階段踊り場での受難

 まったく。頭が痛い。
 いつもの猫背を更に丸めて、のしかかる疲労と頭痛にため息をつく。
 各生徒が思い思いの自主練や勉学に励む放課後。見回りや書類の受け渡し、サポート科へ進捗確認など、細かな所用で校内を巡り、俺はようやく職員室へ戻ろうと廊下を歩いていた。その道中、とんでもない光景を目にしてしまった。
 忍び足でコソコソと教材室に入るグレープ頭。明らかに怪しい後ろ姿に後を追い、ガラリと扉を開けると、目を見開き絶望する峰田と刺激的な雑誌が――。
 怒鳴るを通り越して、喉から出たのは地を這う低音。こってり絞ってやったが、その場を離れてから精神的疲労感がどっと押し寄せてきた。
 峰田のやつ、いい加減にしてくれ。学校にいかがわしい本を持ってきてどうするつもりだったんだ。放課後だから見逃されると思ったら大間違いだ。百歩譲って自室にひっそり持っているべきだが、今回没収したエロ本は自室にあったとて一歩も譲るわけにはいかない。制服マニアというタイトルに、学校制服を乱して着た女性が際どいところまで肌を晒して色気をアピールしている。更に、あろうことか、その制服が雄英のものによく似たデザインであるから、もう言葉にならなかった。アイツめ。完全に要注意人物として扱わなければ。
 没収した本を出欠簿で隠して小脇に抱え、これは処分してやると心の中で決意した。器物損壊罪だと騒がれようとも、返してなどやるものか。
 ずんずんと大股で歩き、職員室のある下階へ向かうはずだった俺は、ふと女子生徒の声に呼び止められた。
「せんせっ! 相澤先生! いいところに!」
 声の方を見上げると、階段の踊り場向こうからひょっこりと顔を出した生徒が、大袈裟にぱたぱたと手招きをしていた。
「助けてくださいー!」
 助けてと言う割に明るいその声に、恐らくくだらない事に巻き込まれる予想はついていた。けれど、ヒーローが助けてと言われたら話を聞かないわけにはいかない。
「どうした」
 招かれるまま階段を登り、彼女に近付く。夏仕様の制服の襟が見えてくると、ついさっき見た雑誌が頭を掠めて、どことなく居心地の悪さを感じる。いや、断じて意識などしてないけれど。
「ちょっとストップしてください」
「……なんなんだ」
 あと一段で踊り場に立つところ、足をかけただけで止められてしまった。折り返した向こう側にいる彼女は手すりに隠れて、顔と肩までしか見えない。が、自身を抱きしめるように両腕を胸の前で交差して、背中を少し丸めているのがわかった。
「先生、実は私、今大ピンチで」
「……漏らしたか?」
「漏らしてません! ブラの!」
「ぶら?」
 はっと片手で口を抑えた彼女は、肩をすくめてヒソヒソと囁いた。
「ブラのホックが外れちゃったんですっ」
 暴露されたトラブルは、予想の斜め上を行っていて一瞬目が点になった。元々点みたいなもんだが。そうじゃなく。
 あぁ、ブラのホックが取れたのは、彼女にとって不測の事態でまごうことなきピンチだろう。しかし俺を呼び止めてどうする気だ。担任だが異性だし、ブラが浮く不快さに共感もできない。
「止め直せばいいんじゃないのか?」
 とりあえず溢れた単純な疑問に、彼女は「え」と眉間に皺を寄せる。そんな引かれるような発言だっただろうか。
「ここで、シャツをウエストから引き抜いて、服の中に手を突っ込めって言うんですか? さらにスカートのファスナーを下ろしてシャツを整えろと……?」
「いや……」
 確かに、靴紐が解けた程度の気軽さで直せるものじゃない。考えなしだった。そんなの普通に考えればわかることなのに、俺としたことが。まさか女子生徒の今のブラ状況を対面で知る日が来ると思わず動揺してしまった。しかし、だとすれば別の人が通らない場所に移動するなどして直せばいいじゃないか。
「先生なら服の上からこう、しゅっと、できません?」
「できるわけあるか」
 倫理的に。道徳的に。服越しとはいえブラに触るなんてのは訴えられるレベルだろ。
