失くした腕が抱えていた

 運悪く、夏の夕立に降られたその日に限って、私は傘を持っていなかった。

 駅まであと少しだけれど、もう、身を隠さずにはいられないほど雨粒は大きく激しく、ほらほらと小さなセーフティーゾーンに私を追い立てた。
 飛び込んだ商店街の軒下。ボロボロ――ノスタルジックな錆びた看板には昔からお馴染みの薬局のキャラクターが褪せた色で笑顔を貼り付けている。窓ガラスは、ゴシック体で大きく滋養強壮と書かれた栄養ドリンクの広告や、女性の身体のリズムに配慮したピンク色のポスターでセンス悪く彩られている。
「はぁ」
 仕方ない。少しここで休憩させてもらおう。暑くて湿度も高くて濡れて最悪だ。
 視界が悪く顔を上げて走ることすらできない悪天候だけれど、恐らくすぐに止むだろうし、私は急いでなどいない。
 顎を伝う温い液体を片手で拭って、自分の有様を見下ろす。
 雨粒を払うというには、あまりに染み込んでしまっていて救いようがない。
 べったりと肌に張り付くTシャツは、それもまた今日に限って白で、恥ずかしい事にラベンダー色のレースが浮き出てしまっている。
「ひどい雨ですね」
「あ」
 空のバケツに落ちる水のように、突然右耳に飛び込んできた低音。
 反射的にパッと体を抱いて胸を隠し、首を回して、私は固まった。
 夏だと言うのに全身黒のツナギに、謎の布を首に幾重にも巻いて、長い黒髪から水滴を垂らす男がそこにいた。
 なぜ声をかけられるまで気が付かなかったのか。
 高身長、そして怪しげな小汚さのある風体に、背筋が警戒にゾクリと湧いた。
「すみません。気付いてないようだったので、後から驚かれるよりは合理的かと声を――」
 濡髪の隙間から私を見た切長の目が、唖然とした色になって丸く見開かれる。白目の真ん中に、ちょんと揺れる黒瑪瑙。
 私もその瞳を見ながら、彼と同じように眉を上げ、同じ速度であんぐりと口を開いていた。
「あ……相澤くん?」
「あ、あぁ」
 あぁ? あぁ、だって。
 目の前の男からする、相澤くんの声。
 相澤くんの。
 何年も同じポスターを貼っている老舗薬局のせいじゃなく、雨がもたらす特有のセンチメンタルのせいでもない。
 私のノスタルジーは彼の瑪瑙に加速して、雄英の制服に身を包んで過ごした夏の匂いが鼻腔に蘇る。

 ――雄英のヒーロー科に合格し、一年と半分くらい在籍していたことは、私の人生の中でピークと言える輝かしく誇らしい功績だ。
 勉強と訓練と恋にまみれた私の全力の日々は、美化してガラスドームに閉じ込められていた。今、相澤くんが目の前に現れるまでは。
 パリンと弾けたガラスから、どっと溢れ出す青い季節。
 彼と、付き合っていた。
 初恋だった。
 初めて告白というものをして、初めて恋人という関係を結び、初めて手を繋ぎ、初めてデートをして、初めてキスをした。
 切ないほどの心臓の高鳴りを今でも鮮明に思い出せる。手に触れる直前の、喉の鳴る音も。唇が重なる瞬間に香った彼の汗も。
 彼は私の青春そのものだ。
 懐古が脳をガツンと揺さぶって、私の心に雲がかかる。
 毎日真剣に学んで、バカみたいに笑って、ムキになって競って。相澤くんと――山田くんと、朧と。
 泣きたくなるほど、思い出すだけで苦しく胸を締め付けるられるほど、完璧な日々だった。
 
