目良さんのお誕生日の話

「おはようございます」
 その声を聞いた途端、僕の目の前には、あるはずもない荘厳な森が広がった。暖かな陽射しが枝葉の隙間から幾本もの線となって注ぎ、小鳥のさえずりと川のせせらぎが聞こえ、マイナスイオンに包まれた。
 目が醒めるような、美しく愛らしい声だった。
 ありふれた挨拶一つ。おはようございます、と半眼で顔も向けないで返して歩き去るはずが、喉も足も動かなかった。寝不足で重い頭を振って声の主を探してしまう程、鮮烈に胸に響いた。
 後に分かった事だが、それが、恋に落ちた瞬間だった。


『 目良さんのお誕生日の話 』


 ヒーロー公安委員会本部の大きなビルの中、一階のエントランスホールは、その建物の大きさからいうと驚くほどに狭い。
 何しろ唯の通過点であるからして、広さは求められていないのだ。セキュリティゲートが三つ並ぶその横の受付窓口。そこが、彼女の持ち場である。
「おはようございます」
 そのヒーリング効果のある声を聞くために、僕は全くもって無駄なことをしている。深夜仕事が片付いても、帰宅せずに仮眠室で眠り、早朝のまだ彼女しかいないゲートを通って退勤するなど。
 そして数時間後出勤し、「おはようございます、二回目ですね。お疲れ様です」なんて微笑まれた日には仕事が三倍あっても頑張れるような気がした。実際にはもうたくさんなのでこれは嘘だ。いや気持ちの面では本当だけれども。
 彼女を目にすれば脳からα波が出て体が軽くなる。僕が入り口の自動ドアをくぐると、パソコンへと向けられた面がスッと上がり、まつ毛が会釈して、髪をさらりと揺らし、口元が綻び、ゆるりと微笑むその一連の所作の瞬きといったら! 甘く花のような香りがふわりと空気に舞って、きらきらとしたエフェクトが見える。いやこれは彼女が実際輝きを撒き散らしているに違いない。こんなの推すしかないじゃないか。
 日毎、ゲートを通るたびに挨拶を交わしていると、おかしな時間に出退勤する男として彼女に記憶された。
 そうすると、交わす言葉は挨拶よりもう一歩、フレンドリーが増す。今日はお泊まりせず帰れるんですね、お身体大事にしてくださいね、朝までご苦労様です、もしかして徹夜ですか、などなど。彼女からかけられる言葉が増えるごとに、僕は小さく心の中でガッツポーズをするほど浮かれた。
 彼女は時々夜勤もしている。警備の当直というやつだ。若い女性を一人受付に残すのもどうかと思うが、実はしっかりヒーロー公安委員会の訓練を受けているので強いらしい。「こう見えて武闘派なんですよ」と細腕で力こぶを作るポーズをした彼女に、僕がどれだけ悶えたことか。顔には微塵も出さないが、自分のデスクについてから頭を抱えた。
 ある朝。その日は本当に仕事が終わらず、気がつけばすっかり明るくなっていた。そもそも休日出勤だ。なんとか全て片付けて、帰宅するべくエントランスホールへと向かう。
 ゾンビのような足取りで、顔色も悪く、服も皺になってみっともない。不思議なものだが、彼女にこんな姿を見られたくない、などという心理が働いていた。しかし彼女はそこにいたのだ。
「お疲れ様です。目良さん、今お帰りですか?」
 少しの驚きと多分な心配の色をしたさえずりが、僕のHPを僅かばかし回復させる。愚かしいことに、見られたくないなんて心は、ホームラン級にどこかに飛んで消えていた。自分の見てくれより、彼女が質問を投げかけてくれて会話になることに喜んでさえいた。
 セキュリティゲートにIDをかざしながら、さも舞い上がってなどいないと落ち着き払うように口の中を整えて、それからやっと言葉を出す。
「ええ、やっと終わりました」
 開いた唇から漏れた声は、彼女の音とはかけ離れた、くたびれた中年のよう、あ、そのままか。そんな酷くくたびれた僕に、彼女は驚いて駆け寄って来た。
「目良さん、コンビニのお会計じゃないんですから、スマホじゃここは通れませんよ」
 僕がカードリーダーに押し付けていたのは、カードではなくスマホだった。心配と一緒に、笑顔がふわりと花開くのを見て、僕はもう何もかもどうでも良くなってしまった。口元に手を当てて、なんて眩しく清廉なことだろう。
「はぁ、ついにもう頭がおかしくなりました」
