夢のガーベラ
遥か頭上、蒼い空のむこうから、薄桃の花が舞い落ちてくる。
あぁ、今日の天気はガーベラね。
私はとても嬉しい気分で芝生にぱたっと寝転んで、全身にぽかぽかした陽気を浴びて、口付けを待つようにそっと目を閉じた。すうっと胸いっぱいに甘い香りを吸い込んで、柔らかな花弁がふわりと頬を撫で落ちるくすぐったさに息を綻ばせる。
春の爛漫を集めて作ったような世界の真ん中、心がふわふわやわらかくなる。それは、それは、幸福な夢。
*
真白いシーツはただ広く、隣の枕は暇そうにしている。
昨日抱きあって寝たはずのぬくもりは跡形もない。大きめのベッドの中で不自然に片側に寄って眠っていた私は、ただ孤独を確かめるだけだとわかっているのに、ほんの少しでも名残がないかと期待して空白を撫でた。案の定、冷たいシーツに落胆して、それでも更に諦め悪く、耳をそば立ててリビングの気配を探ってみたりする。足音、物音、呼吸音、何一つ耳に届くことなく、カチコチと正確に一人の時間が進む音を味わうに終わった。
幸福な夢を見ていたはずなのに、この現実との落差はあんまりじゃないか。
恋人の消太さんは忙しい。そんな中どうにか時間を作って毎週末私の家にお泊まりに来てくれる。週末同棲というスタイルで私たちの交際は安定して、それは仕事と恋愛の両立という面でも一人の時間の確保という面でも私たちに合っていると確信している。
水曜日からわくわくボディメンテナンスして、木曜日はあちこち細かい掃除をして、金曜日は食材を買い込んで下拵えして、土曜日と日曜日をめいっぱい楽しむ。満足。満ち足りてる。ただ、あまりに幸せな時間をくれるから、月曜日の朝は孤独が色濃くなってしまうのだ。夢の後の喪失感。祭りの後の静けさ。センチメンタルにならざるを得ない、そういうこと。
大丈夫、一週間の気分のスケジュールは完璧に把握している。平日はたった五日しかないのだ。今週末は何をしよう、何の料理を作ろう。考えて準備している間にあっという間に次の土曜日が来てしまう。だから、感傷は火曜日には消えるから、心配ない。
そういえば、最近よく同じ夢を見ている気がする。空からガーベラが降るわけないし、ガーベラってそもそもどんな匂いだかも知らないのに。
起床から時間がたつにつれはっきりと思い出せなくなって、幻想的なぽかぽかした印象だけが心に残った淡い夢。熱いシャワーを浴びながら、仕事帰りにお花屋さんに行ってみようかとか、後で夢占いのサイトでも見てみようかとか、考えていたはずなのに、お湯と一緒にその思いつきは流れてしまったらしい。
ぜんぶすっかり忘れたまま、慌しい平日が幕を上げ、業務をこなして目の前のトラブルに対処してどうにか人の形を保ちながらベッドに倒れ込む毎日。私にパワーをくれたのはやっぱり消太さんで、『金曜日の夜から行ってもいいか』と連絡を受け取った時は、肌がツヤを取り戻した。ありがとう消太さん。
*
そして、あっという間に金曜日。
仕事帰りに寄ったスーパーで食材を買ってレジを通った後、ふっとお花屋さんが目に留まった。色鮮やかで大小様々な瑞々しい命が咲き誇るなか、視線が吸い寄せられた淡いピンクのガーベラ。それだけが、圧倒的に輝いているような気がした。
夢に出て来たのとそっくり。ここで無意識に見ていたから夢に出て来たのかな。縁を感じて一輪買ってみたけれど。くんくん嗅いでもバラのような芳香はなくって、夢はやっぱり夢なんだなぁと思いながら、帰り道を急いだ。
ピンポンと待ち人が来た合図でパタパタと玄関に向かう。ガーベラの一輪挿しは靴箱の上で、私と同じくらいワクワクして消太さんを出迎えた。
「ただいま」
消太さんがそう言ってドアを開ける瞬間が好き。飛びついて抱きしめたいけど我慢する。ヒーロースーツは汚いし危ないから、着替えるまでハグは禁止なのだ。
「おかえりなさい」
「悪い、遅くなった。途中でちょっと戦った」
それは大変な道のりだったろう。すぐに片がついたなら大した事件ではなさそうだけど、戦ったということはきっと危険もあったに違いない。シビアな現実の話なのに、セリフだけ聞くと厨二病の言い訳みたいで、不謹慎にもちょっとだけ疼いたツッコミ魂を押さえつける。
