カレーライスの約束

 世界が私を拒絶している。
 そんな風に感じる日が、きっと誰にでもあるだろう。
 優しく温かいコミュニティから弾き出され、孤独と虚無への恐怖が心を侵食してくる。
 笑い声は私への嘲り。
 ため息は私への非難。
 しまいには、SNSで見かける「挨拶をしないやつ苦手」なんて、常識を言ってるだけの言葉さえ、私の不出来を責めているみたいに思える。
 これは、私のことだろうか。
 どれが、私のことだろうか。
 早く家に帰って一人になって眠りたい。



 エレベーターまであと少し、狭まっていく扉の隙間から、中の人と目があった。のに、そのままぴたりと閉じられて、動き出した階数表示に、最早ため息すら出なかった。
 また拒絶されたと心が沈む。
 乗ります、って言えば良かったのに。今日の私からはそんな元気な声は出なかった。
 なぜだろう。話しかけたらウザイと思われるんじゃないかと、根拠のないネガティヴが私の心をずっしりと暗がりに引き止めるのだ。
 閉ざされた扉の前で次の箱を待ちながら、両手を目一杯伸ばして持っていた段ボールをよいしょと抱え直した。箱から飛び出すほど満杯のガラクタがガチャリと音を立てて私をバカにする。
 仕事だ。頭を切り替えて。明日の授業についてでも考えよう。
 チン、と軽いベル音と共に、左右に広がった扉。やっときた、と思ったその箱の中で、真っ黒の長身が私を見つけて半眼を見開いた。
「どうした。泣きそうな顔して」
「ん、なにも、大丈夫だよ」
 乗り込もうとしたそこには先客がいた。消太は、少し端に寄って私のスペースを開けてくれる。
「下、行くんだろ?」
「うん、一階に」
 私が乗り込んだのを見てから開ボタンは離された。
 続いて階数を押してくれるのかと思いきや、消太は両手をポケットにしまい込む。
 エレベーターはゆっくりと閉ざされた。
 荷物を持っているから、お願いなんてせずとも良きに計らってくれて然るべきなんて傲慢な思考に羞恥が湧き上がる。
 すみません。自分で、押します。
 自分の横のボタンを見ると、既に「1」は光っていた。
 あぁ、またなんて失礼な事を。消太がボタンを押す気配りもしてくれない意地悪みたいに考えた私のバカ。
 ネガティブがおかしな方向に行ってる自覚はある。
 消太は片方のつま先を私に向けて半分見返ると、溢れそうな段ボールに呆れた視線を注いだ。
「なんでその量一人で運んでんだ」
「う」
 低い声と同時に、べし、っと降ってきたバインダーの衝撃に思わず目を閉じる。消太は私を叩いたバインダーを頭に置き去りにして手を離し、僅かに屈んだ。
「持つよ」
 不安定なバインダーを落とさないように頭上へ集中した意識。突然浮くように軽くなった腕。
 何事もないかのように澄ました顔の消太が、私の抱えていた荷物を全て奪っていた。
「わ」
 ずるりと視界を暗くして落下してきたバインダーは、ギリギリお腹の前で差し出した手の中にストンと収まった。
「ゴミ捨て場まで?」
 強制的に交換となった所持品を取り返す間もないままに、一歩も動けないうちに一階にたどり着いてしまった。
 扉が開き切る前に、消太は一人分の隙間を見切ってするりと廊下に踏み出す。
「あ、うん。ごみ、です」
 パタパタと追いかけた黒い背中は、歩幅を狭めてすぐに私と並んだ。
 無表情なのに、少し不機嫌にも見える横顔。それは私のメンタルが弱っていてそう感じてしまうのか、本当に面倒だと思われているのか。面倒だと思われているなら、ここで荷物を返してもらって、仕事に戻ってね、と言わなくてはいけない。それなのに、親切が嬉しくて、消太と歩けることが嬉しくて、自分勝手だけど言葉が出ない。