 彼女へ態度を繕っていたことも、スマホをかざしている恥ずかしさも、限界を超えた疲労も、全部がふにゃふにゃと溶けてゆく。いやいや本当に全部。脚が体を支えられず、ふにゃふにゃとセキュリティーゲートの前に疼くまった。
 さして広くないエントランスホールで、巨大なため息を、尊いという意味のため息を、外まで溢れるんじゃないかってほど吐き出した。
 僕のその様子を見て、今にも倒れそうだと思ったのだろうか。笑顔を引っ込めて僕の横にしゃがんだ彼女は、眉をハの字にして、瞳は潤んで、僕を心配してくれている。そして彼女は控え目に、しかし最上級の攻撃力を持って僕をノックダウンする提案をくれた。
「私、夜勤明けなのでもうすぐ交代なんです。もし少しだけお待ちいただけるなら、目良さんさえ嫌でなければ、車で送りましょうか」
 僕はおそらくこの台詞を、その時の声も表情も含めて、一生忘れない。

 僕たちの関係は、職場の顔見知から、名前を把握し挨拶を交わす仲に進展し、挨拶に付随して会話をする仲へと進展し、時たま雑談で立ち止まる仲へと進展し、そして、階段十段飛ばして彼女の車に乗って家へ送ってもらったという特別な関係へと進展した。
 ありがとうございました、ではまた、と車を見送ってから気づく。僕は大きな失敗をやらかした。
 連絡先を聞けば良かった。お礼に食事でも、なんて誘うチャンスだったじゃないか! よかったら少し上がってお茶でも、と言う勇気はそもそも無いけれど、お礼くらい提案できただろう。
 さっきは疲労と尊さで頭が回っていなかったが、そもそも彼女はなぜ僕を送るなんて申し出てくれたのか。まぁ倒れそうに見えたからか。それだけか? 彼女はもしかして、僕に好意を持っている? 倒れそうな疲労困憊した職員へ誰にでも声をかけているわけじゃなかろう。少なくても悪い印象じゃないことは確かだけれど、あぁ、もう少し踏み込んでもいいのだろうか。
 受付のマドンナ。会えた日は嬉しい、会話になった日はもっと嬉しい、憧れの子。それだけでいいと思っていたのに、どうしてしまったんだ。彼女の車に乗って、街を走って、彼女が受付窓口以外の場所に普通にいて、あまつさえ僕の家の前に車を止めた。絶対に手の届かない存在だったはずが、現実僕の家の前まで来るのだと思ったら、もう、僕は、あぁ。
 芸能人や漫画の世界への憧れじゃない。これはもう確実に、彼女とどうにかなりたい。恋だ。これが。そして、とっくのとっくに手遅れだ。
 どうすればいいか。考えれば答えは出るはず。計画的に。慎重に。目的のために。確実に。




 あの日一度送ってもらったきり、数ヶ月。僕らの関係は一歩後退し、挨拶にプラスして時たま雑談をする程度の関係に落ち着いていた。燻った想いを抑え付けていたわけだが、しかし今日で全て変わる。
「おはようございます、目良さん。またお泊まりですか」
「はい」
 おはようございます、と挨拶を交わすのに、外からではなく内部から出てきた僕へ、彼女は労いの言葉をくれる。僕は、顔に太字の油性ペンで「疲れています」と書いてあるほどに分かりやすく疲れを全面に押し出した顔をして、セキュリティゲートの前に立った。
 実は、昨夜は仮眠室で五時間も寝た。そう。計画的な朝退勤である。
 僕はそれを悟られないように、目一杯悲壮感を漂わせて、あの日と同じように、カードリーダーにスマホを当てた。
 ぼーっとゲートが開くのを待っている僕に、彼女が駆け寄ってくる。
「目良さん、働きすぎですね。またスマホかざしてますよ」
 今日はクスクスと小さく声まで上げて、なんて可愛いんでしょう。
「あぁ、眠すぎて、間違えました」
 白々しくスマホをポケットに戻す。
「その調子で帰れるんですか?」
 優しい声が僕を気遣っている。ここで「帰れません」なんて言うのは流石に、頼る気満々に見えて駄目な気がする。
「帰ってみせます」
 強がった事を言って、まだIDカードを探してスーツの内ポケットをあちこち探っている僕を見て、彼女はいよいよ心配そうに眉を下げた。
「私、ちょうど退勤時間なんです。よかったら車で送りましょうか」
「……いいんですか?」
 知っている。申し訳ないがシフトを調べさせてもらったので。狙って朝帰りなので。しかしあまりに希望を叶える提案に、思わず喜びが声に出てしまった。そんな僕の下心に気づかない彼女は、本気で心配だけをしてくれている。