 こんな所で会うなんて。
 こんな日に、会うなんて。

 あの、全てが変わったあの日。
 私たちの親友は命を失って、私は両手を失った。

 掌から発動するはずの個性はトリガーを見失い発動できなくなった。
 メカニカルな最新の腕をぶら下げても、私はもうヒーローにはなれなかった。
 ――だからゴメンね。私と別れて。
 秋の放課後。訓練用の体育館で相澤くんに頭を下げた。
 必死だったから、上手に笑えていたかどうかすら覚えていない。
 
 あの頃私は壮大な夢を見ていた。
 努力して、活躍して、笑顔で人を救うヒーロー。泥まみれになるような訓練も、怪我も、明るく眩い未来へと繋がっていると信じて疑わず、真っ直ぐに見据えていた。
 その景色に辿り着くことは一生あり得ないと、橋を落とされた私の絶望は、目の前が真っ暗とか、足元が崩れ去るとか、そういった表現の全部を一気に浴びせられたようだった。
 ヒーローになれない私。
 ヒーローを目指して、がむしゃらになれる相澤くん。
 倒れる程の努力を許されたその身体。相澤くんの五体が満足である喜びと同時に、切磋琢磨から外された私は。私は。

「元気、だった?」

 相澤くんは髭なんか生やしちゃって、童顔を無理やり大人にしたみたいに見える。昔から目つきは悪いけど、その下のくまは苦労を想像させる。

「あぁ」

 濡れてぺしょんとした頭頂から、真っ黒のブーツまでをゆっくりと見下ろす。血色の悪いゴツゴツした手が、あぁ懐かしい、そうだ捕縛布。捕縛布をぎゅっと握りしめている。もう片手はポケットの中で見えない。あの頃と大して変わってない真っ黒のヒーロースーツ。雨のしぶきが、軒下の影に入ってきて彼の足元で小さな波紋を作っていた。

「おまえは……結婚したって、誰かから聞いたよ」

 久しぶりすぎる再会に距離を測るような控えめな声が、土砂降りの音に紛れながら届く。
 ダバダバと雨樋を溢れさせるほどの豪雨に、相澤くんは私の声を拾うためか、一歩、その距離を縮めてきた。

「うん、したよ、結婚」
「おめでとう」

 おめでとう。か。
 私は思わずハッと笑ってしまった。
 無理矢理させられたお見合いの、私よりずっと年上の、冴えないオッサンとの結婚は何もおめでたくなかった。
 ヒーローの道を諦めた私は、けれど腐らずに、違う道で人を救おうと医療系特化の学校に転校した。けれど心が限界だった。友人と腕と未来と恋を一度に燃やされて、私は灰のように白くなって崩れてしまった。
 一人になると涙が止まらなくて、トイレだって誰かについてきてほしかった。常に他人といなければ、割れそうに張り詰めた心が正気を保てなくて、彼氏をたくさんつくった。
 両親は、ヒーローも学業も精神も崩壊した娘に、最後の期待として女の幸せを押しつけてきた。
 自分の進むべき道を見失っていた私は、その分かりやすい幸福の形に乗っかってしまった。
 2年も前の話だ。
 そしてもう終わった話。
 私はその最後に与えられた幸せらしき物からも、弾かれてしまったのだから。

 自嘲と唇を噛んで、相澤くんの視線から逃げるように軒先から垂れる雫を見つめる。

「……わ、別れたの」

 情けなく震えた声のあと、言わなきゃよかったと後悔したのに、なーんちゃって、は付けられなかった。

「……そうか」

 相澤くんは、低く呟いた。
 気の利いた慰めの言葉を探してただろう、数秒の沈黙の果てにただの相槌。昔と変わらない不器用さに、内臓が絞られるように痛んだ。

「ついさっき、離婚届、出してきたんだ」
「……そうか」
「へへ。こんな日に、まさか相澤くんに会うなんて、ね」

 何もついていない左の薬指の人工皮膚を撫でる。つけていてもつけていなくても、私にその感触は残らない。
 捨てられたのだ。いい家の人だったから、跡取りを産めないらしい私は見限られたのだ。
 相澤くんなんて、今の私のこと何も知らないんだから、結婚して旦那も優しくて専業主婦させてもらってとっても幸せですって、嘘でもバカみたいに笑って見せればよかった。
 慰めて欲しいみたいじゃないか。
 こんなの、相澤くんに見せたい私じゃない。
 相澤くんにこそ捧げたかった全ては、もう戻らない。相澤くんに見せたい私がどこにもいない。

