スタートの合図はいらない


「……今、ちゅーしたいなぁって、思ったでしょ」
 酔いの回った私は、支えてくれていた逞しい腕から逃れて、コツンと軽くヒールを弾ませて踏み出した。
「思ってない」
 相澤消太の言葉はそっけないのに、肩を覆うような手が私を追いかけて、優しさが溢れてしまっている。
 転びそうになったらしっかりと抱いてくれるんだろうけど、まだ転んでないから触れない手。
「うそだぁ」
 その腕を、肩から撫でる。服越しにわかる筋肉、凹凸、硬さ、わからない体温。その不完全さがたまらなく良い。
 やがて袖を過ぎて、ヒーローの手に辿り着く。肌が触れ合う不埒さ。手のひらをくすぐって速度を緩めると、ほらね、引き止めるでしょ。
「さぁ、どうだろうね。知りたいのか?」
 外れそうで離れないもつれが、ぎゅっと繋がない絡まりに、風情を感じるの。
 言葉にしたら、無粋じゃない?
 そっけないと優しいの塩梅。触れてるのに布を隔てた趣。絡まるのに握らない半端さ。冬と春の境目。
 気持ちを確かめ合わない、今のこのまま。
「その答えは言わないで」
 上目遣いで、長い前髪の向こうを覗き込む。少しかさついた薄い唇に、きゅっと力が入ったのが見えた。
「でも、ちゅーはしていいよ」
 車の音が私の声をかき消す。ヘッドライトが通り過ぎざま彼の顔を照らした。困惑と期待を混ぜた目が、私をじっと見下ろしていた。
 にっこり微笑むと、視界の外で彼の指が私の指の付け根まで深く入り込んできて、高い場所にあった顔が降りてくる。
 髭の一本一本まで鮮明に見えるのに、相澤消太の胸中は知れない。
 吐息の温度を唇で感じるほどに近づいた彼と見つめ合う。
「また、今度な」
 夜風に攫われたかのように、ふっと私から離れた黒い影。絡んでいたはずの指は解け、見つめあっていた瞳は帰り道へ向いてしまった。
 あぁ、好き。好き。私のものにならないで。でも誰のものにもならないで。追いかけて、追いかけさせて。焦ったい今のまま、ドキドキさせて。その『今度』は来なくていい。
 そう思っていたはずなのに。
「……どうした?」
 私の手は、ほつれた袖を摘んでいた。
「……どうしたんだろう?」
 訝しげに振り向いた彼は、ぱちりと瞬きをした私を見て、まるで勝利を確信したかのように目を細めた。
「あぁ……キス、したいと思ったんだろ」
 意地悪く上がった口角。綺麗な歯並びが憎い。かあっと顔が熱くなる。
 溺れてたのはいつからだろう。曖昧なこの関係を、もどかしい駆け引きを、楽しんでいるつもりでいた。
「思ってなくて、ちがうの、これは」
 一瞬でゼロ距離、吐息を感じる暇もなく、塞がれた言い訳。
 仰け反るように顔を引いてコツコツとたたらを踏んで後退しても、逃がしてくれるはずもない。今まさに遠慮を放り捨てた腕はしかと私の背中を抱いて、隠されていた激情が私に流れ込んでくる。
「待ってた甲斐があったよ」
 低い囁きに、ぞくりとした感覚が背骨を駆け降りる。
 いつの間にか繋がれていた手は、隙間なく掌が密着するほど深く、力強く、私を捕まえていた。

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