悪い夢とあまえんぼ

「消太、別れよ」
 突然後ろから聞こえた声に、俺は振り返り、愛想の良くない目をかっぴらいて固まった。
 彼女は、普段と同じく、輝く丸い目でまっすぐに俺を射抜いていた。
「ごめんね、別れよ」
 目を合わせての二回目の提案は、仕事を理由に聞き逃すことも、聞き間違えることもできないで、俺の耳に届いて脳に浸透する。
 別れる? なぜ?
 何が彼女にそう言わしめたのか。
 彼女が休みだからと部屋に来てくれたのに、デスクに座って仕事ばかりしてるからか。彼女が来るとわかっていながらくたびれたスウェットのままだからか。出迎えもしなければお茶の一つも出さないからか。最近愛してると伝えていないからか。
 思いつくそのどれもは、もう当たり前に何度もそうだったんだから今更、とその有効力を否定したくなる。いや、いや、だからこそか。積もり積もってというやつか。
 時計の秒針が十二から十二までぐるりと一周する六十回のカチコチを聞きながら、俺は肉体を毛ほども動かすことができなかった。脳みそだけがフル回転して、切れ目の無い輪をぐるぐると駆け巡っている。
 俺は、ベッドで後ろに手をついて座る彼女を見つめて、たっぷりと沈黙した。
 加速したドライアイに、強制的に取り戻された瞬きが停止した時間を動かし、続いて呼吸が帰ってきた。冷や汗をかいて、乾いた喉がゴクリと唾を飲み込んだ。
 どうして、突然。
 と聞くべきだろうか。納得せざるを得ない理由が並べられたら、困る。
 彼女はいつの間にまとめたのか、ベッドのすぐそばに置いたキャリーケースを、コンとつま先で蹴った。
「それじゃあ、元気でね」
「まっ――」
 俺は飛び起きた。自室のデスクで。
 とどのつまり、夢だった。
 動悸と汗と喉の渇きだけは現実まで引きずってきてしまったようだ。
 ふう、と大きなため息をついて、じっとり張り付いた前髪をかき上げる。薄暗い部屋には、確かに俺一人で、時計の秒針とパソコンの駆動音だけが静寂を際立たせていた。
 変な、夢だった。
 同棲してるわけでもあるまいに、この部屋に彼女がキャリーケースにまとめるほどの荷物などそもそもないのだ。それに、別れの理由なんて、その場でしっかり聞いて話し合うのが合理的だ。なぜ夢の中の俺はそうできなかったのか。
 ――ピンポーン
 微小な環境音を塗り替えて、部屋への来訪者は応答を待たずにドアを開けた。


悪い夢とあまえんぼ


 チャイムを押した瞬間後悔した。消太が寝ているかもしれないのに、押す必要は無かったのに。
「おじゃまします」
 合鍵でドアを開けて、家主に届くはずのない声で小さく呟いて、ひっそりと踏み入る。慣れた香りと静寂に包まれて、心臓はちょっとばかし緊張していた。
 スリッパに履き替え、足音を殺しながらリビングへ。
「わ」
 驚いた。
 部屋の壁に向けて置かれたデスクから、消太がこっちを振り向いて、驚愕と言うに相応しい顔をして固まっていた。
 声も出さずに、黒目の小さな目を見開いて、じいっと私を見つめている。
「起こしちゃった? ごめんね突然」
 ピクリと黒のスウェットの肩が揺れ、どことなく張り詰めた空気は夢のように和らいで、消太はふぅと息を吐いた。
「いや。悪い、連絡してたか。寝てた」
 掠れた声が寝起きを物語っている。スマホを探してきょろきょろとデスクを見回した消太は、見つける前に諦めが勝ったようで、手も目も速度を失って止まってしまった。
 たぶん、あちこちに置かれた書類の影だし、ここに私がいるのにメッセージを確認する必要も無いと思い直したんでしょう。
「メールだけね。既読つかないから、寝てるかなって思ったんだけど、会いたくて」
「珍しいな。何かあったのか」
「んーん。ただ、休みだったから」
 消太は、そうだったか、と記憶を辿るように目線を泳がせた。ご明察。お休みなのは明日です。だから、仕事の後に来たんです。お泊まりしたくて。
