いつのまにか、春を纏って

 春はあけぼの。夜を押し上げるように下から迫り上がる太陽の光が、複雑で美しいグラデーションを生み出す。心が洗われるような空を見ながら、俺はようやく帰路に着いた。
 あけぼのも結構だが、残念ながら俺の中で春は不審者。冬の間少しばかり減っていた犯罪は、例年気温の上昇と共に急増する。痴漢、露出、引ったくり、空き巣。組織的ヴィラン犯罪ではないものの、その手口に個性が絡めばヒーローの出番は増える。担当エリアの夜間対応で、今日はなんだかんだ朝帰りってやつだ。平日は雄英で教壇に立ち、週末は事務仕事をテイクアウトしてヒーロー業と二足の草鞋。無精髭でくたびれたクマのある俺の顔を見て、ワーカーホリックだと叫ぶ友人もいるが、俺に言わせりゃ「どの口が」案件。ヒーロー科教師なんてみんな似たり寄ったりだ。確かにここ最近は食生活や睡眠の乱れを自覚している。とはいえ、仕事を控える気は毛頭ない。
 アパートのエントランスに入り、流れのまま集合ポストを確認する。俺以外の気配がない早朝、静寂の中にキィと不快な金属音が響いた。不要なダイレクトメールを取り出しながら、隣のポストに昨日まで貼ってあった投函防止テープが無くなっていることに気が付いた。
 春は引っ越しか。前の隣人は物静かな独身会社員で、俺とは廊下で会えば会釈する程度。騒音も退去の挨拶もなかった。それがむしろ気を使わずにいられて良かった。できることなら今回の隣人も、騒がしい若者じゃなく静かな同性であれ。
 眠気が足を重くするのを無視して、階段を上がる。開錠して部屋に入ったあたりから、習慣化された行動を無意識にこなしたらしく記憶はない。
 気付けばベッドの上に転がって、やってくる朝から逃げるように目を閉じていた。


「ん……あ゛?」
 電話の着信音に引っ張り上げられて覚醒する。今日は持ち帰ってきた仕事以外に何もタスクは無いはずなのに。
 耳だけ先に目覚めて、目はまだ寝ぼけてたまま、薄目で見たスマホの画面。そこには、ここ半年ほど会っていないいとこの名前が表示されていた。
「……はい」
「あっ、やっとでたー!」
 なぜ、ナマエから、こんな朝から。疑問を浮かべながら通話を押すと、スピーカーから元気そのものが飛び出して、寝起きの耳に襲いかかってきた。
「なんだ……要件……」
「ねぇ、今お部屋にいる? 寝起きっぽいからいるよね? あと十五分後くらいもお部屋にいる?」
 これが若さか。元気な事は大変よろしいが、自然と眉間に皺が寄った。
 一回りくらい歳の離れたナマエは、昔から朗らかで聡い子だった。会話が噛み合わないと思ったことは過去一度もなく、どころか歳の割に大人びた意見を持っているなと感心することもあるくらいなのに、今日は何が何だか分からない。要件を聞いたのに要領を得ない質問がきた。
 大きなあくびが、くぁ、と出た最後に、とりあえず質問の返事をくっつける。
「いる」
「よかった! じゃあ十五分後行くので待っててね」
 と、そこで、一方的に通話が終了した。
「……は?」
 あと十五分でここに来るって意味か? それとも、俺が実家にいると勘違いしてんのか?
