1000回分の想いを乗せて

 気の抜けた雑談があちらこちらで交わされている。小気味よく響くヒールの音はオフィスを真っ直ぐ突き抜けていく。
 私は、眠そうな目でゼリー飲料を加えた目良さんの前で、張り切って止まった。
「目良さん、休憩時間にすみません。サインの欲しい書類がありまして」
 ぺらりとデスクの端に、薄っぺらい紙を置く。
「はい、いいですよ」
 目良さんはパソコンの画面を見たまま、ペンを手に取り書類を引き寄せ、目を見開いた。
「イヤ良くないです。何ですかこれは」
「バレましたか」
 呆れと蔑みの混ざった視線が面倒臭そうに私に向けられた。そんなのは慣れっこで、へらりと微笑みを返す。
 なんと私はついに、婚姻届を持ってきたのだ。もちろん私の名前は記入済み。激務に追われ眠気に苛まれた三徹目の彼なら、必要書類と騙されて記入してくれる可能性があるかと思ったのに。
 私の告白は、これで999回目を迎えた。
「書きませんよ、お持ち帰りください」
 そしてフラれるのも999回目。落ち込むよりも、ですよね、という気持ちが強い。ペンを置いてすぐパソコンに向き直る彼もまた、私の告白に慣れきってしまっている。
 とはいえ、机の端に突っ返された婚姻届の、私の名前のなんて寂しそうな事。
「目良さんこそ、そろそろ諦めてくださいよ」
 かわいそうな紙を丁寧にクリアファイルに挟む。
 何度もあの手この手で気持ちをぶつけてきたけれど、もう万策尽きて、婚姻届を書くという最終手段に出たのだ。本気にしてないのか、私に興味がないのか、恋愛に意欲がないのか、目良さんからはダメの原因すら読めなくて困る。
「セクシーな下着でも見せつけないとダメですか?」
 ちらりとブラウスの襟を引っ張って中を覗いてみる。目良さんはじとりと私を睨む。パソコンから視線を奪えたことが嬉しい。
「馬鹿なこと言ってないで、仕事に戻りなさい」
 はっきりと言い終わってから、目良さんは、あ、と溢した。私は意気揚々と揚げ足をとる。
「休憩時間でーす。目良さんこそ休憩したらどうなんです」
 もしかして休憩に気づいていなかったのか。いやいや、周囲の空気の緩みに気付かないほどに疲れていても、婚姻届には気付くもんなんですね。
「僕はいいんです。そうだミョウジさん、明日は」
「明日?」
 目良さんはパソコンを見たまま、いつもの調子で流れるように続けた。明日は私の誕生日だ。目良さん覚えててくれたの。
「明日の午前の会議でひと段落する予定なんです。この時間仮眠室にいると思いますから、ここに来ても無駄で」
 最後の一音かニ音は、スマホのアラームによってかき消された。休憩時間終了五分前を知らせるそれ。
 覚えてないか。というか、私の誕生日の日付は覚えているかもしれないけど、徹夜が続くと日付感覚狂ってしまう人だから。仕方ない。うん。
「休憩終わりですね。行かなきゃ」
 会議室は距離がある。頭は次の打ち合わせへの集中に切り替わって、ひらり手を振る。目良さんが手を振りかえしてくれるのを視界の端で喜んで、ヒールは軽やかに床を打った。


