お昼寝にうってつけの日

※このお話は、サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」の話題が含まれます。




 夏休みの図書室、陽射しはロールカーテンを通ってなお、秩序を保って並んだ背表紙を眩く照らす。
 その光の強さに反したこの部屋の涼しさは、どこか非現実的な歪みを持っている。
 図書委員の彼女は、カウンターの中で誰もいない図書室の番をしながら、文庫のページの中で視線を上下に動かしていた。
 俺の来訪は、彼女の集中を途切れさせる要因にはならないらしい。
 カウンターに敷かれた透明なデスクマットの下には「今月のおすすめ図書」と題したプリントが挟まっている。九つものタイトルが丁寧なレタリングの文字で綴られ、興味を持たせるためのあおり文が添えられている。
 俺はその上に手を置いて、一拍、丁寧に息を吸った。
 なにしろ、体の半分だけに夏の光を浴びて、丸い眼鏡の奥で長いまつ毛をわずかに震えさせながら物語を追いかける彼女が、いやに儚げに見えたのだ。常世のものならざるその雰囲気に、怖気付いたとも言えるかもしれない。
「読書中、悪いが」
 ともかく俺は声をかけた。ここに来た目的を果たさなければいけないし、時間は有限である。
「いつものように頼めるか」
 彼女は物語の世界から帰還し、その瞳に俺を映した。ぱちり一度の瞬きの間に、先程までの異質さは消え失せ、ただの高校生の少女になる。
「相澤先生、また眠れないんですか? 今日は誰もいないんです。お好きな席でどうぞ」
 晴天の鮮やかな栞を頁に挟み、彼女はパタンと物語を一時保留して、俺の後を辿るためにカウンターからこちらへと出てきた。
 さて、貸切状態といっても、六人も座れる大きなテーブルを使うのは気が引ける。俺は結局、図書室奥角の、辞書なんかの分厚い本ばかりが並ぶ日陰の棚に囲まれた、まさにこの部屋の涼しさと印象の合う場所を選んだ。
 意外と人気なこの席に座るのは初めてのことだった。
「今日はどんなでしょうか。じゃあ、いきますね」
「ああ、頼む」
 透明な眼鏡の奥の、夢見るように光る無垢の瞳を見つめる。吸い込まれるようなその深さは、まるで長く壮大な話のプロローグを思わせ――。
 次に現実へ意識が浮上した時、俺は机に片頬をつけだらしなく口を半開きにしていた。視界のほとんどは辞書の背表紙で埋め尽くされていて、ここが図書室であると思い出す。
 ほうと深呼吸しながら顔を上げる。カウンターにいるだろうと思っていた彼女は、真向かいですらりと背筋を伸ばし、またあの文庫の世界を楽しんでいるようだった。
 短く揃えられた爪の指先が、先の展開を求めて紙を返す。俺が寝ているのを見守っていたとして、彼女が無為な時間を過ごしたわけではなさそうだ。
 彼女越しに、明るい向こう側の壁にかかった時計を確認する。俺は十五分ほど意識を失っていた計算になるが、毎度のことながらそんなに短時間なのかと驚かされる。体感的には一時間、いや二時間でも三時間でも寝ていた気分だ。
 何とも便利な個性を持った彼女に出会えて、俺の仕事効率は幾許か向上した。そしてなによりこの覚醒時の脳のすっきりと冴える感覚は癖になりそうだとすら思う。
 彼女は指定した時間の中で、現実時間とは異なる桃源郷のような夢を見せてくれる。そして夢の中で過ごした時間分の睡眠効果を与えるのだ。
 今日の夢は、とても不思議な、海の、なんだろうか。魚の話をした気がするが、あまりストーリーとしてはっきり思い出すことはできない。
「俺の七十八はなんだろうか」
 夢を思い出そうとして無意識と呟いた数字の意味は、自分でもよくわからない。単に数字ではなく、俺は、と付けた意味も、追いかけようとする程に霧になって消えてしまった。
「七十八ですか?」
 彼女はどこか遠くの冒険から突如図書室へ帰還して、意味不明な数字に首を傾げた。
 彼女が見せる夢は、彼女が読んだ物語の中から選ばれる。だから、何か分かるかもしれないと思ったが、流石に無理があるというものだ。いったい彼女が読んできた本の量といったら、恐らくは雄英一、いや高校生としては全国一位の可能性すらある。
