名前も知らない先輩へ


 雄英高校、校舎高層部北側の端、あまり使われない特別教室が並ぶ廊下。放課後になると生徒たちが訪れる理由は無いそこで、私は密やかに空き教室のドアを開ける。
 特別な活動の時に多目的に使われるこの教室は、机すら並んでいなくてガランと広く感じた。活気に満ちた下階から時折聞こえる人の気配が、その薄暗い寂しさのコントラストを強めていた。
 パチン、とバイオリンケースを開き、弓を張り、弓毛に松脂を塗り、肩当てを付け、広がる森の緑を見下ろしながら左顎の下にバイオリンを構え、静かに深呼吸をする。
 静かだった教室は、歴史ある旋律に満たされてゆく。
 頭の中に楽譜は入っているけれど、どうしても運指がうまくいかないところがある。あと一週間で演奏本番なのに、苦手意識のついた十六分音符たちは私と噛み合ってくれない。
 幾度となく奏でたメロディ。ピアノの伴奏も勝手に頭で鳴り響く。踊り出しそうなほど盛り上がった技巧の見せ場、私の指はまた同じ場所で躓いてしまった。
 そのまま突っ切ればいいのに、勝手に手が演奏をやめてしまう。ここが近づくと怖くなって、緊張が指先の動きを鈍らせている。分かってももうリラックスしてこの山場を迎えることなんてできないと思う。
 はぁ、と溢れたため息が床に落ちる前に、ガラリと教室のドアが開いた。
「ひっ」
 振り返ると、寝袋を抱えた生徒が一人。
「あ……ここ、使う、予定でしたか……?」
 上級生だ。慌ててバイオリンを下ろした私に、先輩は首を振った。
「いや、静かな場所で寝ようと思って来ただけだから、好きに続けて」
 そう言って、教室の隅っこに寝袋を広げて、もぞもぞと潜り込んでゆく。続けて、と言ってくれたとはいえ、睡眠のために静けさを求めて来たと聞いたのに、じゃあ遠慮なくなんて弾き続けられるわけもなく。
「弾いてたら眠れないですよね。すみません」
 もしかしてこの空き教室の常連なのだろうか。寝袋にすっぽり包まれて壁にもたれ座った先輩は、瞼を閉じることなく私を見つめた。
「俺が聴いてると迷惑だったか?」
「そんな! こと、ありませんけど……」
「気持ちいい音がしたから、隣の教室から来た。聴きたいから弾いててくれるとありがたい」
 あぁそれはまさか、私の未熟な演奏で眠りを妨げてしまったのでは。睨まれているわけでもないけれど、黒目の小さな三白眼に射抜かれると胃がキリリとした。このまま立ち去るべきなのか、それとも、先輩に引き留められて弾いてと言われてるのに断る方が失礼なのだろうか。
 迷いながら、弓を構える。先輩はまるで音楽が始まることに満足したかのように目を閉じたので、私はほっとして外の景色へ向き直った。
 人の気配を背中で感じながら、深呼吸。
 出だしは上々。けれどスムーズに最後までなんて弾けなくて、同じところでまた失敗。歪な休符を挟んだめちゃくちゃな演奏。力技で押し通したようなめちゃくちゃなフィニッシュに、先輩はぱちぱちと小さな拍手をくれた。それがかえって情けなくて眉が下がる。
「先輩、ヒーロー科、ですよね?」
 今は寝袋に隠れているけれど、教室に彼が入って来た時、確かに彼の肩のボタンは一つだった。それに、寝袋を抱えた手は五本の指全部にテーピングがしてあった。
「うん、まぁ」
「すごいなぁ」
「何が? 楽器弾けるのもすごいと思うけど」
 その言葉に嫌味な感じはなくて、まるで心の底からそう思ってみたい。先輩は、全くわからないと顔で語りながら、小さく首を傾げた。
「だって、ヒーローは活動中、ベストなパフォーマンスをしなきゃいけないじゃないですか。一つの判断ミスとか、咄嗟の動きが鈍っただけで、怪我とか命の危険に繋がるわけでしょう」
 コンプレックスと自虐を包んだ解説。先輩は何も言わず、やる気のない目を床に向ける。
「私なんて、命がかかってるわけでも、誰かを助けなきゃいけないわけでもないのに、緊張しちゃって指の一つもうまく動かせないんです」
 ふぅん、と先輩は聞いてるのか聞いてないのかすらわからない相槌を打って、あくびをして、それから、私の胸の内の不安なんてどうでもいいとでも言うように「もう終わりか?」と練習の続きを促した。
 その態度は純粋に私の音楽を求めてくれてるみたいで、驚きと同時にむず痒さも感じた。
 じゃあ、とバイオリンを構え直し、一呼吸。同じ曲で申し訳ないけど、今は魔の十六分音符と向き合わなければいけない。その前に。
「先輩、何か、その……本領発揮できる、コツとか教えてくれませんか」
 リクエストにお応えする前に、ヒーローとして日々研鑽に励む先輩にアドバイスを求めてみた。彼はぱちくりと瞬きをして、すうっと視線を外に向けた。
 窓の向こう、遥か広がる青空に、白い雲がゆったりと流れている。
 先輩は、ぽつりと、けれど確かさのある声で呟いた。
「見られてる、と思うより、見守ってくれてる、と思ってる」
 先輩の目には、雲の緩やかな動きが映り込んでいて、静かに輝いているように見えた。
「俺にとってのヒーローが、頑張れって目で、いつも見てくれている。と、思ってる」
「それが、パワーになるんですね」
 うん、と小さく頷いて、先輩は、空を見る眼差しを優しく私へ向けた。眠そうな、だけど強い意志のある、ぶれない瞳。視線に貫かれた途端、私の中に熱が注がれたみたいに、胸にめらめらと勇気が湧いた気がした。
「先輩、あの、眠いところ申し訳ないのですが、今だけ見守ってもらえませんか」
「いいよ。途中で寝たらごめん。次は弾けるよ。たぶん」
 やる気のなさそうな目が僅かに細められて、先輩は柔らかく微笑んだ。
 ぱち、と弾ける光が目の奥で瞬く。
 私は背筋を伸ばして、空を見上げてバイオリンを構えた。息を吸って、吐いて、もう一度同じ旋律を辿る。
 先輩の予言通り、私はその難関を突破した。

 
 目を閉じて、ひとつの深呼吸。
 ステージに立った私の背中に、あの日と同じ強く優しい瞳が向けられていることをイメージする。
 そうすればいつだって身体に青い春が駆け抜けて、芽吹くように指先が暖かくなって、震えが止まるのだ。
 
 先輩。名前も知らないあなたが、私の成功のおまじないになりました。いつも感謝をしています。直接お礼も言えないまま卒業してしまわれましたが、きっと私にしてくださったように、心も救うヒーローになられていることと思います。
 願わくばこの演奏が、いつかあなたに届きますように。

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