「おつかれさま。怪我ない? 疲れてるのに、来てくれてありがとう」
「どんなに疲れててもお前の顔見ただけで元気出るんだよ」
ふ、え、へ、えへへ。変な声が出ちゃった。その見てくれからは甘さなんて感じられないのに、時々とんでもない爆弾を平気な顔して落とすんだもの。照れ照れ顔がとろけてしまう。
「私も! ふふ。お風呂、どうぞ」
「どうも」
早くくっつきたいから、って顔に出てたのか、消太さんはフッと笑ってお風呂へむかっていった。
その間に、私は夕飯の準備をする。レトルトのソースを使って時短、だけど海老を足して豪華にしたトマトクリームパスタ。それから、簡単なのに、焼く前の一手間できちんとお料理感の出るポークピカタ。あと、カット野菜を洗っただけでごめんねサラダ。一応バゲットも買ってきた。
なんと、包丁の出番無し。効率重視の献立は、消太さんのお風呂タイム終了までに完成するだろうか。
支度は上々、タイムアタックはいい勝負になると思ったのに、想定より早くドライヤーの音が聞こえてきた。けどあのもさもさの黒髪は、乾くまでまぁまぁ時間がかかるのだ。サラダは温玉とフライドオニオンでちょっと見栄え良く。ピカタは焼けたので盛り付けて、レトルトの証拠は隠滅して、あとは三分後パスタが茹で上がったら絡めるだけ。お皿も準備したし、段取りはばっちり。
ぐつぐつ茹る鍋の中、麺をかき混ぜて時間が経つのを待つ。同着フィニッシュかなとソワソワしていると、鍋にふっと影が落ちた。
「風呂、ありがとう。美味そうな匂いがするな」
「わ」
突然後頭部に感じる消太さんのスウェット。裸足なのにどうして足音がしないのか。お腹に回ってきた逞しい腕に、ちょっと、と嬉しさダダ漏れの抗議をしてみたけど、「あと二分ある」ってタイマーをきちんと確認した上での行動だと言われたら断る理由はない。
ふわっと石鹸が香る。まだ私はお風呂に入ってないから、そんなにくっつかれると不安になる。消太さんのしっとりした唇が耳輪を掠めて、甘えるように首元に埋まってきて。
「くすぐったいよぉ」
身を捩って、菜箸を鍋につけたまま半分振り返る。顎を上げて背の高い彼を見上げると、三白眼はイメージの十倍くらい糖度が高くて、胸がきゅうんと鳴いた。
おでこに、ちゅ、と舞い降りた触れるだけの口付け。パスタに時限を決められた束の間、存在を確かめるように身を寄せて、一週間の疲れを吹き飛ばす癒しを求め合い与え合う。
そっと瞼を下ろして、その愛が唇にも降りてくるのを待ったけれど、目尻や鼻先で戯れるばかり。花に触れるかのような優しい感触は、求める繋がりをくれなくて焦ったい。早くしなきゃパスタが茹で上がってしまうのに。
ほんの少し踵を浮かせたその時、洗いたての黒髪がさらりと落ちて、私の頬を撫でた。
ふわり、花が香る。
夢が現実とシンクロする。
ガーベラが、私に降ってきた。
そういうことか。夢の正体に合点がいった。二ヶ月ほど前に買ったピンクのボトルのシャンプーを思い出す。パッケージはシンプルな単色だけど、広告には大きくガーベラが写っていたはず。
あの幸せな夢は消太さんがくれたのだ。きっと、寝ている私を起こさないように、いってきますのキスをしてくれていたんだ。
ピピピ、響いたタイマーと同時に踵を下ろして、お鍋に向き直る。あ、と、唇を奪い損ねた消太さんは惜しい顔。
「ふふ、タイムアップだね」
パスタを鍋からフライパンへ移す。待ってました、とトマトクリームが絡まって鮮やかに色付く。
「なんで嬉しそうなんだ?」
かわいくて甘い秘密は、消太さんが早く仕事に出て、私一人で目覚める月曜日だからこそ。今週も私はあの夢を見るのかしら。憂鬱な平日のはじまりを、少しだけ前向きに迎えられる気がしてきた。
「今ね、なんだか月曜日の朝起きるのが楽しみなの」
「……俺がいないのに?」
怪訝そうに眉を歪めて、唇で不満を表す彼が悪戯に首筋を喰む。
「いい夢が見れる気がするんだもん」
くすくす笑うと、消太さんはさらに拗ねたように目を細めて「それは、俺の腕の中で見るよりいい夢なのか」なんてあんまり可愛いことを言って抱きしめてくるから、愛おしさで身体が弾けそうになる。