「相澤くん、は、ヒーローしてるんだね」
「……今は雄英で教師もやってるよ。山田も」
「っ……そうなんだ。すごい」

 あの時の理想をそのまま突き進んだ、それどころか雄英で教師まで。当時と見紛うほど邁進した相澤くんと山田くんと、今の自分を比べてしまう。何の肩書きもない。私に誇れるラベルは一つもない。

「山田くんはラジオとかも……すごいよね。元気そうでよかった」
「これ、かけとけ」

 不意に、ふわりと肩に薄手のタオルがかけられた。長めのそれは、Tシャツに透けていた下着を申し訳程度に隠してくれる。

「こんなのしか無くて悪いな」
「ううん。ありがとう。ヒーローだね」

 相澤くんは。
 相澤くんだけが、ヒーロー。競い合ったはずの過去は過去でしかない。
 私は相澤くんの方を向くことができなくて、タオルの端っこを広げて胸を隠す面積をひろげてみたりして。
 古傷の表面をヤスリで撫でられるように痛む。恥ずかしくて、惨めで、それなのに助けてと叫ぶのはプライドが許さなくて。

「相澤くんが、元気そうでよかった」
「……」

 雨は少し勢いを弱めた。ここを、立ち去れと言うように。
 サヨナラを言おうと横へ向き直ると、私を見ていたらしい彼とパチンと視線がぶつかった。
 そして気付く。目の下の傷。

「これ、大丈夫なの、目」

 濡れた髪が隠すその先を確かめたくて、髪を掬って頬に触れる。右目の下で横に伸びた傷はどうやら眼球を傷つけるような怪我ではないらしい。
 ぴくひと肩を揺らした彼は、されるがまま、私を見下ろしていた。

「個性は使える。問題ないよ」
「そう。よかった」

 久しぶりに触れた。以前より肉の薄くなった頬。髭のちくちくした感触を、本来ならば指先で感じるはずなんだろう。
 怪我、気をつけてね、大変だと思うけど元気でね。そう言葉を用意して、離れるはずだったのに、
 頬から落ちた手は下がり切る前に何かにぶつかった。
 頭を俯けると、相澤くんの手が私の義手のを捕まえていた。

「まだ、俺は頼りないか」

 ぽたりと、その手の上に水滴が垂れて跳ねた。
 涙かと思った。絞り出すような声は何かに耐えているようで。
 見上げると、眉間と鼻根に皺を寄せて、形のいい眉が歪んでいる。

「どうし、」

 懐かしさのない頬に、髪から落ちた一雫が線を描く。

「ヒーローになった。……だから」
「なにも困ってないもん」

 一人でも泣かない。何でも泣けなくなったから。あの頃涙は枯れたから。心はずっと晴れているし、いい大人になったから、どんなに苦しくても笑って誤魔化せるようになったから。

「頑張ってね、ヒーロー」

 掴まれた手を動かして、上手に逃れたはずだった。

「おまえは本当に、サヨナラが下手だね」

 覚えのある感触が私の息を止める。
 生々しく夏が蘇る。

「もう、いい。俺と来い」

 雨音が返事をかき消すほど激しくなる。

 濡れることなど厭わずに彼は私の冷たい腕を引いて、水たまりへと踏み出した。


 降り続ける通り雨が、全てを流す。
 ぬるくて不快な雫が頬を流れても、私は彼の大きくなった背中を見つめていた。

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