 まぁ、いいか。
 脱力した手がスマホごとぽてっとベッドに落ちた。
 小鳥の囀りが耳に心地いい。カーテンの隙間から春の陽気が差し込んでいる。きちんと閉め切らなかった俺が悪いのだけれど、その眩しさも手伝って、二度寝はどうやらできそうになかった。
 別に、ナマエが来るかもしれないと思ったからじゃなく、目が覚めたから起きたのだ。
 だが、パンツ一枚でいるのはまずいかもしれない。一人で自宅にいる分にまずいことないだろうが、パンツ一枚じゃ仕事にも身が入らないから。一応、スウェットを履いてTシャツを着た。歯を磨き、ぼさぼさの髪を束ねておく。メントールが眠気を飛ばしてくれて頭がすっしりしてきた。それから仕事のパソコンをリビングテーブルに出して、コーヒーを淹れ、昨夜のヒーロー業務の報告書を書いてしまおうかと記録照会をしたところ。
 正確な時間なんて計っちゃいないが、電話から恐らく十五分と少し経った。
 ほらな、来ないじゃないか。フンと鼻で呼吸して、尖った唇でコーヒーを啜った時、突然ピンポンと呼び鈴が鳴った。
 インターホンの画面を見れば、以前会った時より少し髪が伸びたいとこがいた。そわそわと視線を泳がせて、俺の応答を待っている。
「はい」
「消太くん、久しぶり」
 俺の声に、ナマエはぱっと笑顔を咲かせてカメラに手を振った。
「今開けるよ」
 玄関に向かう足が、山田が来た時とは違う軽やかさを持っている。
 ガチャリと鍵を開けてやれば、待ってましたとばかりに扉が勝手に開いた。
「本当に来たのか」
「うん、来たよ。時間通りでしょ?」
 えへ、と目尻を下げる無邪気な笑顔が、よく晴れた春の空気と共に部屋に吹き込んできた。
 半年ほど前に会ってるはずだが、俺はどうやら記憶の中でコイツの成長を長らく止めてしまっているらしい。大きくなったな、という謎のしみじみした感情が湧き起こる。
「お邪魔しまぁす」
 サンダルを脱いで上がる時の、髪を耳にかける仕草がやけに大人っぽく見えた。昔はおやつと一緒に髪の毛食ってたくせに。しかも、耳たぶに小さなピアスを見つけて驚いた。ピアス自体にとやかく言うつもりはないが、なんだろう。赤ん坊の頃から知ってるはずなのに、彼女が俺の知らない女性に見えて、心の奥がもやもやとする。
「消太くん、あのー、とりあえず、冷蔵庫借りてもいい?」
「なんで」
 耳ばかり見ていて気が付かなかったのだ。彼女が、猫柄のエコバッグを持っていることに。
「アイス買ってきたから」
 ぴえん、って顔で見つめてくるのは、昔から何も変わらないナマエだ。
 俺は一体、何をどぎまぎしてんだか。馬鹿馬鹿しい。
「どーぞ」
 ありがとん、とおちゃらけて、ナマエはキッチンへ入って行った。
 素足の爪までよく手入れされていて、何か塗ってるらしい艶があって、俺にはない若さを見つけるたびにそれを『幼さ』だと変換する。そうした方がいいと思った。

「で、どうしたんだ突然」
 ソファに座り、冷めたコーヒーに口をつけ、冷蔵庫でガサゴソやってるナマエに声をかける。
 するとぴょこっとこちらを覗いた顔が、にんまりと口角を上げた。
「ふふふ。その感じだと、本当に何も把握してないのね」
 もったいぶるな、要件を。視線でそう促せば、彼女はトコトコこっちにやってきて、俺の横にポスンと座った。
「なんと、私、大学に合格しました!」
 わー、パチパチパチ。セルフ拍手をしながらの発表。塾に通って猛勉強していると聞いてはいたが、そうか、受験生だったのか。いつのまにか受験を終えて、つまりもう、大学生になるということか。
「おめでとう。よく頑張ったな」
「ありがと。医学部だよ? もっと褒めて」
 ずずいっと差し出された頭。さらさらした髪から、シャンプーの甘さがふわりと香る。つむじを隠すようにぽんと手を置くと、俺が手を動かすより先に勝手に頭をぐりぐり押し付けてきて自ら撫でられはじめた。
「えらいね。いい子だな。すごいよ」
 撫で撫ですると、へへへと嬉しそうな笑いが聞こえた。子どもっぽさに、出所の知れない安堵を覚える。
 やがて、彼女はフンと満足そうに鼻を鳴らし、「世は満足じゃ!」と謎の決め台詞でご褒美タイムを終了させた。
「で?」
 で。大学に合格して、俺に報告だけしに来たわけではあるまい。合格祝いに何か強請りに来たのか? スーツか? 時計か? 何でも惜しむ気はないが。
 そしてそして、と更に顔を輝かせ、ナマエはぴっと部屋の壁を指差した。
「消太くんの隣のお部屋に、引っ越してきました!」
「ほー……、あ?」
「サプライズ成功!」
 本日二度目の彼女による拍手が、ぽかんとする俺の前でパチパチと弾ける。
「というわけでね、今日からお世話になるわけですけれども」
「いや勝手に話を進めるな」
 サプライズすぎるだろうがよ。
 引っ越し作業はいつの間に。じゃなく、何故わざわざ俺の隣に。親戚の中では、彼女とは特別交流が多かった。俺が実家を出てからも、毎年必ず年賀状が送られてきたし、たまにメッセージのやり取りもあった。とはいえ、隣に部屋を借りて生活するほど親密かと言われたら、どうなんだ?