「隠してトイレだとかに行けばいいだろ」
「想像してくださいよ。ブラ取れかけの女子生徒が恥じらいながらもじもじ廊下を歩いてるところ、思春期男子とすれ違いでもしたら、どんな妄想の糧にされるかわかったもんじゃないですけど、それは先生何とも思わないんですか?」
 そうきたか。しかし一理ある。俺だって、それを何とか思ってるからこそ、峰田から没収した本にここまでの怒りを抱いたのだ。かような危機はから生徒を守るのも教師の務め。
「女子を呼べ」
「スマホ鞄の中なんです。寮に置いてきちゃった。女子と連絡がつくならもちろん、誰かに上着を持ってきてもらうんですけど……もうこのままココにいるのも、誰か通るたびにドキドキして無理です」
 ブラが外れてから今までに、この階段を数人が通ったのだろう。それが女子だけならともかく、男子もそばにいたら事情を説明するのも憚られるのは想像に難くない。そんなソワソワして立ち往生していたところに俺がたった一人で通ったから、天の救いに感謝するテンションの「いいところに!」だったわけだ。
「いや……でもな、俺に頼むのはどうなんだ。俺だって男だろ」
 信頼されているなら悪いことじゃないが、そう簡単に男を信用してブラを任せて大丈夫なものか。
「え? だって先生ですよ? 同じクラスの男子とかは無理ですけど。あ、先生、私にムラムラする可能性が……?」
「ない!」
 思わず食い気味でドスの効いた声が出た。なのに、彼女はカラッと微笑んで、「ホラ安心」とピースをして見せたのだ。
「相澤先生ですもんね。というか、やっぱり服の上からじゃ、いくら相澤先生の器用さを持ってしても無理ですか?」
「技術的じゃなく無理だ」
 よく見ると、夏服の白いシャツの肩から下着の肩紐がうっすらと浮いているのがわかる。いや何をよく見ているんだ。違うんだ。本当に移動できないほど外れているのは外見でわかるもんなのか、という観察で。この感じだと、背中側からは違和感がハッキリ見て取れるだろう。
「だって止めないとなると……マイク先生ならジャケット貸してくれたかもしれないですけど……」
 生徒のピンチだ、俺がツナギを全部脱ぐのはやぶさかではない。だがブラ取れかけの女子生徒の前で、ツナギを全部脱いだら俺は本物の変質者だろ。それこそ人が通りかかってもアウトだし、他人に目撃されずに寮まで行くのは無理だ。
「インナー、なら……」
「え、汗くさくないです?」
「おまえなァ……」
 清潔な見た目じゃないが、毎日風呂にだって入っているし、今日はそんなに動いていない。とはいえ臭くない保証はできない。加齢臭って何歳からだ。自分の体臭ってのはわからないもんだからな。女子高生がおっさんの脱ぎ立てほやほやの服を着ること自体整理的に無理ってことか。傷ついてなどいない。断じて。
「せめてトライしてもらえませんか。ダメだったらインナーを……着ます」
 服の上からブラを触られるより、俺のインナーを着る方が嫌なのか。いや、ここでインナーを脱いで渡す段階、肌の露出を考えるとかなりのセクハラか。
「そこまで言うなら、わかった。だが俺も、外すならともかく止めるのは」
 は。しまった。失言だった。慌てて口を閉じるが、彼女は目を輝かせてニヤニヤと笑みを浮かべている。
「外し慣れてるんだ
「オイ、待て、語弊がある」
「でも外したこともない人に頼むよりは希望が持てますよ、先生」
 もう言葉も出ない。なぜ励ますスタンスの声かけをされなきゃならないのか。痛む額に手を当てて盛大にため息を吐き出す。けれど乗り掛かった船だ、今更見捨てて立ち去るわけにもいかない。もうぱっと挑戦して無理だと判断するのが合理的な気がしてきた。
「とりあえず、いつ人が来るともわかりません、パッとお願いします!」
 彼女も同じ気持ち、かは分からんが、さっさとこの件に見切りを付けたいという点でお互い合致している。
「……今回だけだからな。訴えるなよ」