 私は託されたバインダーをぎゅっと胸に抱き締めて、数人の生徒とすれ違い様に挨拶を交わしながら、雄英の広い校舎内をスタスタと歩く。
 人の居なくなった長い廊下の中腹で、消太は結んでいた唇を解いた。
「……呼べばいいだろ、誰か」
「う、ん。ごめんなさい」
 叱られた。消太はちらりと横目で私を見て、少し唇を突き出して、ふんと鼻から息を吐いた。
 どうしよう。誰か、と呼びかけて誰からも返事が貰えなかったらと不安になったなんて言えない。大人としてコミュニケーションの不全が情けない。だってみんな忙しそうで。
 消太は十歩分くらいのとぼとぼした沈黙の後、躊躇いがちに口を開いた。
「……誰かじゃないな。俺を、だ」
 さっきより少し穏やかな声がぽつりと廊下に染みる。
「消太を?」
 だって忙しいじゃないの。消太は担任も持ってるし、仕事たくさん抱えてるし、会議もあったりするし。それに面倒くさい女だと思われたくない。
「落ち込んでるなら言いなさい」
「うん……」
 返事だけは素直にしたとて、けれど言える勇気があるだろうか。
 だって、落ち込んでます、ネガティブです、と主張したところでどうなるというの。こんな気分になるきっかけは、対人関係であったり、もしくは生理であったりする。月に一回二回と高頻度で慰めが必要な欠陥品だと主張して愛想を尽かされるくらいなら、私の中に閉じ込めるべきではないか。
 わだかまったままたどり着いた裏手口。消太の前に駆けて扉を押し開く。
 校舎の裏の廃棄物エリアは室内と室外の空気が混ざった不思議な風音がする。
「言えなくていいから、俺の目の届くところにおいで」
 風のなかで囁かれた消太の声は、ひどく不安定に聞こえた。
 空調の途切れたコンクリート剥き出しの空間で、蒸し暑さに襲われながらその意味を考える。
 辛いとも、慰めてとも、励ましてとも言えない私を許してくれる言葉が嬉しい。
 消太は、どさりとゴミ山にゴミを重ねて、ふぅ、と息をついて、手を払うように叩いた。パンパンと反響した乾いた音に、蝉の声が混ざっている。
「ありがとう」
 そう声をかけると、振り向いた消太の表情が柔くなっていた。二人きりの時にしか見せない顔。甘い瞳が私に微笑んで、大きな手が伸びてくる。
「今日は、早く帰れるからウチに来い」
 バインダーで叩かれた時とは打って変わって、ふわりと頭に乗った手が小さく揺れる。
「え、でも私、少し残業かも……」
「ん。夕飯作って待ってる」
 消太が。ご飯を。でも仕事の後で、疲れてるのに、私なんかに。
 きょろりと視線を迷わせた私の訝しげな表情を見て、消太はむっと眉根を寄せた。
「俺が料理できないと思ってるのか?」
「いや、いやいやそんな事はないけど」
「……カレー……とかでいいか?」
「うん」
「無理に元気になる必要はないが、甘えられる相手には……俺には、甘えとけばいいだろ」
 人目のないゴミ捨て場という、ムードもロマンチックのかけらもない場所での密やかな逢瀬。俺に、と限定してくる可愛いらしさが、私の心に栄養をくれる。
「ありがとう」
「待ってるから。な」
 頷いた私の安堵を映すように、消太の目尻がふと綻んだ。その優しさに目を奪われている間に、唇まで奪われて、私は、突如として軽くなった心を持て余して、彼の作るカレーライスに思いを馳せる。
「さっさと戻るぞ」
「はい」
 仕事の顔に戻った消太は、ピリッと背筋の伸びる声で私を律する。
 戻った校舎内は、さっきまでとは違う空気に感じた。
 ただいま、と、いい匂いのする彼の家に帰る約束が、今の私も一人じゃないと教えてくれているから。

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