「せめて事前に言ってくれ。親は」
 ナマエはすっと立ち上がって、話しながら再びキッチンへ入っていった。
「ママは何回か電話したんだけど、消太くん出なかったみたいよ。だから、私がお部屋の確認に来た時に偶然会えて話しておいたから電話しなくて大丈夫って伝えたの」
 冷蔵庫の開閉と、勝手にカトラリーの引き出しを漁る音が聞こえる。
「おい、会ってないし話してないだろ」
「サプライズ」
 両手にアイスを持って俺の隣に戻ってきた彼女は、小さな尻でソファを揺らして、ハイどうぞ、とカップのアイスを渡してきた。
「おまえね……」
 呆れてた反応をしてみたって、差し出されたアイスは自然に俺の手が受け取っているのだ。
 ストロベリーと書かれた小さなカップを握る手が冷たい。高級感を演出する蓋を開けて、中蓋のビニールを剥がす。人生、何度となく同じようにアイスを開けてきたが、何故か今日、それは柔く甘いナマエの素肌を求めてやたらと大人じみた装備をひん剥くような、背徳的な行為に思えて、自分の脳みその残念さに溜息が出た。
「やだった? 消太くんがお隣だと安心だってみんな言ってたし、私もそう思ったんだけど、やっぱり迷惑だったよね……あ、もしかして彼女が……」
 隣で棒付きのアイスを開けた彼女は、それに齧り付いてから、眉を下げて俺を見つめた。バニラアイスをチョコでコーティングしてるそれの、チョコを口の端に付けながら。
「いないよ。嫌でもない」
 スプーンでピンクのアイスを抉り、口に運ぶ。口から喉に、冷たくて甘くとろける物体が滑って胃に落ちていく。
「そ? よかった。おばさんから、消太くんの食生活についてヨロシクって言われてるから、ご飯は任せて」
「同棲じゃあるまいし」
 パッと同棲という単語が出てきて、自分で自分に驚いた。他にいくらでも言いようがあるだろ。母親がわりじゃあるまいしとか、家政婦じゃあるまいしとか。
 人知れず、スプーンのペースが一割増しになる。
「ところが私の買った冷蔵庫、間違えちゃって、小さくって!」
「そうか、残念だったね」
「消太くんの冷蔵庫大きくてよかった
 そりゃ問題解決してよござんした。けれどこれこそ同棲じゃあるまいし、俺の部屋の冷蔵庫に食材を詰め込んで一体いつ料理をするのか。
「とりあえず今日はいいけどね、仕事の時間が不規則だから、ここに食材置いてたら料理できないと思うが」
 仕事で夜遅くなる日もあるし、毎晩同じ時間に夕食が取れるわけでもない。昨日(今日だが)がそうだったように、早朝帰宅することも珍しくないわけで。
 するとナマエは、ぱちりと瞬きして、あっけらかんと言った。
「合鍵、ちょうだい」
「あ」
 合鍵? ……ど、同棲じゃあるまいし。
「万事解決でしょ? あ、い、か、ぎ。大丈夫、ご飯作ったら冷蔵庫に入れておくね。チンして食べてもいいし、タイミング合わなかったら捨てていいよ」
 さっき見たけど、ゼリー飲料ばっかり入ってたじゃない。そう口うるさい女子の顔になった彼女は、俺の食生活に介入してくる気満々らしい。
 帰宅したら丁度ナマエが料理している、なんてことが、あるわけか? 新婚じゃ、あるまいし。けれど悪くない、じゃなく。
「おまえ、料理なんてできたのか?」
 ナマエはアイスを齧りながら、突如ふっと視線を空に泳がせた。
「ほどほどに……伸び代はあるよ」