私は笑って「ひみつ」と答えて、甘くボタニカルな香りの黒髪に唇を寄せた。
無精髭に三白眼、無骨な手にテノールの声。
あなたは私の、夢のガーベラ。
あぁ、今日の天気はガーベラね。
私はとても嬉しい気分で芝生にぱたっと寝転んで、全身にぽかぽかした陽気を浴びて、口付けを待つようにそっと目を閉じた。すうっと胸いっぱいに甘い香りを吸い込んで、柔らかな花弁がふわりと頬を撫で落ちるくすぐったさに息を綻ばせる。
春の爛漫を集めて作ったような世界の真ん中、心がふわふわやわらかくなる。それは、それは、幸福な夢。
*
真白いシーツはただ広く、隣の枕は暇そうにしている。
昨日抱きあって寝たはずのぬくもりは跡形もない。大きめのベッドの中で不自然に片側に寄って眠っていた私は、ただ孤独を確かめるだけだとわかっているのに、ほんの少しでも名残がないかと期待して空白を撫でた。案の定、冷たいシーツに落胆して、それでも更に諦め悪く、耳をそば立ててリビングの気配を探ってみたりする。足音、物音、呼吸音、何一つ耳に届くことなく、カチコチと正確に一人の時間が進む音を味わうに終わった。
幸福な夢を見ていたはずなのに、この現実との落差はあんまりじゃないか。
恋人の消太さんは忙しい。そんな中どうにか時間を作って毎週末私の家にお泊まりに来てくれる。週末同棲というスタイルで私たちの交際は安定して、それは仕事と恋愛の両立という面でも一人の時間の確保という面でも私たちに合っていると確信している。
水曜日からわくわくボディメンテナンスして、木曜日はあちこち細かい掃除をして、金曜日は食材を買い込んで下拵えして、土曜日と日曜日をめいっぱい楽しむ。満足。満ち足りてる。ただ、あまりに幸せな時間をくれるから、月曜日の朝は孤独が色濃くなってしまうのだ。夢の後の喪失感。祭りの後の静けさ。センチメンタルにならざるを得ない、そういうこと。
大丈夫、一週間の気分のスケジュールは完璧に把握している。平日はたった五日しかないのだ。今週末は何をしよう、何の料理を作ろう。考えて準備している間にあっという間に次の土曜日が来てしまう。だから、感傷は火曜日には消えるから、心配ない。
そういえば、最近よく同じ夢を見ている気がする。空からガーベラが降るわけないし、ガーベラってそもそもどんな匂いだかも知らないのに。
起床から時間がたつにつれはっきりと思い出せなくなって、幻想的なぽかぽかした印象だけが心に残った淡い夢。熱いシャワーを浴びながら、仕事帰りにお花屋さんに行ってみようかとか、後で夢占いのサイトでも見てみようかとか、考えていたはずなのに、お湯と一緒にその思いつきは流れてしまったらしい。
ぜんぶすっかり忘れたまま、慌しい平日が幕を上げ、業務をこなして目の前のトラブルに対処してどうにか人の形を保ちながらベッドに倒れ込む毎日。私にパワーをくれたのはやっぱり消太さんで、『金曜日の夜から行ってもいいか』と連絡を受け取った時は、肌がツヤを取り戻した。ありがとう消太さん。
*
そして、あっという間に金曜日。
仕事帰りに寄ったスーパーで食材を買ってレジを通った後、ふっとお花屋さんが目に留まった。色鮮やかで大小様々な瑞々しい命が咲き誇るなか、視線が吸い寄せられた淡いピンクのガーベラ。それだけが、圧倒的に輝いているような気がした。
夢に出て来たのとそっくり。ここで無意識に見ていたから夢に出て来たのかな。縁を感じて一輪買ってみたけれど。くんくん嗅いでもバラのような芳香はなくって、夢はやっぱり夢なんだなぁと思いながら、帰り道を急いだ。
ピンポンと待ち人が来た合図でパタパタと玄関に向かう。ガーベラの一輪挿しは靴箱の上で、私と同じくらいワクワクして消太さんを出迎えた。
「ただいま」
消太さんがそう言ってドアを開ける瞬間が好き。飛びついて抱きしめたいけど我慢する。ヒーロースーツは汚いし危ないから、着替えるまでハグは禁止なのだ。
「おかえりなさい」
「悪い、遅くなった。途中でちょっと戦った」
それは大変な道のりだったろう。すぐに片がついたなら大した事件ではなさそうだけど、戦ったということはきっと危険もあったに違いない。シビアな現実の話なのに、セリフだけ聞くと厨二病の言い訳みたいで、不謹慎にもちょっとだけ疼いたツッコミ魂を押さえつける。
