おじさんだから、困ってるんでしょうが

 晴れ空に山が滴る。遮るものなど無く降り注ぐ眩しい天日の中、私の目は、つばの広いストローハットに守られて、長く長く畑ばかりの行先を見つめていた。
 陽炎の揺蕩うコンクリートを、自転車を押して歩く。汗が吹き出しては蒸発して、水分は刻一刻と失われて、体中から湯気が立っていると思う。
 お店で一番のつばひろ帽子を選んだとはいえ、ハンドルを掴む二本の腕は、その日陰の中にはおさまらない。暴力的な灼熱に焦がされる他どうしようもない。
 二輪はのろのろと私の歩きに合わせて回りながら、定期的にぺきょんと残念な悲鳴を上げた。
「アイスコーヒー……サイダー……いや、梅のジュース……」
 今、この身体が求めているものを思い描いてみる。ひいおばあちゃんが漬けた梅シロップを氷水で割った梅ジュース。柔らかな甘さと酸味が夏にぴったりの懐かしい味。
 あぁ、口の中が乾く。
 温い汗がすうっと首筋に線を描いて、Tシャツの襟から胸の谷間へ侵入してきた。頭を日差しから守ってくれる帽子の中が、蒸れて蒸れて気持ちが悪い。今すぐプールに飛び込んで、汗を無かったことにして、籠った熱を発散したい。陽炎がプールの水面みたいに思えてきた。
「おい」
「……は」
 無意識のうちに下がって灰色ばかりになっていた視界に、夢のように現れたのは、細いタイヤとクロックスサンダルをつっかけた足。いや夢かもしれない。あのチグハグで突然色々なことが起こる夢の中。
 ぼんやりと面をもたげると、麦わらの幕が上がる。すね毛を湛えた筋肉質な脂肪の薄い脚から、膝上丈の総柄ハーフパンツが見えた。そして派手な英語の書かれたTシャツ。夢じゃん。
「なんで、オレンジ……?」
「山田に押し付けられた」
 オレンジのTシャツの上には、似合わないコワモテのヒゲ面。長い髪をひとつにまとめて、普段よりスッキリした首周りが新鮮な消太おじさんは、呆れと安堵が混ざった、でもまぁ通常通りに覇気に欠けた顔をして自転車から降りた。
「熱中症一歩手前だろ。ほら、自転車」
 自分の自転車はスタンドを立てて、私の手からハンドルを奪う。支えを失ってむしろふらりと揺れた肩は、硬い手が器用に支えてくれた。
「しっかりしろ。座るか?」
「すわんない、スカート汚れる」
「んなこと気にする余裕あるなら、大丈夫だな」
 消太おじさんは、肩から手を離すと、私の自転車を歩道の外、雑草の中にカシャンと停めた。どうやら、現実に消太おじさんが迎えに来てくれたらしい。
「どうして」
「俺の後ろに乗っていけ」
 どうして迎えに来てくれたの。という質問だったのに、消太おじさんは自転車を避けた理由を聞かれたと勘違いしたのだろう。欲しかった答えの貰えなかった質問を、もう一度繰り返すには気力が足りない。
 消太おじさんも早く会いたかったのかなぁなんてオメデタイ妄想をして、頭の中で頭を振る。使い物にならなくなった自転車は、ここに置いてきぼりを食らってどうなるんだろう。
「わたしの自転車……」
「後で回収して直してやるから」
 なんて、至れり尽くせり。何も言ってないのにパンクに気づく。おんぶに抱っこ。察しが良すぎるから、どうした、なんて聞かないのだ。消太おじさんは、私に甘い。
 私は、消太おじさんの家に行く途中だった。課題のモチベーションが上がりませんと連絡したら、クーラーの効いた部屋で勉強を教えてくれるっていうから、行きますと返事をする頃には玄関のドアを開けて、ぴゅーんとやってきたのだ。颯爽と現れて、もう来たのか、と言われる予定だったのだ。
 半分来たところでパンクして、それが全部おじゃんになった。火照った顔は可愛くできた化粧をキープしてやいないだろう。リネンのブラウスだってサラサラを保てない程の汗は、消太おじさんと頭を突き合わせて机に向かうには最悪のコンディションだ。
