも寝そうだね。
 深く、睡眠の呼吸になりかけた喉を震わせて、消太は小さく、大きな情報を追加してきた。
「一生……」
 一生。まさかのスケールに言葉を失う。
「ふふ」
 熱に浮かされて言うことなんて、本気にしてあげませんよ。
 はいはい、と広い背中を撫でる。私の胸の中で、消太はホッとした子どもみたいに眉間の力を抜いて、穏やかに眠りについた。
 何も、聞かなかったことにしてあげる。
 知ってるもの。消太が最近、ジュエリーショップや式場の広告に目を止めること、気付かないわけないでしょう。
 待っててあげるから、早く元気になりなさい。



 翌朝の彼は、ガラガラのカスカスの声で、まだ熱に唸りながら「ごめん」と言った。
 私を腕から出すだけの元気は出たらしい。
 お粥をベッドに運んで、「愛してるは?」と聞いてみると、消太はドライアイを忘れた瞳を見開いた。
「柄じゃない……」
 少し迷った末、そう言って誤魔化すようにお粥を口に運んだ消太に、私はクスクス笑ってしまう。
 どうやら、あーんまでは必要ないみたいだけど、消太は仕事を休めるように調整したし、私に看病される気があるから、それで十分。
「ちゃんと、するから……治ってからにしてくれ」
「はいはい」
 ゆるゆると頭を撫でてやると、消太は表向き不機嫌そうに機嫌良くお粥を飲み込んだ。

 叱りましょう。甘やかしましょう。愛しましょう。
 あなたが私に、教えてくれたから。



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