 一回挑戦して、無理だと言えばいい。腹を括って、一段の階段を登り、踊り場に立つ。手すりに隠れていた彼女は小さく頷いて、くるりと身を翻して俺に無防備な背中を向けた。
 あんな明るく頼んでおいて、シャキッと伸ばされた背筋から少しの緊張が漂ってくる。制服のシャツは体のラインが出過ぎない作りだから、ブラの先端がどこにあるのか見極めるのが難しい。
「猫背になれるか」
「こう? ですか?」
 彼女が背中を丸めると、シャツが背中のラインに沿ってくれたおかげで、ホックの位置に当たりがつけられた。
 本当にやるのか。ゴクリと密かに唾を飲む。本人たっての希望を受けて手を出すわけだが、手を出すというかブラをつけてやるだけだが、これは教師として生徒を助けるためだとはいえセーフなラインなのか。この背に触れたら最後、いけない一線を超えてしまう気がする。
「早くして下さい」
「あぁ」
 その声に弾かれるように、両手で彼女の背中に触れる。布越しの感触でソコにあることは分かるが、摘もうとしても制服の表面で指先が滑るばかり。
 小さな背中がピクピクと揺れる。
「ひっ、や、くすぐった、ふふふ」
「おとなしくしろ」
 なんだこの背徳感は。笑を堪えて唇の隙間から息を漏らす彼女が、なんだか妙に、ダメなものを連想させる。俺の発言もアウトじゃないか。おとなしくしろ、なんて教室で何度も使ってきた台詞だが、今日以降は口にするたびブラのホックが捉えられない焦りを一緒に思い出しそうだ。
「ん、ふ、く」
「変な声を出すな」
 ほら、摘めた。あとはこれらを中央に寄せるだけ。シャツに伸縮性が無くて難易度が高い。こんな場面誰かに見られたら俺の何もかもが終わる。クソ、爆発物処理でもしてる緊張感だ。
「先生、もう、だめです」
 彼女は耐えきれないとばかりに身じろぎして、俺の右手からピュッとブラホックが逃げた。思わず「あ」と声が出たが、これでいい。やっぱり無理だったな、と、声をかけようとしたその時。
「やべー宿題さっさとやらねーと」と階段の上から聞こえてきた男子の声に、俺たちはビクッと飛び上がった。
 瞬間、バサッと落ちた出欠簿と雑誌。
 目に飛び込むセクシーな表紙。
「きゃー! へ、へんたい!」と響いた悲鳴。
「なっ」
 喉に引っかかった弁解。まだ止められていないブラ。近付いてくる男子の足音。
 見られてはいけない。俺がブラのホックを弄る様を。いや、取れかけのブラで危険な彼女の姿を、男子の目から守らねば。
 咄嗟に、俺は捕縛布で彼女を巻き上げた。両腕ごと巻かれた彼女はバランスを崩し倒れ、頭を打つとまずいと素早く手で庇ったせいで一緒に踊り場に――。
「……なにやってんスか?」
 俺と床に転がった彼女は、頭は打っていないものの、笑いの余韻で息を荒げ俺に組み敷かれている。
 しっかりと捕縛布に巻かれた上半身は、絶対にブラが取れかけていることも分からないし乳首も透けない。最初から巻き上げてトイレまで連れて行ってやれば良かった。どうして思いつかなかったんだ、と後悔しても後の祭り。
 男子は戸惑った顔で、上階から俺たちを見下ろしている。
「え……? 先生、まさか」
 さっきの悲鳴、落ちている学生服マニア向けのエロ本、縛り上げられた彼女と、覆い被さる俺。
 男子の頭の中で俺の印象がガラリと変わる音が聞こえた気がした。しかし、ブラホックが外れて、なんて説明をしてしまうのは彼女の意に沿わないだろう。俺は、俺は――。
「違う、変態じゃない!」
 放課後の廊下に、情けない声が響いた。むしろ変態しか使わなそうな言葉を口にしてしまった精神的ダメージに変な汗が吹き出す。
 その後、彼女がうまいこと説明をしてくれて、事なきを得たものの――。
 峰田! 覚えてろよ! この本はおまえの目の前でズタズタにして焼却処分してやる!

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