檸檬

「ショータ!」
 高く、暖かく、そして凛とした。夏の赤くなり始めた空の、雲の隙間から刺す日差しのような声が、俺の名前を叫ぶ。
 振り返れば、彼女は全力疾走で俺の背後に迫っていた。真っ直ぐに伸びた手が、俺の手を掻っ攫って、強く強く引かれるまま、脚は勝手に彼女を追いかけて回る!
「まてっ! おまえらー!」
 山田の大声がビリビリと背中を押してくる。
「なんっ、なんで逃げてんだよ」
「ひみつー!」
 前髪が風に撫でられて後ろに流れ、丸いおでこを剥き出して、大きく口を開けて彼女は笑いながら走った。
 春と夏の間の、この季節を全力で走った。
 地面を蹴り、重力など無いかのように軽く、青々とした芝と空と風と土の香りを吸い込み、スカートを揺らしながら、若さを爆発させるようにして走った。
 ぎゅっと握られた手が熱くて、胸が高鳴る。走って、いるから。



「で、っ、はぁっ、なん、だった、わけ」
「はっ、ふは、えへ、おこんない?」
「内容に、よる」
 広い雄英の敷地内、点在する施設の一つ、大きな演習場の外の自販機前。
 肺の限界まで走って随分と遠くまで来てしまった。彼女も、俺も、犬走の縁石にどさりと腰を降ろしてぜえぜえと呼吸が整うのを待つ。
 二人分の酸素がこのへんの空気から消えて、二人分の二酸化炭素が吐き出されて、それを繰り返すうちも、彼女はニコニコと笑っていた。
「ん、とね、山田がね、彼女にあげようとしてたお菓子をね、食べちゃったの」
 えへへと笑って、膝に顎を乗せて横の俺を見る。彼女だけ、日陰の中にいた。暑くて仕方なくて、ちょうどこの、ひとりぶんしかなかった自販機の横の狭い日陰を譲ったから。
「あぁ。なんで、それで俺まで」
 最近彼女ができた山田は、どうもその紳士ぶりを遺憾なく発揮してプレゼント魔になっているらしい。
 そういえば今朝可愛いらしい紙袋を、持っていたようないなかったような、いやあれは昨日か、なんて思い出しながら聞くと、怒らないでね、と企んだ笑顔が続きを口にした。
「山田に、ショータと食べたって言ったから」
「オイ」
 なぜ勝手に俺を共犯にした。
 そもそも何故食べた。
 それを、聞くほど俺は野暮ではない。
「怒らないって言った〜」
「言ってない。内容によるって言ったんだ」
「そうだっけ? あー、喉乾いた! 財布ない!」
 目の前に自販機があるというのに、それはかわいそうなこって。
「スマホあれば買えるだろ」
 立ち上がりながらポケットのスマホをするりと抜き出すと、彼女はぱちぱちと拍手をした。
「えっ、ショータすごぉい! ありがとう!」
「なんっでおまえの分も買うと思ってるんだよ」
「優しいヒーローは、こんな私を放っておかないからですぅ」
 眉を寄せても彼女には通じない。その通りだよ。買うつもりだったよ。
 彼女がいつも選ぶ、黄色い炭酸飲料のボタンを押す。ガコン、と落ちてきたそれを出さずに、同じものを、もう一つ。ピッとかざした電子決済の音が、爽やかに吹き抜けた風に流されて消えた。
「え〜、今日はそれじゃないのが良かったぁ」
 キラキラとしたペットボトルを、日陰に差し出す。座ったまま俺を見上げるぶーたれた顔。
「山田の色じゃん」
「え、ごめん」
「うそ! ありがと」
 ぱっと笑って黄色のペットボトルを受け取った彼女は、陽を浴びていないのに眩しい。
 にっこりと目を細めると、目立つ涙袋。頬を上げて、綺麗な歯並びを見せて、形のいい唇が横に広がる。
「……どーいたしまして」
 日陰がこんなに眩しいから、日向に視線を向ける。明るいグリーンがそこかしこで光を反射しているってのに、この、右横の日陰のよりだいぶ刺激が弱く感じた。
「ん」
 ぎゅっと捻ったキャップから、プシュ、と空気が抜ける。それと一緒に彼女の笑顔から何かが抜け落ちた。
「ねー、ごめんね」
 彼女にならって、キャップを捻る。プシュ、と抜ける空気と一緒に俺の気持ちが漏れない様に、ゆっくりと。
「べつに」
 唇が透明の円に触れて、二人同時に空を見上げた。ひんやりと冷たくて、パチパチと弾ける液体が、喉にぐびぐびと押し込まれていく。内臓までしゅわしゅわ泡立つ。
 ぷはっ、と先に息をついたのは彼女の方だった。
「あーあっ! 一年の時から好きだったのになぁー!」
 よく通る声が、夏に向かって放たれる。俺はまだ終わらない春を睨んで、彼女と全く同じセリフが湧き上がるのをぐっと堪えた。
「そんなもんだろ、恋なんて」
 え、と目を丸くした彼女は、あんぐりと口を開けて固まって、そして、くしゃりと笑顔を咲かせた。
 晴天に響く爆笑。
 人の気も知らないで、を二口目の炭酸と一緒に飲み込んで、どこまでも続く薄青を睨む。
 この不器用すぎる残念な俺からの慰めの、この、共犯になってやる俺の、その意味を問うほど彼女も野暮ではない、のかもしれない。もしくは単にヒーローだと思われてるなら、それはそれで、まぁ、いいのだ。
 爆笑を落ち着けて、ごくごくと黄色を飲み干した彼女は、すっかり透明になったペットボトルを太陽に翳した。
「ごちそうさまでしたっ」
「ご愁傷様でした」
 笑い声に揺らされて、きらりと水滴がその中を滑る。
「はぁ〜! さて、のんびり歩いて帰りますかー」
 立ち上がった彼女は、自販機の隣のゴミ箱にペットボトルをスコンと捨てて、ぐっと伸びをして歩き始めた。
「山田への言い訳考えるか……」
「もう許してくれてるかも?」
「ソーカモネ」
 俺はまだ、中身の残ったそれを捨てられずに、キャップを閉めて手にぶら下げて歩く。歩調に合わせて、液体が揺れる。
 しゅわり、うまれてのぼって消える。
 
 彼女はきっと、二度とあの黄色い炭酸を買わない。



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