 寝起きなせいか、消太はどこか心ここに在らずといった様子で、パソコンの画面へと首を向けた。刹那、椅子をガタンと言わせて立ち上がる。
「悪い、出迎えもせずに」
「え? ううん、全然、仕事してて」
 出迎えなんて、いつもしないのに何を謝っているのか。
 消太は神妙な顔をして、椅子の背を握って立ったまま、眉間に皺を寄せた。
「何か飲むか」
 そんな怖い顔して飲み物を勧められたのは初めてだ。
 どことなくそわそわと、消太は冷蔵庫を目指す。女の勘が、隠し事の気配を察知する。
 だって私は、コーヒーショップのプラペチーノ片手にもって、腕に下げた紙袋にはフードと消太の分のコーヒーをデリバリーしてきたのだ。見たら分かる情報を、消太が取りこぼすなんて。
「コーヒー持ってきたから、おかまいなく」
 ホイップたっぷりのカップを上げて見せると、消太は、そうか、と呟いて、ちょうど私の前で停止した。
 目的を失った足は迷うようにゆっくりと、片方のつま先を私に向けた。
「ごめんね、邪魔だった?」
 テーブルに袋と飲み物を置いて、私は消太をこっそりと観察する。
 聞かれてはまずい電話をしてたとか、これから出かける予定だとか、もしくは部屋に誰か来るのか、私に変な部分があるのか。
 消太は自分の部屋なのに、所在なさげに視線をウロウロと迷わせ、ポケットに手を突っ込んだ。
「明日お休みなの。泊まれたらと思ったんだけど」
 長身の、私をかわす視線を捕まえて覗き込んで微笑むと、消太はあからさまにほっと強張りを解いた。
 そして、がしがしと頭をかく。
「あぁ、うん。いや、その、まぁ、なんだ。会えて、嬉しいよ」
 ボサボサに乱れた髪がいくらか表情を隠そうとも、こんなに近くから覗いていているのだから無駄なこと。
「あら珍しい。どうしたの?」
 ほんのり照れた頬に問いかけると、むっと唇がとんがった。
「……いいだろ。俺が言うと変か?」
「寝ぼけてる?」
 本音だよ、なんて低い声が囁いて。
 ポケットの中から出た手は私の手を引いて、ぽふんと胸の中に招待されてしまった。
 なんと珍しい消太でしょう。
「消太?」
 ぐりぐりと肩に押しつけられるおでこは、甘えてるみたいで、まさかの甘えん坊に笑ってしまう。
「なんだよ……」
 文句を孕んだお返事さえ、怖いどころか可愛らしい。
 ははぁん。なるほど。消太の違和感は、落ち込みね。仕事でトラブルか、生徒が問題児か。ともかく、私は歓迎を通り越してだいぶ求められているらしい。
 ぽんぽんと広い背中にリズムを送りながら、大丈夫よと伝えてみる。そばにいるから、さっさとお仕事に区切りをつけて、ゆっくりリラックスタイムを過ごしたい。とびきりのVIP待遇でサービスしたげようじゃないの。
「お仕事、してて、どーぞ?」
 応急処置には十分なスキンシップの後、いくらか回復したかと思ったのに、まだ供給は需要を満たしていなかったらしい。
「そんなに仕事させたいのか?」
 ぎゅううと腰をだきしめたまま、消太は身長差分屈んでいた体を起こす。当然、足の裏は床を離れ、消太の意のままに運ばれてしまう。
「わ、わ、なになに」
 安定的足取りは、無駄な広さの無い合理的な部屋を悠々と進む。
 どさりと程よい硬さのマットレスに落とされて、お尻が沈んだ。彼の背中に回っていた手はその衝撃で離れて、慌てて後ろ手に身体を支える。
 覆いかぶさった身体がそのまま押し倒しにくる、と思ったのに、消太はのそっと直立し、きょとんと座る私を見下ろした。そして、謎に、ぐっと顔を顰めた。
 形のいい眉が歪んで、けれど睨むというには迫力の無い瞳が私を映す。
 ついにその不審な挙動について白状する決意を固めたのか、消太は大きな手で顔の下半分を隠して、長い長いため息を吐いた。
「さっき、おまえが夢に出てきた」
「ほんと? あ、えっちな夢?」
 それで押し倒そうと? あ、もしかして一人でしてる最中でした?