「お家まで送って」
「だから後ろ乗ってけって」
「ウン」
「その前にほら」
 と差し出された結露まみれのペットボトル。今日の空のような青のラベルが印象的な、スポドリ業界代表選手が、太陽を通して地面に影を輝かせている。
「ありがとう」
「ん」
 わざわざキャップを外して渡されたそれを受け取って、喉に流し込む。キンキンに冷えてはいない。けれど私の渇きを満たすには十分の、甘い青春の味。
 消太おじさんはさっさと自分の自転車の向きを反転させて、それから私の自転車のカゴに入っていた重たいトートバッグを自分のとこに移して、それから夏の大気を睨んだ。
「暑い。さっさと行くぞ」
 普段より血色のいいこめかみから、汗が頬を流れている。
 スタンドを蹴ってサドルに跨ると、おじさんは「はよ」と荷台を叩いて乗るように促してくるんだけど。でも。
「むりー」
「何がだよ」
「汗でベタベタなの」
 ブラウスのお腹を摘んで、パタパタと空気を取り込んでみる。
「んなの俺も同じだよ」
「臭いかも」
「お前な、失礼すぎるだろ迎えに来てやったのに」
「消太おじさんじゃなくて私がぁ」
「はぁ? めんどくせぇなぁ。後ろから何が匂うんだよ。風下だろ俺の匂いにだけ耐えてろ」
 ええぇ。そう言われると、確かに背中に張り付いて臭うもんだろうかと思い始める。そして暑さに溶けた脳みそは、消太おじさんの匂いというワードに変な魅力を感じてしまって。
「……はぁい」
 自転車の横に立って、ぴょんとお尻を荷台に乗せる。少しもぐらつかない安定感は今日も健在で。
「つかまっとけよ」
 低い声が、私のハグを待っている。
 ペットボトルを持った手が、消太おじさんのお臍の前で交差する。ちょっとしめったTシャツは、臭くなんかなくて、洗濯洗剤の清潔な香りがしてガッカリした。
 ぐっと慣性に逆らって滑り出した勢いは、ちょうど良く爽やかな風をかき分けて進む。帽子から伸びた髪が後ろに流れて、頸の汗が引いていく。
「ねぇ、そっちおじさんちじゃん」
「俺んちだよ」
「私の家までって言ったのに」
「言ったか? 勉強するんだろ」
 汗臭い勉強会になるくらいなら帰ろうと思ったのに、おじさんはそんな乙女の心なんて何も気にしていなさすぎて、どうでも良くなってきた。なにしろ、やらなきゃいけない課題はやらなきゃいけないし。
 時々ガタンとタイヤが跳ねて、お尻に当たる硬さが痛い。でもそんな雰囲気のない文句は言わないのだ。クッションがほしいよなんて子どもみたいにわがまま言わない大人な私は、ツンと帽子のつばで背中を突いてみる。
「ねぇドキドキする?」
「おまえ相手に?」
「するよねぇ、可愛いからね。実はもてもてだからね」
「モテモテのおまえは花火大会誘ってもらえたのか?」
「誘われてますぅー。もう三人に誘われてますぅー」
「ほー。近所のガキらに?」
「なめないで。近所の小学生と、お兄ちゃんと、あと一人誰だと思う?」
「その二人をカウントに入れてる時点でおまえもガキだな。んで? あと一人、誰なんだ?」
「なんと大学の先輩から誘われました! どうする? 焦る?」
「ようやく一緒に行く相手が見つかったのか」
 ぎゅっと、つばを歪めて耳を背中にくっつけてみる。背中からは消太おじさんの少しも焦っちゃいない心音を感じる。
「おじさん、寂しくなっちゃうね?」
 くつくつと、消太おじさんの胸の中で空気が揺れる。
「どうだかね」
 低い振動を直接感じて、うっとりしてしまって、私は返そうと思ってた言葉を忘れていた。
 畑地帯を抜けて木が増えてきた。日陰を通るたびに心地いい涼しさを感じる。もう、家についてしまう。
