初恋

「よろしくね」
 その一言がいとも簡単に私を舞い上がらせた。
 放課後、相澤先生に質問に来たら、丁寧に教えてくれた後、プリントを冊子にする手伝いを頼まれた。先生はたくさんのプリントを持って、私を資料室へと案内してくれた。
 舞い上がっていた私は、沈む。資料室にて、ひとり、ため息をつく。
 先生は、よろしくとホチキスを私に渡して、さっさと出て行ってしまったのだ。
 パチン、パチン、と寂しく音が響くたびに、私の心が欠けていく。何を期待してるんだろう。
 先生は気づいただろうか。手伝いを頼まれて、「はい」と応える一言に喜びの色が出ないように気をつけたこと。二人で廊下を歩く間、顔が緩むのを必死に取り繕っていたこと。
 この気持ちは、空振りしか知らない。気づいて欲しいとも思わない。どうせ報われないんだから。
 ドアは開いていて、廊下の足音は楽しそうにいくつも通り過ぎていく。背中でそれを聞きながら、まるで、軽やかな世界で私だけが置き去りにされていく気分になる。
 寂しさ、から連想される色は寒色系なのに、窓から差し込む光は鮮やかなオレンジに私を染める。心と、合わない。
 ふと、落ち着いた小さな足音が、資料室の入り口で止まる。私は振り返らなくてもこの足音の主を知る。
 あと3冊分、まだ残っているのに。
 相澤先生は、ぬらりと私を通り越して、向かい側の席に座る。パチン、だけだった部屋が、ぎいとかガタンとか賑やかになる。
「すみません、あと少しです」
「いいよ、思ったより早かったな」
 先生が来るまでに終われなかった、と思ったさっきの気持ちはどこへ行ったのか。私は最後の一冊をわざとゆっくり作って、慎重に重ねる。
 相澤先生は向かい側の椅子で、逆光の夕日に顔を暗くしながら、気だるげに完成した冊子に手を伸ばした。
「ありがとね。はい」
 目の前に、缶ジュースが差し出される。
「あ、ありがとうございます」
 冷たいそれを受け取って、私は、心が暖かくなっていくのを感じた。たかがジュース。されどジュース。
 また、簡単に勇気の出た私は、撃沈する未来を知っているのに無謀な事をしてしまう。
「あの、夜、質問がある時、先生のお部屋に行ってもいいですか」
「放課後の学校にいる時間帯にしなさい。あと、夜は寝ろ」
 予想通りのあしらいに、なぜか嬉しくなる。
「こんど、体術の練習、付き合ってもらえませんか」
「必要なら、俺に限らず頼るべきだ。適切な訓練指導計画を立てるよ」
 当然の返答。そういうところが好き。
「また、私だけに、お手伝い頼んでくれますか」
「……タイミングがあえばな」
 先生は書類を持って立ち上がる。
 何も持っていない手を差し出されて、「あ」とホチキスを返す。
 ほんのちょっと爪の先が先生の手のひらに触れて、ばかみたいに、こんなにも高鳴る。
「また、ジュース、くれますか」
 先生は椅子をきちんと机にしまって、気だるげな表情を崩さずに、ほんの少しの微笑みさえも無く、低い声をくれる。
「いい子にしてたらね」
 まるで子ども扱い。わがままを嗜めるみたいなその言葉に、膝の上の手にぎゅっと力がこもる。
 でも、甘えるなとか、期待するなとか、見返りを求めるなとか、そんな言葉だと思っていたのに、そうじゃなくて。
「助かったよ、帰りなさい」
 ぽんと頭に置かれた手は一瞬で消えて、先生は私の心に終わらない波紋を残して去っていた。
 好きだなんて、言わない。
 嘘だとも、ダメだとも、気のせいだとも、誰にも言われないまま、私だけがこの気持ちを本物だと知って、ずっと大事にしまっていたい。
 夕日と同じ色になった私と感情を、ジュースで流し込む。
 その甘さは、ずっと、口に残って消えない。

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