「その判断能力の低下を見たら……帰りに赤信号を渡って事故になりかねませんよ。もしくは反対の電車に乗るとか、もしも運転されると言うなら、何が何でも引き止めます」
「確かに」
「あ、ちょうど時間なので、支度して来ます。きちんとゲートを出て、待っていてくださいね」
「はい、よろしくお願いします……」
 うまくいった、という満足感とは裏腹に、声は尻すぼみに元気を失った。
 あまりに思い通りいきすぎてやいないか。彼女の親切に漬け込んで、僕はなんて事を。純粋な心が眩しくて、罪悪感がもやもやと心に湧き立つ。いいや、そんなの分かりきっていたんだから。どうにかこのまま、僕の描いたストーリーがハッピーエンドにたどり着くのを願うしかない。

 程なくして、彼女がパタパタと走ってきた。僕のためにそんなに焦る必要無いのに。
 それに彼女は、家までの道は覚えてますので寝ていてください、などと優しく声をかけてくれたのだ。僕は車の中、疲れたふりを貫き通すために窓にもたれて目を閉じる。
 彼女のかけた音楽は柔らかいのに跳ねるように可愛いインストゥルメンタル。まるで彼女の車に乗ってワクワクしている僕の心のようだな。なんて、アホらしい。
 真っ暗な視界の中に僕は漂った。車の走行音。体にかかる慣性。BGMに混ざる、小さな小さな彼女の鼻歌。まるでそこは、母親の胎内と思えるほどに絶対的な安心の材料が揃っていた。
 僕の意識はあまりの幸せに船を漕ぎ、ゆらり、こくり。
 ハッとした時には家の前に停車していた。
「すみません、すっかり寝てしまいました」
 そんなつもりは無かったのに、ここ最近感じたことのない猛烈な心地よさに、体と心の弛緩は免れず。情けなし。
「いいんですよ、お疲れさまです」
 女神は僕に微笑む。前回は車中で寝ることはなかったけれど、あまりの夢現っぷりに、さっと降りて、ドアを閉めてしまったのだ。今日は違う。経験の少ない恋愛スキルをどうにか知識でカバーしたい。そううまくいくだろうか。
 押し黙って下車しない僕を、彼女がきょとんと見つめてくる。計画して、決めて、わざわざ彼女に送ってもらったんだ。誘わなければ。
「今日の夜、空いてますか」
 とにかく、勇気を出したことすら悟られないように、なんでもない事のように、声を操った。たぶん完璧ではない。
「今日ですか? 明日休みなので、特に予定は無いですけど」
 彼女の方が見られなくて、膝の上に握った手を一生懸命見つめた。
「では、送ってくれたお礼に、お食事でもいかがでしょうか」
 何度も頭の中で繰り返し練習した定型文を、ついに喉から外に出した。心臓が張り裂けそうなほどに高鳴っている。あまりの緊張に、小学校の初めての学芸発表会のステージのことが突然脳裏によぎった。
「目良さんと?」
「はい」
「二人でですか?」
 愛らしい声がころころと僕の右耳を揺らす。恐らく目を丸くしているのだろう事は、声色でわかった。不快にさせただろうか。
「そうです。が、いえ、不安でしたらお断りください」
「いえいえ、身に余る光栄に、驚いただけです。ぜひ、ご一緒させてください」
 ご一緒させてください。その言葉を三回頭の中で繰り返し唱えて、僕はようやく彼女を見た。
 いえいえ、の体の前で両手を振るポーズのまま、中途半端に固まった彼女は、僕と目が合うと頬を赤らめてはにかんだ。
 鼻血が出そうになった。
 息が苦しい。大声で愛を叫びたい。腹の中で歓喜が暴れ回って吐き気がする。
 全部、腹筋に力を入れて耐えた。
「ありがとうございます、じゃあ連絡先聞いておいていいですか。一眠りしてから連絡しても?」
 などとこれまた用意されたセリフをすらりと口から出して見せたのだ。公安として機密の多い仕事に関わってきた賜物かもしれない。
 僕らはようやく、連絡先を交換した。初めて出会ってから、もうすぐ一年になる。ようやく。
「それでは、また夜に」
 こんなに心躍る別れがあるだろうか。僕の人生では、初めてのことだった。

* * *

「ここ、ですか?」
「はい」
「本当にここですか?」
「何か問題でも?」
 待ち合わせた場所で彼女を探すと、目に飛び込んできたのは天使だった。天使の羽根が舞うのが僕にははっきりと見えた。