 そうか。まぁ、向上心があるのはいいことだ。
 とはいえ、華の大学生におっさんの食生活の世話なんてさせるのはどうなんだ。しかも恐らく、彼女の若気の至りや油断ならない交友関係を目にしたら見逃せる気がしない。
「わざわざ俺みたいなおっさんの隣で、のびのびできないんじゃないか?」
 そう問いかけると、くるくる変わる表情が、今度は不満げな色に変わった。茶色いチョコと、白いバニラ両方付けて、食いしん坊みたいな唇がツンと尖る。
「……消太くん、私がどうして頑張ったか、気付いてないの?」
 ぺろり、赤い舌が唇を舐めて、ガキみたいな汚れを全て綺麗にしてしまった。
 健康的な色をした唇、薄く化粧をしてるであろう頬。手入れされた長いまつ毛が、下りて上がる。意志の強そうな瞳が、真っ直ぐ俺の目を見つめる。まるで『知らないとは言わせない』と凄むような切実なものを感じて心臓が痛い。
「医者になりたくて、だろ」
 心から、俺の知るナマエの夢を言葉にしたはずなのに、裏切った罪悪感に似た何かが胃の中に渦巻いた。アイスが甘ったるく喉を乾かす。
 俺の答えを聞いた彼女は、コロリと笑顔に変わって、うん、と頷いた。
「もちろん、そうだよ。お医者さんになって、消太くんが怪我したらたくさん入院させたげるね」
「……あぁ」
 いや、入院させて欲しいわけじゃないけれど。
 最初よりだいぶ柔らかくなったアイスをスプーンですくう。カップを持つ手が結露で濡れて、少し気持ち悪い。でも、彼女が頑張った理由が、俺の近くに来るためだと思い当たる思考回路の方がかなり気持ち悪い。
「ねぇねぇ、消太くんのアイス一口ちょうだい」
「え」
 なにを、突然、さも当然のように言い出すんだ。
 スプーンにアイスを乗せたまま固まる。
 もう児童って歳じゃない。俺のスプーンであーんはしないだろ。ケチであげるのを渋ってるんじゃなく、けれど間接キスはまずいなんて口に出して言うのは憚られる。それじゃまるで俺が意識しているみたいじゃないか。
「はーやく」
 ずいっと寄ってきた彼女は、俺の手を引っ掴んで、無理矢理その人匙を口に導いた。
 ぱくり、俺が使っていたスプーンを咥える。そして、血色のいい唇は閉じたまま、その隙間からするりと銀が滑り出てきた。
「んふ、美味しいね」
「……そりゃよかったね」
 見慣れた笑顔のあどけなさが、艶やかに香りを変える。人工甘味料みたいな甘いだけの子どもの香りじゃなく、もっと自然な、陽をはらむ春風の香りがした。
 ナマエの手は離れたのに、スプーンを持つ手は次のひと匙をすくわない。
「おまえ……たのむから、いい子にしててくれよ」
 ぽろりと漏れた願いは誰のためだろうか。
 心配するような無理をせず、非行に走らず、不純な異性交友をせず、たくさんの人を部屋に上げて騒がず、俺との距離感を間違えず。いてほしい。頼むから。
 ナマエは、あー、と間延びした声を出しながら、自分の棒付きアイスを食べた。
「いい子には、するけど」
「けど?」
「けど、あっ」
 あと一口になったアイスが棒から落ちそうになって、慌てたナマエは上を向いて「んん」と唸りながら口に迎え入れた。無防備な喉は滑らかで眩しい。溶けかけた白がどろりと彼女の口に滑り落ちていく。真っ赤な舌先が棒に残ったアイスを舐めとって、すっかり綺麗に食べ終えるまでを、俺はどうしてか目を逸らせずまじまじと眺めてしまった。