 彼女は、本を開いて持ったまま、七十八、七十八、と小さく呟き右上へと視線を泳がせている。丸い大きなレンズの眼鏡と同じくらい丸い目が、一生懸命に記憶の図書を巡っている。
 彼女ばかりに考えさせるのも気が引けて、俺はなんとかその数字のぼやけた印象を手繰り寄せる。
「俺にとっては、例えば、奪った夢の数か、捕まえたヴィランの数か」
「良くない数字なんですね?」
 ふむん、と愛らしく唸った彼女は、栞を本の谷間へと置くと「ああ」と目を輝かせぱたりと閉じた。
「物語の中ではその数字は具体的な意味がわかりません、たぶん、恐らく。それでも、そうですね。私の解釈だと」
 大声を張り上げた事など一度もなさそうな繊細で澄んだ声が、心地よく耳に届く。夢の中にいる時はその世界に没頭しているのに、起きると途端に薄ぼんやり消えてゆく幻の答え合わせのような、一緒に輪郭を探すようなこの問答が、俺は嫌いではない。
「例えば、相澤先生が、ご自身の心を見て見ぬふりした数ですとか」
 わずかに細められた目と、ふわりと微笑む唇に心臓が高鳴る。
 なるほど、それは。彼女を前にして、その言葉を受けて、一番に思い当たるのは当然彼女のことだった。想像だけで何度、その柔く滑らかな頬に触れたかと、思わず記憶を掘り返してしまう。
「私も同じ穴で、一緒にバナナを食べましょう」
 バナナを、と言われて、パッと夢のイメージが蘇る。あぁそうだ、不可思議な魚の話を聞いたんだ、バナナのたくさんある穴に入ってバナナを食べすぎたあまり、太った魚が――。
「それだと二人とも出られなく……」
 魚の結末を思い出して、俺は彼女だけでも救うべく、二匹でバナナを食べた場合の可能性について提言しようと、して、言葉を飲み込んだ。
 彼女は悪戯っぽくにんまりと微笑んで、頬杖をついて俺を見つめたのだ。
「先生は、私と一緒に熱を出して、倒れてはくれないんですか?」
 なんとも生意気で俺は頭を抱えてしまう。
 彼女もまた幻想の魚ならば、いいやそれでも、あげて六本だ。俺の方がどれだけ我慢をしているか。この、如何ともし難い関係の中で。
「次はもう少し穏やかな話を読んでくれ」
 絵本のようなラインナップでも構わないから、あまり心臓に悪い会話が生まれようのない夢を見せてもらえないものか。
「夢に見せるお話は明確に選べないんです」
「なぜこの夢を見たんだ?」
「なぜでしょ、相澤先生が脚を怪我されたからかもしれませんけども」
 その理由からは全く夢の内容が蘇らない。その本があるなら借りていこうか。いや、やめておこう。どうせ難しくて俺には難解で、結局彼女に解説を求めて、突拍子もない例を上げられて惑うことになるのだろう。
「シー、モア、グラース?」
 ふふ、と彼女は愛らしく笑う。
 今日は随分と機嫌良く俺を揶揄ってきていやしないか。やられっぱなしにされてやってもいいのだが、この曖昧な会話でどこか負けているような俺の中で意地みたいなものが頭をもたげる。
 ふんと短く息を吐いて、俺は、彼女と同じく頬杖をついて、その眼鏡を通して無垢の瞳を見つめる。物語の中での恋しか知らない彼女が、現実の熱にどんな反応をするのか興味が湧いた。
 じいっと、胸の中で七回拍を数える。視線に込めたものといえば、ひたすらに俺の中に渦巻く燃えるような感情のみ。
 見つめ合ううちに、彼女の頬は秒ごとに色濃く染まり、輝きは揺れる。
 ふっと先に視線を逃したのは、彼女の方だった。俺は満足して立ち上がる。
「良質な睡眠をありがとうね、またそのうち、頼むよ」
 先に日陰から出た俺を、彼女は慌てて追いかけてくる。
 空調の効いた室内でも、陽の当たる場所は暖かく心地いい。ぐっと伸びをした俺の傍らで、彼女が一生懸命に恋を押し殺そうとしている気配がするので、俺は熱を出して寝込む太った魚が頭に思い浮かんだ。
「食べ過ぎて死なない程度にしなくてはいけないな」
 ぽつりと言えば、彼女は珍しく驚いた顔をして、そしてむっと頬を膨らませた。
「それなら、さっきのは致死量です」
 俺たちを取り巻いていた夢の気配はどこかに飛んで消えた。
 あんまり可愛い事を言ってくれるな。伸びをして高く上がった腕を、強固な意志でもって体の横に戻した俺が、熱を出すだろうが。


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