 清楚なワンピースを見に纏った天使が、僕の隣で、大通りに店を構える有名シェフのミシュラン三つ星フレンチレストランの入り口を見つめて、焦っている。
「問題というか、その、ここって予約しなきゃいけない高級レストランじゃないですか!」
 はわ、と頬を両手で挟んで、まんまるの双眸が僕を審尋しに向けられた。僕は可愛いと口に出さないように一度唇を噛む必要があった。
「そうですね」
「目良さん、今日あの後予約したんですか?」
 可憐な花のような声が僕の名前を。公安局の受付にいる時より多彩な表情を見せてくれる事が、僕だけの特別な彼女を知ったようで良い気持ちだ。
「いえ。当日予約は無理でしょう」
「ですよね?! だから聞いたんですけど」
 だって、えっと、と僕と店舗を交互にきょろきょろしている。戸惑っても仕方ないだろう。一度や二度車で送ってもらったお礼にしては、圧倒的に不釣り合いなお店。けれどもその意味を、今は深く考えなくて良いのだから、さっさと入ってしまおう。
「まぁまぁ、ちゃんと予約してありますから。とりあえず入りましょう」
 そう、恐らく自然に、彼女の背中に手を当てた。華奢な肩甲骨とワンピースのファスナーを感じて、てのひらが熱くなる。
 木製のドアを押して入った異空間。アコースティックギターの会話を妨げない心地よい音楽。料理の綺麗に見える証明。物腰の柔らかいソムリエ。テーブルに行儀よく並ぶカトラリーまでもが、僕らの初めての逢瀬を祝福するように、たおやかな歓迎をくれた。
 予約していたフルコースにペアリングのワインをオーダーして、オードブルが来るのを待つ間、彼女はそわそわと心許ない顔をしていた。
「緊張しますか?」
「そりゃ、しますよ。こんな素敵なお店初めてなんです」
「そうですか」
 彼女の緊張が今は嬉しい。ほら、吊り橋効果というでしょう。
 このワンピースでよかったでしょうか、なんてドレスコードを気にしているが、店内で一番美しく目を引く彼女のどこに不備があろうと言うのだ。もちろんドレスコードはあるけれど、グランメゾンではなくレストランだ。ネクタイが必須な程の高級店ではない。
 心配ない、と伝えたけれど、一番綺麗だなんて言えないかった。恋人同士ならば、言えただろうか。歯の浮くようなセリフが、頭に浮かんでは音にならず消えていく。
 運ばれて来た料理は、評判なだけある納得する美味しさだった。見た目から美しく華やかで、技術も趣向も凝らしてある。皿の上に散らされた花弁に、彼女が「食べられるのでしょうか」と呟くものだから、愛しさが限界を突破するところだった。
 普段そこまでお喋りな方ではない僕だけれど、彼女との会話は自然と弾む。それが恐らく居心地の良さなのだ。相性、とでも言うのだろうか。本能が、彼女と一緒に生きるべきだと言っている気がする。
 スープ、ポワソン、ソルベ。料理の感想はいつの間にか相手をより理解するための雑談に置き換わる。僕たちの距離は、フルコースを味わう毎に縮まっていった。一品一品、美味しい、と輝く笑顔を向けてくれる。それだけでここに来た価値はあった。
「車で送っただけで、これはお礼が過多ですよ目良さん」
 彼女は、メインの肉料理の最後の一口を飲み込んで、申し訳なさそうに微笑んだ。
「そうかもしれませんが、それはあなたの価値観ですよ」
「そうでしょうか。一般的な意見だと思いますけど」
 彼女が正しい。好意のない相手なら、送迎でこんな店に連れてこない。ただ僕にとっては、彼女の時間を貰うことも全て含めて、これだけの価値があると思ったからこの店を選んだのだ。
 そしてこれだけの店を選んだ理由は他にもある。
「さて、次のデザートですが」
「はい」
「実は今日、誕生日でして」
「え?!」
「バースデーの特別なデザートプレートがきます」
 メインの皿が片付けられてゆく。
 彼女は、開いた口を両手の指で隠して、まつ毛をぱちぱちと羽ばたかせた。
「め、目良さん、お誕生日、今日ですか?」
「そうです」
 上がった眉がしゅんと下がる。爽やかで凛とした声も、弱々しくまごついた。
「そんな……誕生日に、なぜわざわざ私にお食事を……私なんかと過ごして良かったんですか?」
「あなたがいなければ一人でここで食事することになったでしょうから、あなたと来られて嬉しいんですよ」