 顔を隠す手は目元まで上がって覆い、ゆるく頭を左右に振る。んなわけないだろ、と呆れにも似た仕草は、ようやくいつもの消太に近い。
「違う。そんな夢見るほど溜まってない」
「ふふ。そう?」
 私は、消太のそのあまりの可愛さに、頬が緩むのを止められない。笑われた事にムッと下唇を突き出して、腕組みして。
 だって、不安だ。消太のしかめ面から滲み出る感情の答えは。
 夢を見たと言われて合点がいった。そう、つまり私が、ひどい怪我をするとか、敵に捕まるとか、何か良くないことに巻き込まれたとかそんな感じの悪夢だったのでしょう。
「……おまえは、不満なのか?」
「まさか」
 十分、というか時には限界を超えて、可愛がって頂いてるので。そっちの方面で不満などあるわけもない。けど、この質問を、口をもごもごさせて歯切れ悪く言うのだから、もしかして夢の中の私は不満そうだったのだろうか。
 私に不幸が降り注ぐのか、それとも私が消太を突き放すのか。ともかく、消太が、私関係の嫌な夢に消沈してることは確からしい。
「おーいーで」
 両手を広げて、ハグに誘う。
 消太は、眉を上げて一瞬嬉しそうに瞳を輝かせたくせに、それを隠すようにそっぽを向いた。
「シたいとかじゃ」
「わかってるよ」
 わかってますよ、温もりを確かめたかったのね。
 消太はおずおずと――そのぎこちなさが、屈辱的でか、恥ずかしいからか、あまりに嬉しくてなのか判断はつかない――床に膝をついて、私の胸に顔を寄せて腰に抱きついてきた。
 てっきり、押し倒すように二人でベッドで抱き合うと思っていた私は、消太の重傷っぷりを体感して面食らう。
 これは、よっぽどな夢を見たらしい。
「こわかったね」
「別に……」
 よしよしと癖の強い黒髪を撫でて、ぎゅっと胸に抱く。消太は、私を確かめるように、そこで大きな深呼吸をした。
 普段なら私が消太の胸くらいなのに、上下逆転のこのハグは新鮮で、しかも、母性本能? がくすぐられている気がする。
「私はここにいるよ」
「わかってる……」
 強がりな言葉と、ぎゅっと力のこめられた腕と、それに続いた、鼻を啜る音。
 まさか、まさか、安心して泣いて――。
 可愛いね、と言えば、うるさい、と顔を胸に擦り付けてくる。
 大好き、と言えば、う、と言葉に詰まった後、愛してる、なんて倍になって返ってくる。
 笑えば、笑うな。髪を避けて顔を覗こうとすれば、見るな。
 元気な抵抗は回復の証。消太をこんなにするなんて、夢の中の私は一体、どんな風に彼を傷つけたのか。
「ねぇ、私、何してたの?」
「夢で……見た、気がするけど、思い出せない」
「え〜?」
「もう、いいんだ」
 散々甘えた恥ずかしさからか、消太はついに、ぐっと戯れるように私を押し倒して、上気した頬で熱っぽく私を見つめて。
「……キスは……」
 意地らしいその姿に、ギュンと心臓が歓喜の悲鳴を上げた。髭に囲まれカサついた唇に、熱烈なキスをする。
 わかった、聞かないよ。
 あぁ、今日はめいっぱい、とことん、甘やかして好きを伝えてあげる。

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