変わりゆく色の意味を知る


「紫陽花の季節だな」
 静かな空間にしっとりと彼のバリトンが溶ける。その声は、今日の雨にとてもよく似合うと思った。
 美術館に併設されたカフェではオルゴールのBGMが穏やかに流れ、大きな窓の向こうには庭園が広がっている。けれど私は、その景色の中に季節の趣を見出すには、あまりに緊張していた。
 相澤さんの言葉で紫陽花と聞いてはじめて、霧雨の向こうの紫陽花にピントが合ったくらい。この澱んだ空の下でなお、美しさを損なわない管理された自然の見どころに、なぜ今まで気付かなかったのか。よくよく見れば、いやよくよく見なくても、それぞれ微妙に色のニュアンスの違う紫陽花がそこかしこに咲き誇っていた。
「そう、ですね」
 相澤さんがせっかく沈黙を破ってくれたのに、まるで上の空から戻されて慌てて返事をしたみたいにつっかえた声になってしまった。
 美術館の絵画に目を輝かせている間はあまり意識せずにすんだのに、一息つこうとカフェで向かい合わせの席に座った途端、私を見つめる彼の瞳が恋に蕩けていることに気が付いて、それから私は変なのだ。心拍数も脳の回転も、異常。
 こんな風に向かい合って座る事は、今まで何度も何度もあったのに。
 だって私は、イレイザーベッドのサポートアイテムの担当者として、比較的長く良いお付き合いをさせてもらっていた。
 仕事の関係であると思っていたものだから、ある日突然告げられた愛の言葉に大いに戸惑い、テンパり、お返事などその場で到底できやしなくて、そしたら彼はとりあえずデートをしてみないかと提案してくれた。そのお言葉に甘えて、告白の返事を保留にして、今日美術館デートに来たわけで。
 お返事は決まっている。けど、相澤さんはどうだろう。デートをしてみて、私の印象は変わっただろうか。
 歪な相槌の失敗を取り戻したい。せっかくの話題を広げなきゃ。
「あ、青い紫陽花の下には、死体が埋まってる。っていうの、知ってますか?」
 頭に詰まった紫陽花に関連する情報を引っ張り出して、最初に出たのはこれだった。
「あぁ、なんか小説とかドラマに出てきたか」
 コーヒーカップを置いて、彼は外の緑へ目を向けた。
「そうです。紫陽花の色は土壌の性質に左右されるので、死体が埋まってると酸性に傾いて青くなる、っていう」
「ここら一帯に死体が埋まってることになるな」
 あっちにもこっちにも、青系色の紫陽花が見える庭に、彼はくすりと笑った。
「日本の土壌は基本酸性に寄ってるので、元々青みのある紫陽花が多いんですよ」
 会話が成り立って場がもっている。相澤さんも興味深そうに「へぇ」とリアクションをくれた。それが嬉しくて、緊張して引き攣った感じにならない自分に安堵して、唇が軽くなる。
「海外ではもっとピンクぽいのが多くて……だから、凶器の銃や死体なんかを埋めると、色が青に変わってバレちゃうわけですね」
「土に何か隠す時は紫陽花には気をつけなきゃな」
 私たちは、ふふっと笑って、何を埋めるんですか、なんて言いながら、二人同時にコーヒーに口をつけた。
 紫陽花について知ってる情報があってよかった。私はすっかりリラックスして、再び機嫌良く口を動かす。
「色が変わることから、浮気とか移り気って花言葉があって、あとお庭に植えるのは恋愛運が吸い取られて良くないとか」
「それは知らなかった」
 しとしと音もなく注ぐ雨に打たれて、あちこちの葉は身じろぐように揺れる。視野を広げれば、あちらにはピンクがかった紫陽花も咲いている。
「あの、死体が埋まってると赤くなる、って物語もあって」
「桜に引っ張られてないか?」
 相澤さんはわざとらしく眉間に皺を寄せた。仕事の話ばかりしてた頃はいつも表情が変わらないと思っていたけれど、こうして見ると案外にリアクション上手らしい。
「そうなのかも。でもそもそも、品種によっては土で色がそんなに変化しないものもありますからね」