 正直な気持ちだ。彼女を無理矢理手に入れるつもりなんてなくて、たとえ彼女の気持ちが僕に向いていなくても、一緒に食事をできただけで十二分に幸せな誕生日だった。
 しかしこれは、失敗だった。
 僕は自分に自信がないばっかりに、外的要員、シチュエーションと罪悪感を味方につけるなんて。こんなやり方は、間違いだった。恋が成就する可能性を上げたいならば、自身を磨くべきなのに。愚かで独りよがりな計画に、今の今まで気が付きもしなかった。
「でも、あの、誕生日なら私がここ支払います」
「これは車を出して頂いたお礼ですから、本当に気になさらずに」
 運ばれて来たデザートのプレートには、チョコレートソースでHappy Birthdayと書かれている。そのなんて薄っぺらく虚しいこと。
「ごめんなさい、知っていたら、プレゼント用意しましたのに」
 その美しさは微塵も揺らがないのに、彼女は無理に微笑んだように見えた。膝の上でナプキンを握っているのであろう。僕の心臓は予定になかった感情にドクドクと脈打ち、そして、懺悔したくてたまらなくなった。
「実は、今の今まで隠していました」
 彼女はちょっとだけ眉を寄せて顔を上げた。疑問と期待と、不確定な事に感情を揺らすまいとする複雑な表情。顔のどこを歪ませてもこんなに可憐な人に今まで会ったことがない。
「けれど打算的で、良くなかったと反省しています」
 その言葉の意味は、砕いて渡さなくても彼女に伝わったようだった。今度は頬の桃色を濃くして、もじもじとナプキンを弄っているだろう。あぁ、これでは期待してしまう。
「目良さん、私、おかしな勘違いをしてしまいます」
 こんなに愛らしい彼女が、なぜそれを勘違いだと思うのか。
「それは勘違いではないので、僕のしてしまった事を、聞いてもらえますか」
 彼女はその大きな輝く瞳に僕を映して、こくりと頷いた。
「僕は、車のお礼に相応しくないこの食事と、誕生日であるというアドバンテージを利用して、あなたに交際を申し込もうと考えていました」
 彼女の丸い目がさらに丸くなって、頬がふわりと赤に染まる。僕は、愛しい人に情けない部分を曝け出す恥ずかしさに、両手の指を絡ませては解き、絡ませては解きを繰り返した。
「今朝あなたに送って頂いたところからそうでした。お礼に、と理由を付けないと、僕はあなたを食事にも誘えない」
 告白する前に、彼女に釣り合わないと気づいてよかった。そもそも年齢も離れすぎているし、恋愛対象になっているかすら怪しいのに、何を期待しているんだ。高い食事に、プレゼントの用意されていない誕生日。断りづらさマックスにして、彼女に気持ちがなかったらこんなの最低な脅迫じゃないか。
「こうして自分に有利な状況をどうにか設定しないと、あなたに告白の一つもできない。いい歳して、情けないです」
 堂々と駆け引きもなく、可愛いですね、デートしませんか、なんて言えないどころか、小細工まみれで彼女の気持ちを操作しようなどと。あぁ、ホークスならきっと女性をときめかせて上手に口説くのだろうな。ときめかせるどころか、罪悪感につけ込むような真似、あぁ全く。
「な、情けなくなんて、ないです」
「え?」
 デザートを無意味に見つめていた視線をあげると、彼女はキュッと唇を引き結んで同じくデザートを見つめていた。
「好きな人に、連絡先を聞くことや、デートに誘うことは、とっても勇気がいることです」
「そうです、よね」
「私にはその勇気が無くて、あわよくば、よりお近づきになりたいと、下心を持ってお送りしましたが、情けないでしょうか」
「ミョウジさん……」
 まさか、思惑に思惑が重なっていたとは。驚いて顎の力がゼロになって、口が間抜けに開いてしまう。
「結果、期待した以上に、お食事にまで誘っていただけて、今日、急いでワンピースを買いに行った私は、打算的でしょうか」
「そんな、そんなことはありません」
「では、その……も、問題ない、のでは、ないでしょうか……」
 顔から火が出そうなほど真っ赤になって、デザートを穴が開くほど見つめて、肩に力を入れて。
もじょもじょと消えて言った言葉に、奇跡のような想いに、感情のコントロールが追いつかない。
 つまり彼女も同じ気持ちで、何なら似た者同士お似合い、と言えなく、も、ない?