 緩い下り坂に差し掛かって、少しだけ上がったスピードが、耳を押し付けるあまり浮いていた麦わらを、ふわりと後ろに吹き攫った。
「あっ、帽子」
 すぐに、足がざりざりと地面を擦りながら、ブレーキを握る。停止した自転車の上、二人して後ろを振り返る。古くなった舗装の上で、まだらの影模様になった帽子がぽつんと佇んでいた。
 私が降りると、同時になぜか消太おじさんも降りる。不思議に思って、きょとんと、自転車を挟んで見つめ合う。蝉の声とオレンジのTシャツは合うのに、消太おじさんの穏やかで無気力な目だけが、この夏の中で浮いているような、ミスマッチを感じた。
「乗って待ってていいのに」
「……おまえさ」
 大きくて無骨な手が、木漏れ日の中を泳いでするり伸びてきた。べたついた頬にぺたりとくっついた後れ毛を、深爪の指先がつまんで剥がす。一束が丁寧に耳へと届けられて、なのにそのまま、手は側頭に触れて離れない。
 ドキリと心臓が高鳴るようなときめきは、無い。それよりも、暑さに真っ赤になっている顔が、汗でぺちゃんこになった前髪が、頭が蒸れて匂いを閉じ込めてたんじゃないかっていう不安が、私を慌てさせる。
「その先輩と行くのか?」
 そんな、今そんな話をするのに見つめあってどうするの。汗。汗がこめかみを伝うのに、耳に触れないでほしい。消太おじさんデリカシーない。
「それどころじゃないよっ」
 私は走って数歩離れて、帽子を拾って乱暴に頭に乗せた。両手で引っ張られた麦わら帽子がぎゅむっと声を上げた。振り返った先で消太おじさんは不満そうに下唇を突き出してじっとりと私を見ている。
「汗かいてるんだから、触んないで」
 ちょっと睨んで言うと、おじさんは頭をかきながら小さくため息をついた。
「後少しだから、歩いてくよ」
「はぁい」
 もう、暑さに溶けそうな脳みそは回復していた。
 蝉が忙しく叫んで、それに急かさせるみたいに、消太おじさんの横に並んで歩き始める。足の裏にフィットしないサンダルが地面に擦れて、軽い音が二つ仲良く重なった。
「家に着いたら、シャワーするか?」
 ゆったりとした低音が素晴らしい提案をしてくれる。歩調に合わせて元気に手を降れば、ペットボトルがちゃぷんと喜ぶ。
「したい! いいの?」
「いいよ。山田のTシャツ、おまえの分も貰ってある」
「お揃いになっちゃうじゃーん」
「嬉しいだろ」
 吐息で笑う消太おじさんは、簡単に私を家に呼んで、シャワー貸してくれて、お揃いのTシャツを着て勉強しようなどと言う。父方のおばあちゃんの末の弟の息子、早い話しが親戚で、十四歳も年上で、小さい頃から仲良くしてくれてる。だからそれくらいは普通で。ありがたい特権。でも、ペットボトルを持つ手と、自転車を押す手は、触れ合うことはない。
「オレンジのぷちゃらじT……似合うかな?」
「可愛くてモテモテのおまえなら何でも着こなすんだろうね」
「おっと、変なプレッシャーが」
 冗談言いなさんな。可愛いもモテモテも本気で思ってなんていないくせに。
 サルスベリの木を通り過ぎて、やっと消太おじさんの家の玄関に入る。家では絶対にしないのに、脱いだサンダルを綺麗に揃えて、上がり込む。クーラーの効いた涼しいリビングが、一気に私を癒してくれた。
 帽子は、ぐちゃぐちゃの髪を見られたくなくて脱ぐことができない。これに関してはシャワーの時に脱げばいいのだ。
「おい。さっさとシャワーしてこい勉強するぞ」
 あんな暑い中やっとの思いで着いたのに、おじさんはソファに座る暇さえ許してくれない。はいはい、とお風呂直行しようとして、やっぱり少し休憩をしたいから、私は脱衣室の扉の前で、くるりとスカートを翻す。
 バスタオルを持って私の後ろを追ってきた瞳とぶつかって、ほんの少し上がった眉が、何だ、と無言で聞いてくる。
