一両編成の侘しい電車を降りると途端に肌に刺す冷気、のしかかるような灰色の空は、街ごと全体で俺を拒絶しているようだと思った。ゴウと音を立てて電車が去ると、残されたのは俺一人。
 バス、飛行機、電車にと乗り継いでやっと辿り着いた彼女の故郷。
 駅から出ようとした足は、外階段に現れた人影に止まる。そこには、会いたくて会いたくて焦がれたナマエがいた。
 見たことのないダウンのコートを着込み、ポケットに手を入れて、俺を真っ直ぐに見つめる瞳は、複雑で悩ましい感情を剥き出しにしている。それは待ち侘びていた顔ではなく、ここから踏み入るなと立ちはだかるようで、抱きしめたくなった。
「どうして来たの」
 渦巻く感情を抑えた声は淡い。この景色の中で一番の純白は、彼女の赤い唇から空気に混ざる吐息だ。
「迎えに来た。おまえを」
 文句か、拒絶か、説得か、何か言おうと開いた口は何も言わずに一文字に閉じる。何を言おうとしても泣いてしまいそうなのだろう。ナマエは俯いて、寒さで赤くなった鼻でスンと鳴らした。
 突然別れを告げて消えた彼女だから、迎えに来たとて喜ばれない事はわかっていた。だから、逃げ隠れせず俺の前にいてくれるだけで満足だ。どころか、彼女の生まれ育った土地に二人で立っているこの時間が尊い。
「ここで育ったんだな」
 屋根からぶら垂れるつらら越しに、駅前通りを眺める。雪化粧の街とは、真っ白で清廉で美しいものだと思っていたが、目の前に広がるのは想像とは別物だった。道を狭くせんと高く積まれたのは、泥はねと常緑針葉樹の葉で薄汚れた雪。靴に踏み固められた歩道の圧雪には滑り止めの砂利がバラバラと撒かれ、道路なんかはタイヤに踏み荒らされ凸凹と乱れ固まり、まるで歩みを妨害しようとする罠だ。
『雪の深いね、田舎で生まれたのよ。だから夏が苦手なの』
 かつてそう教えてくれたナマエの睫毛から溢れた哀愁は、故郷を懐かしむ以外に理由があったのだ。俺は呑気に、汗ばんで少し朱の差した色白の肌を撫でて、雪とよく似合うなぁなどと脳みそを溶かしていた記憶がある。
「こんなに雪が積もってる場所は初めて来たよ」
 冷えるね、と俺が手に白い息をかけると、彼女は心配そうに一瞥くれて、それから切なそうに一度瞬きをして、俺と同じ景色へと目をやった。
「轍が、深くなったまま固まってしまったでしょう。そこを走るとね、道を逸れようとしたらタイヤが跳ね返されて、ハンドルが取られて危ないの」
 ごつごつの氷の溝が、申し訳程度の小さなロータリーにぐるりと歪な線路を描いている。駅前だというのにタクシーの一台もない、人の気配はゼロだが、誰かがここで生きているのだとすぐに分かる。
「ねぇ消太、どうしようもないことって、あるものでしょ。毎年冬が来るし、雪は降るし……」
 大粒の雪がはらはらと空から降りはじめた。彼女の頭や肩に、次々と白い点がつく。
 この雪が積もれば、また一度は美しく白い景色になるのだろう。そして春に向かい、ぐちゃぐちゃの泥水に変わり、彼女の靴を汚すのだ。
「ここに居ても良いことなんてないから、お願い、帰って」
 俺を見ずに、そう告げる。声ははっきりとしていて、けれど少し震えていた。
 あの一瞥は、悴む手を摩る俺を心配したのだろう。帰れと言うのに勇気を振り絞るのは、まだ愛しているからだろう。
「……そうだな。おまえも一緒なら」
 やっとこっちへ向いた目には、並々と涙が溜まっている。
「ねぇ、お願い」
 後ずさろうと動いた肩を掴む。ナマエはようやくポケットから手を出して、俺の胸を押し退け抵抗した。
「このまま行こう」
 ぶんぶんと首を振った彼女の髪から、雪が消える。
「無理、無理なの、私、」
 ヴィランの娘なのよ、と。ようやく俺に晒してくれた闇に、返す言葉は決まっていた。
「あぁ、知ってて迎えに来てんだよ」
 力の抜けた彼女の腕ごと、抱きしめる。
「何があっても俺はおまえの味方だから、もう会えないなんて言うな」
 ホームに警笛が鳴り響く。帰路の切符は二人分買ってある。やってきた登りの電車に、泣きじゃくる彼女ごと乗り込んだ。
「どうしようもないことはあるな。確かに。春は来るし、雪は溶けるし、ナマエは俺と生きるんだよ」
 逃避行の電車の中で、震える体をきつくきつく抱きしめた。俺の腕の中で、誰に宛てたのか定かではない「ごめんなさい」と「ありがとう」をナマエは小さく繰り返した。
 流れる景色はただ白い。まだこの土地に冬は長く続くのだろう。けれど、涙で濡れて上気した頬には、春の兆しが見えた。

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