 チラリとこちらを伺った上目遣いが、恥ずかしそうにまた伏せる。怖いくらいに頭の中が彼女でいっぱいで、目の奥がじわりと変な熱を持っている。言わないと。しかしいい返事を請求しないように。
「で、では、柄にもない事を言いますが、無理せず聞いてくれますか」
「は、はい、どうぞ」
 デザートからようやく僕に戻ってきた視線に、今度は僕の目が逃げようとする。彼女の目を見ることができないなんて。目良善見だろ、名前負けもいいところだ。
 喉が渇いて仕方ないのに汗はじわりと滲む。愛を伝える時にしっかり目を見て話さないでどうするんだよ。
 まっすぐに、彼女へと顔を向けた。今時思春期の青少年だってもっとライトにできるだろうに。ゴクリと唾を飲み込んで、計画と違う不恰好な自分に幻滅しながら、それでも伝えたい気持ちを口にする。喉が震えた。
「受付で、あなたの笑顔を見ると元気が出ます。ほんの些細な雑談が、やたらと嬉しいんです」
 一年近く、日々僕を支えてくれた声と笑顔を思い出す。
「僕は休みの日も、仕事時間の合わない日も、あなたと毎日挨拶を交わせる関係になりたい」
 この後に用意していたセリフはなんだっけ。思い出せない。いいや思い出せなくていい。おしゃれじゃなくても、気の利いた言葉じゃなくても。今思っている、そのままを。
「お付き合い、していただけませんか」
 振り絞った勇気が力尽きるような、スマートじゃない告白が完了する。余裕がなくてかっこ悪い僕に、彼女は、今までで一番嬉しそうに綻んだ。
「私でよければ、よろしくお願いします」
 どっと全身が脱力した。突然舞い戻ってきた環境音がうるさく感じて、さっきまで何も耳に入っていなかったのだと知る。当初の計画通りなのに、信じられない現実に気の抜けた笑いが漏れた。
「はは、は。本当ですか?」
「私もずっと、目良さんのこと、お慕いしておりました」
「気がつきませんでした」
「それも、お互い様です」
 お互い真っ赤な顔で、ようやく手をつけたデザートは、すっかり常温になっていた。さっき皮肉に思えた祝いの言葉が、素直に祝福として受け取れるのだから、人間とは不思議なものだ。
 大皿を並べる絢爛さより、一品ずつ出来立ての最高の美味しさを味わうためのフルコース。デザートだけは、その最高を味わえた気はしない。なのに、この世のものとは思えないほどに、甘く舌でとろけて内臓に染み渡った。
「お誕生日、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 レストランを出ると、少し肌寒い夜風が心地よく充実と安堵をかき混ぜてゆく。コツンと鳴るヒールが、名残惜しそうにアプローチの石畳でゆったりしたリズムを奏でる。
「プレゼント、何にしましょうか。遅れてしまってもお祝いしたいです」
 そんなの、こうして交際を受諾してくれた事が何よりのプレゼントなのだけれど。幸せすぎて何も欲しいものなど思い浮かばなーー。
 あ。
 告白の緊張にすっかり頭から飛んでいた。実はゆっくり飲み直せるように(または一人で恋に破れてヤケ酒と散財をするために)ホテルの部屋をとっていたんだった。
「実は、もう一つ、柄じゃないんですけど」
「何でしょうか」
「プレゼントとして、今日という日が終わるまで、一緒に過ごす時間をくれませんか」
 いきなり何かしようと思ってませんから、と付け足せば、彼女はクスクスと口元を隠して笑った。
「それは誕生日じゃなくても差し上げますよ」
 首を傾げて見上げる瞳が、また、何かと理由をつけなければ一緒に過ごすことすら提案できない僕を笑っている。
「じゃあ、明日まで、一緒にいてください」
 はい、と可憐なさえずりが僕を癒す。
 何の理由も、言い訳もなく、僕は彼女の手を握った。

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テーマ「人外ファンタジー」
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