 水滴をたたえたガラスの向こうに緑が繁り、小鳥が木枝の中で濡れた羽を啄む。紫陽花以外にも様々な花が彩る庭の、遠くにいくつかの芸術的なオブジェが見えて、散歩できるように遊歩道も整備されている。こんな綺麗な場所に死体が埋まってたとしたら、不謹慎だけどちょっとワクワクしてゾクゾクしちゃう。
「まぁ、紫陽花の色を見たところで、死体が埋まってるかなんて掘ってみなきゃ分からないんですよ」
 お庭の景色から、真正面の相澤さんへと視線を戻す。一緒に外を見ていると思ったのに、なんと相澤さんは頬杖をついて楽しそうに私を眺めていて、にこっと微笑んで言い切った私とバッチリ視線がぶつかった。
 ドキリとして、ふと思う。初デートで私は意気揚々、死体死体と話をして、『いやぁ、だからちょっと掘ってみたくなりますよね』ばりの締めくくりで笑顔を浮かべて。知識マウントと取られかねないウンチクをベラベラ、しかもそこに可愛げなんてカケラもない内容で、どう考えてもちょっと、乙女として、ちょっと。
「私ったら……色気のない話を……」
 気まずさと恥ずかしさで、すみません、ともごもご小さく呟いて、ざわめいた心を飲み込むためにコーヒーカップを持ち上げた。けれど、コーヒーに口をつけるに至らなかった。だって。
「好きなことを語ってるあなたは、かわいらしいと思いますけどね」
 相澤さんがサラリとそんなこと言うもんだから。
「かっ、わっ」
 饒舌は振り出しに戻って、またドギマギした反応しか返せなくなる。かあっと耳まで熱を持って、アイスコーヒーにすればよかったと思うくらい体温が上がる。
 カチャンと慌てた音を立てて、私のカップはソーサーに逆戻り。揺れるブラウンの水面に視線を落として、口は中途半端にはわはわと締まりなく、穏やかなBGMに似合わない動悸は隠せず動揺を晒す。相澤さんは余裕そうに、ゆったりとコーヒーを一口楽しんで、静かにカップを置いた。それから、俯く私に大きな手が伸びてくる。
「わ」
 垂れた横髪が、相澤さんの指先にそっとすくわれて、耳輪を撫でるようにして左耳にかけられる。その、少しざらりとした優しい感触の、血の通った温度の、破壊力たるや。
「紫陽花の色の理由は分からないが、あなたが今顔を赤くした理由は掘り起こさなくてもわかるな」
 トドメのような一撃に、ひぃ、と変な声が出た。
 告白の返事はまだ言葉にはしてないけれど、相澤さんの瞳から、指先から、声から、恋の熱が伝わってくるように、私の気持ちだって表に溢れてしまっているのだろう。土の中に埋めたって、紫陽花の色が変わってしまうように、私は。
「う、あ、相澤さんは顔色が変わらないタイプなんですね」
 両手で熱い顔を覆って、ようやく言葉らしい言葉を発する。すると彼は、小さく首をかしげるように私を覗き込んだ。
「浮気もしないし、一途だからね」
 ああもう、完敗、完落ち、ギブアップ。ただの仕事相手から、たった一度のデートでこんなに好きになっちゃうなんてこと、あるんだろうか。私がちょろすぎるのか、でもそもそも、仕事相手としてかなり素敵な人だとは思っていたから、自覚してなかっただけで元からその気はあったのかもしれない。
「話題の色気を気にしてるなら、次はそういう話を期待していいんですか」
 指の隙間からチラリと見ると、相澤さんは眉を少し下げて薄く微笑んだ。
「告白の返事は、できれば言葉で欲しい」

 こくりと頷いた私は、小さな声で「心の準備をするので、コーヒー飲み終わるまで待ってください」と懇願して、ふぅと深呼吸した。
 相澤さんは急かすでもなく、ちびちびとコーヒーを減らす私を辛抱強く待ってくれた。
 気付けば晴れ間が広がり、緑は彩度を増して、水たまりには青空が映り込む。
 カップの底が見えた時、きらめく水滴を纏った紫陽花が、ほら、いまだよ、と背中を押してくれた気がした。

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