 幼くして身寄りを亡くし、公安によって保護された私は、ホークスの後輩として彼に続けと教育を受けてきた。ホークスほど武闘派じゃないけれど、個性を活かした情報収集でそこそこ役に立っている。
 この十数年の歳月のほとんど、目良さんに恋して過ごしてきた。幼い頃無邪気に言っていた「わたしめらさんとけっこんするの!」は、成長しても変わらずそのまま。会うたびに「好きです」「付き合いませんか?」「結婚も視野に入れてどうです」「本気です」「毎朝お味噌汁作ります」果てには「私、けっこういい部類の、大人のカラダになりましたよ?」まで。会うたびに。
 もはや挨拶がわりで重みなんてない。周囲だって、恒例として私と目良さんの戯れを楽しんでいる。もう意地みたいなもので、でもいつだって本気だった。いつしか冗談めかさないと伝えられなくなっていて、本気はどんどん伝わらなくなって、私は完全に道を見失っている。
 目良さん。昨日頂いた情報に従い、仮眠室に来ました。今日ダメなら、もう勇気が足りなくなりそうなんです。お願いします。何か、もっと、フるなら諦めのつく何か、決定的な一言をお願いします。
「失礼します」
 できるだけ音を立てないようにゆっくりと仮眠室の扉を開く。仄暗くぬるい空気へと足を踏み入れて、光を閉じる。
 ベッドで寝ればいいのに、ソファに長身を横たえた目良さんは、穏やかに寝息を立てていた。
 どんなに忍んでも小さくヒールが鳴ってしまう。いっぽ、いっぽ、慎重に踏み出して、目良さんの顔の前でしゃがんでみる。
 隈で染まって少し落ち窪んだ目に、乾燥気味の唇。30代のこの男の、そんな所までかわいいと思うのだから、尊敬や信頼や父性を感じつつもこれはやっぱり恋なのである。
 起こしてしまうのは申し訳ないけれど、さっきオフィスに寄った時、この後目良さん参加の案件について話があると聞こえてきた。どうせ起こすしかない。
「目良さん」
「ん、あ、はい」
 ぎゅっと眉を顰める。開けようにも開かない瞼をほぐすように、両の掌底でぐりぐりと目を擦って、んん、と小さな呻きが漏れていた。
「この部分に署名頂けませんか」
 今日用意した婚姻届はクラフト封筒に入っている。そして目良さんに書いてほしいところだけ、封筒に穴を開けてある。
「あなたですか」
「私です」
 ぐりぐりとやりながら体を起こして、猫背で座る。その寝ぼけ眼は私の差し出す封筒を受け取ったけれど、穴の空いた記入スペースを見ても眉一つ動かさない。
「はぁ。これはまた。婚姻届でしょう」
 バレましたか。バレたとて書いてもらえれば問題はない。
「ペンですどうぞ」
「書きませんよ」
 ぱんぱかぱーん。これで記念すべき1000回目。ぱちぱち。
 頭の中のファンファーレがうるさくて、とっても不快。さすがに沈む。諦めそうになる。今すぐ結婚してくれなんて本気で思ってない。けど結婚したいくらい好きなのは本当で、だから、ほんの少しでも冗談じゃないんだって伝わって、女性として見てもらえたらって、ずっとずっと頑張ってきたのに。
「ですよねえ」
 しゃがんだ膝に、両手と顎を乗せて、落胆が息になって溢れる。だって、だって今日は。
「今日は、あなたのお誕生日ですね」
 パッと顔を上げれば、目良さんは疲れ目を瞬かせながら、ソファの傍に置いてあったビジネスバッグを開けて中を探っていた。
「え、お、覚えててくれたんですか」
「今まで何回祝ったと思ってるんですか」
 そして一つのクリアファイルを取り出すと、中に挟まった書類を二枚、ソファ前のローテーブルにペラリと置いた。
「僕はサインしませんが、こちら。よく読んで同意するようであれば、あたながサインしてください」
 え?
 ビジネス文書に見えるそれのタイトルは、覚書。目で急いで内容を追う。甲に私の名前、乙に目良さんの名前。そして交際に当たっての留意事項が、第一条から第五条まで。最後には甲乙の署名欄が。
「え、え、目良さん、これ」
 仕事で泊まり込みになる事も、お風呂に入らない日がある事も、デートにはほとんど行けない事も、そんなの丁寧に(遠回しに)書かれなくたってとっくのとっくにわかってる。職場では今の呼び方や態度を変えない、ただし過度な我慢はせず申告する事とするって優しさが出てる。
「何か説明が必要ですか」
 相互の習慣に齟齬がある場合は都度協議を行う、相互理解を深めるよう努力するものとする、って。できるだけ毎朝味噌汁を、ってこんなの、もう。
「こ、この第四条の共同生活についてって、共同生活をするって事ですか」
「したくないですか」
「したいです! あ、生活費は目良さんが負担するって」
「お互い収入はありますが、僕が払いたいので」
「私に甘い内容じゃないですか」
「そうでもありませんよ。それで、どうしますか」
 答えなんて決まっている。目良さんから、こんな、どうして、嬉しすぎる。
「書きます! 締結します!」
 持っていたペンを握りしめて、私は紙に飛びついた。さらさらとペンを走らせる間に、涙が滲んで文字が見えなくなる。あ、ハンコがない。
「これでも、我慢して待ってたんですよ」
 書き終わって顔を上げれば、目良さんは薄く微笑んでいた。ぱちり、瞬きと共に流れ落ちた雫を、骨ばった親指がそっとすくう。
「二十歳、おめでとうございます」
 言ってくれたら。二十歳まで待ちなさいって言ってくれたらよかったのに。そう浮かんだ考えは、一瞬で引っ込んだ。この年齢差だもの。目良さんは私が心変わりしたとしても、罪悪感なくそっちに行けるように、自分の気持ちはこれっぽっちも出さないで私をあしらい続けてきたんだ。厳しいようで、冷たいようで、すんごく優しい。好き。そういうところが好き。
「ありがとうございます。好きです」
 泣きながら笑った私を見て、目良さんは、はは、と声を出して笑った。
「知ってますよ。1000回、聞きました」


おまけ

覚書


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