「ねぇ、花火大会、先輩になんて返事したか、気になるでしょ?」
 あと少しクーラーの冷気を楽しむために、さっきの、答えるどころじゃなかった質問を掘り返してみた。私を見下ろす視線は、やはり余裕で無気力のまま、でも閉じた唇を少しだけ横に引き伸ばす。
「わかってるからいい」
「なにそれ! わかるわけないじゃん」
 何も言ってないのに。二人きりで花火大会に誘われるなんて、人生で初めてのモテ期到来かという大イベント、その結末を予測できるはずないのに。
 手にぶら下げていたスポーツドリンクを一口飲んで、もう一度視線を合わせる。
「どうせ、断ったんだろ」
 バレてる。バレてる、って思ったのが顔に全部出てしまって、それを見たおじさんは意地悪に歯を出してニヤリとする。図星だと悟られ、ともすればその奥の断った理由まで見透かされているような、むず痒い恥ずかしさに、目を逸らす。
「なんで、わかったの」
 あんなにいつも無気力な瞳が、こんな時だけ楽しそうに輝いている。
「今年も、俺と行きたいんだろ」
 キャップを閉めようとした手がピタリと止まって動けなくなった。引きかけていた汗がわっと吹き出す。元々赤らんでいた頬が更に熱を持つ。親戚の子として「だっておじさんと行くと奢ってくれるし射的絶対当ててくれるんだもーん」を明るく言えたのは頭の中だけで、喉は音を作ることを放棄している。
「あっ」
 スポーツドリンクは消太おじさんの手に掴まれて、奪われて、迷いなく口に運ばれていった。ゴクゴクと見る間に減ってしまった液体と、上下する喉仏。首を伝う汗が、ひどく大人で、私には無い大人で。埋まらない差のある大人で。私を子ども扱いする。ずるい。
「大人のくせに。わたしの」
 気持ちにはとっくに気付いてるくせに。
「大人だから、手を出さないと思ったか?」
 空になったボトルを顔の横で振って、ぽいとゴミ箱に放る。綺麗な放物線を描いて、リサイクルマークのついたゴミ箱にぼこんと吸い込まれた。
 もっとちゃんと手を出して欲しいのに、ドリンクを奪ったくらいで、間接キスくらいで、手を出した気になっているのだもの。
 むすっと膨れた頬は、飲み物の恨みを表している。と思われている。先輩からの誘いを断ったのがバレた悔しさと、消太おじさんの余裕。何も言わなくても気がついてくれるのに、肝心なことはすっとぼけてばかりの、この悪いおじさんに、どうにか一矢報いてやりたい。
「ねぇ、消太おじさんも、シャワー、一緒に入る?」
 ニヤリとしていた顔が、一瞬で温度を失って、眉間に皺が寄った。はぁ? と言いたげに歪んだ口は、はぁ? をごくりと飲み込んで、そして一歩、私のパーソナルスペースに踏み入る。
「入るって言ったら、どうする気だ」

 やり返された。うっかり思い描く、筋肉の美しい裸体。心臓が普段の倍くらい大きく動いて、胸が苦しい。
「ど、どうって、背中洗ってあげるよ」
「ふうん。ならお願いしようかな」
 え。
 消太おじさんの持っていたバスタオルが、ぽふん、と麦わらの上に乗せられる。
「おまえが大人になったらね」
 ずるい。なんて、ずるい。私もう十八なんですけど、なんて言葉は言うわけにはいかなくて。
「ばーさんの梅シロップ貰ってきてるから、早くシャワーしてきなさい」
 そういうところだよ。わざわざ本家に行って、消太おじさんは飲まない梅シロップ貰ってきてくれてるの。
「消太おじさんの、お、おじさんの、おじさん!」
 麦わら帽子とバスタオル、二枚のシールドに隠れて、キャパシティからオーバーした何かを吐き出して、私は脱衣室の扉を乱暴に閉めた。









 おじさんだから、困ってるんでしょうが

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