花占いには向かないけれど

 今日、消太くんちに行ってもいい?

 それだけのメッセージを送るのに、何時間悩んだことだろう。何度も唾を飲み込んで、無意味に部屋の中をうろついて、メッセージアプリを開いて閉じて、午前の仕事は進捗最悪。
 こんにちは。あのね。私たち。やっほー。消えてった書き出しは数知れず。
 気分転換にランチに出た昼休み、通りがかった花屋さんで『すずらんの日』と書かれたポップを見つけて足をとめた。リンと鈴の音が心に響く。なんだかその小さな花が応援してくれた気分になって、ようやく勇気を出して送信を押したのだ。

 明確なスタートを切れないまま、半端に深くなってしまった私たちの関係。友達と呼ぶには肌を晒しすぎて、恋人と呼ぶには気持ちが不透明すぎる。だから、連絡のひとつにさえ、こんなにも勇気がいるのだ。
 私自身、この関係を続けたいのかどうかすら分からない。
 恋人に、なれたら。そう希望を抱く一方で、面倒だと切り捨てられるくらいなら、このまま彼の身体を抱きしめて体温を感じられる存在でいたいのも嘘じゃない。
 一般論ならば、やめた方がいいんだろう。けど、やめられない。消太くんの優しい腕が、熱い唇が、低く湿った声が、私の心を蝕んで悪いことをさせるのだ。
 純潔で可憐で、けれど毒のあるすずらんみたい。

「知ってた? 今日って、すずらんの日なんだって」
 勇気が報われて、イエスの返事を貰った私は彼の部屋を訪ねた。一緒に食事をする時間じゃない夜更け。シャワーだって済ませて、下着は白を身につけてきた。
 消太くんは、へぇ、と興味なさそうに返事して、けれど私がすずらんのミニブーケを置いたテーブルへのそのそ来てくれた。
 どうぞと手渡すことができなかった臆病な私は、かわいいでしょ、とまるで自分が欲しくて買ったような素振りをしてしまう。
 すずらんの日にすずらんの花を買ってきた私を、女の子らしくてかわいいとか、思ってくれたりするんだろうか。そんな無駄な情報はいらないから、ベッドへ行こうと言うだろうか。
 ブーケを数秒眺めた消太くんは、猫背のまま裸足をぺたぺたいわせて、私の横を通り過ぎていった。
 やっぱり無関心、かなぁ。まぁ、想定の範囲内ですけど。でも、バレない程度に肩をすくめた私に、消太くんがかけた言葉は想定外で。
「コップしかないがいいか?」
 強がる私の心情をフッと撫で包む優しい声。食器棚からグラスを取り出す物音。透明のグラスに水を注いで、あ、って顔して「水道水でいいのか?」と確認してくる彼の目を、私はどんな顔で見つめ返しただろう。
「うん、いいよ、水道水で」
 消太くんは目尻を下げて、なんだその顔、と笑った。
「悪いね。花言葉には詳しくないから、おまえがすずらんを選んだ意味はわかってない」
「あ、別に、花言葉で選んできたわけじゃないよ」
 私の目の前のテーブルに、水の入ったグラスがことんと置かれて、消太くんが向かいの椅子に座った。太い指が、ブーケの切り口を包んだアルミホイルを丁寧に取り除く。
「そうか。別れの花じゃないならよかったよ」
 心臓がどくんどくんと拍動して、指先がじんじんする。当然のようにここに飾ろうと準備する消太くんが信じられなくて。
「飾ってくれるの?」
「……違ったか?」
「ちがくない。でも、飾ってくれると思ってなかったから」
 ちゃぽんとお水に茎が浸る。テーブルに光が揺れる。しなやかな葉の緑に、白の小粒な花が映えて、まばゆくて眩暈がする。
 穏やかな三白眼が私の内側を探るように覗いてきた。何も隠せる気がしない。だってきっと、何かグルグル考えていたことだって全て顔に出てしまっている。消太くんは、思い切った風もなくさらりと私の名前を呼んだ。
「おまえが世話するなら、鉢で買ってきてくれてもいいよ」
 それって、消太くん。それってさ、だって、鉢なんてこのブーケみたいに一週間程度で捨てちゃうものじゃないんだよ。お世話だって、私がするってなったら、それって。
「消太くん、ねぇ、なんか私調子に乗っちゃいそう」
「乗ればいいだろ」
 赤くなっていく私の顔を、消太くんがまっすぐ見つめてくる。その瞳はいつもと同じようでいて、熱っぽくて、彼はいつから私をこんな目で見ていたのか混乱してしまう。もしかして、あの夜からそうだった? 鈍くて厄介なのは私の方だった?
 おいで、と腕を広げた彼の胸に飛び込んで、広い背中に手を回して、服にぎゅっとしがみつくように抱きしめた。
 半端な気持ちで手を出したわけじゃない。すぐ言えなくて悪かった。耳に注ぎ込まれる愛に、私は息も言葉も詰まらせて、ただただ、何度も頷いた。
 初めて彼と過ごした夜も幸せに溢れていた。それが刹那的な愛だとしても満たされる夜だった。けれどまた、今日訪れた幸せに、私の感情は弾け飛びそうに胸の中で暴れて泣きそうになる。
 どうしようもない愛を吐き出すように唇を合わせて、貪るように舌を絡めて、どろどろに溶けてわけがわからなくなるくらい好きを呟いて、ひとつになる。
 ぱちり、電気の消された薄暗い部屋の中、すずらんの純白は功労を誇るように輝いて見えた。

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