 ふう、と一呼吸の後、ナマエは仕切り直してキリッと俺に向き直る。
「あの、消太くんの、胃袋から掴んでいくつもりなんで、そこんとこよろしく!」
 ピッと棒を立てて、宣戦布告にも似た勇ましさで、なぜか少し頬を染めたりなどしながら言い切って、けれどその顔はみるみる俺を伺うような弱気な表情に変わってゆく。
「……う、ん?」
 胃袋から始まって、他は何を掴みに来る予定なんだろうか。俺の胃袋を掴んだところで何を目指しているというのか。
 頑張り屋の彼女のことだから、俺の胃袋などすぐに掴まれてしまう未来がありありと見える。その後どうなるかなど、今はまだ分からなくていい。
「私、頑張るから、ね」
 うん、と決心を固めるように拳を握り意気込む様子は、『絶対に見にきてね、一番取るとこ見せてあげるから』と運動会に誘ってくれた小学生の頃の彼女を思い出させた。俺に褒めてほしいのか。親元を離れたら、生活の中にあるちょっとした成果を見て承認してくれる相手はいなくなる。だから、俺に見ていてほしいのか。
 いいや、違う気はしている。そうだな。胃袋を掴まれたら、今目を背けたアレコレに向き合う必要があるのかもしれない。
「……まぁ……頑張れ」
 俺のアイスはすっかりやわらかくなって、形を保てなくなってきたピンク色を、なんとかスプーンにかき集めた。集めれば意外と、ひと匙に乗り切らないくらいあるもので。ただ、それを見つめたまま、俺は食べるに食べられず。
「アイス、いるか?」
「え、いいの?」
 わずかにソファが揺れて、元々隙間なんて少しの距離がさらに縮まる。
 嬉しそうにあーんと口を開けたナマエを見て、あぁ、まずかったかなと思ったのも一瞬。変な間を作る方が悪手だと察知して、俺は、アイスをあーんした。
 ひとまわり年下の、高校を卒業したばかりの、女子大生を部屋に上げて、自分の使っていたスプーンでアイスをあーんした。さっきは強制だったとはいえ計二回。状況を説明するとかなりアウト。が、ナマエは満足そうに「ありがと」とはにかんだ。
「どういたしまして」
 というかナマエが買ってきたアイスだから、おれがどういたしましてはおかしいんじゃないか。むしろご馳走様だ。いや、変な意味のご馳走様じゃなく。
 空になったカップを持ったまま固まっていると、ナマエは「ン」と腕を上げて伸びをして、ぱっと立ち上がった。
「よし、休憩したし、部屋片付けてくる! また後でご飯作りに来るね」
 じゃあ、またね、と柔らかな髪を靡かせ、律儀にアイスの棒をゴミ箱に捨て、彼女は部屋を駆け出して行った。嵐みたいなやつだ。
 靴をはいて玄関を出ていくまでに言えないでもなかったけれど、俺は、自分でやるからいいよ、とは、言わなかった。今夜は合格祝いのケーキを買って待っているとしよう。

 静かな日々をという願いも虚しく、隣に引っ越してきたのは俺と関わる気満々の、華の女子大生。
 まるで春の夜明けのように、じんわりと下からあたたかな光に侵食される。動けないつま先が熱くなる。
 住み慣れた部屋に、俺じゃない人の余韻が残っている不思議さ。なぜともなく、俺は小さな深呼吸をした。
 何かが始まる、新しい季節の香りがした。

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