「おつかれさま。怪我ない? 疲れてるのに、来てくれてありがとう」
「どんなに疲れててもお前の顔見ただけで元気出るんだよ」
ふ、え、へ、えへへ。変な声が出ちゃった。その見てくれからは甘さなんて感じられないのに、時々とんでもない爆弾を平気な顔して落とすんだもの。照れ照れ顔がとろけてしまう。
「私も! ふふ。お風呂、どうぞ」
「どうも」
早くくっつきたいから、って顔に出てたのか、消太さんはフッと笑ってお風呂へむかっていった。
その間に、私は夕飯の準備をする。レトルトのソースを使って時短、だけど海老を足して豪華にしたトマトクリームパスタ。それから、簡単なのに、焼く前の一手間できちんとお料理感の出るポークピカタ。あと、カット野菜を洗っただけでごめんねサラダ。一応バゲットも買ってきた。
なんと、包丁の出番無し。効率重視の献立は、消太さんのお風呂タイム終了までに完成するだろうか。
支度は上々、タイムアタックはいい勝負になると思ったのに、想定より早くドライヤーの音が聞こえてきた。けどあのもさもさの黒髪は、乾くまでまぁまぁ時間がかかるのだ。サラダは温玉とフライドオニオンでちょっと見栄え良く。ピカタは焼けたので盛り付けて、レトルトの証拠は隠滅して、あとは三分後パスタが茹で上がったら絡めるだけ。お皿も準備したし、段取りはばっちり。
ぐつぐつ茹る鍋の中、麺をかき混ぜて時間が経つのを待つ。同着フィニッシュかなとソワソワしていると、鍋にふっと影が落ちた。
「風呂、ありがとう。美味そうな匂いがするな」
「わ」
突然後頭部に感じる消太さんのスウェット。裸足なのにどうして足音がしないのか。お腹に回ってきた逞しい腕に、ちょっと、と嬉しさダダ漏れの抗議をしてみたけど、「あと二分ある」ってタイマーをきちんと確認した上での行動だと言われたら断る理由はない。
ふわっと石鹸が香る。まだ私はお風呂に入ってないから、そんなにくっつかれると不安になる。消太さんのしっとりした唇が耳輪を掠めて、甘えるように首元に埋まってきて。
「くすぐったいよぉ」
身を捩って、菜箸を鍋につけたまま半分振り返る。顎を上げて背の高い彼を見上げると、三白眼はイメージの十倍くらい糖度が高くて、胸がきゅうんと鳴いた。
おでこに、ちゅ、と舞い降りた触れるだけの口付け。パスタに時限を決められた束の間、存在を確かめるように身を寄せて、一週間の疲れを吹き飛ばす癒しを求め合い与え合う。
そっと瞼を下ろして、その愛が唇にも降りてくるのを待ったけれど、目尻や鼻先で戯れるばかり。花に触れるかのような優しい感触は、求める繋がりをくれなくて焦ったい。早くしなきゃパスタが茹で上がってしまうのに。
ほんの少し踵を浮かせたその時、洗いたての黒髪がさらりと落ちて、私の頬を撫でた。
ふわり、花が香る。
夢が現実とシンクロする。
ガーベラが、私に降ってきた。
そういうことか。夢の正体に合点がいった。二ヶ月ほど前に買ったピンクのボトルのシャンプーを思い出す。パッケージはシンプルな単色だけど、広告には大きくガーベラが写っていたはず。
あの幸せな夢は消太さんがくれたのだ。きっと、寝ている私を起こさないように、いってきますのキスをしてくれていたんだ。
ピピピ、響いたタイマーと同時に踵を下ろして、お鍋に向き直る。あ、と、唇を奪い損ねた消太さんは惜しい顔。
「ふふ、タイムアップだね」
パスタを鍋からフライパンへ移す。待ってました、とトマトクリームが絡まって鮮やかに色付く。
「なんで嬉しそうなんだ?」
かわいくて甘い秘密は、消太さんが早く仕事に出て、私一人で目覚める月曜日だからこそ。今週も私はあの夢を見るのかしら。憂鬱な平日のはじまりを、少しだけ前向きに迎えられる気がしてきた。
「今ね、なんだか月曜日の朝起きるのが楽しみなの」
「……俺がいないのに?」
怪訝そうに眉を歪めて、唇で不満を表す彼が悪戯に首筋を喰む。
「いい夢が見れる気がするんだもん」
くすくす笑うと、消太さんはさらに拗ねたように目を細めて「それは、俺の腕の中で見るよりいい夢なのか」なんてあんまり可愛いことを言って抱きしめてくるから、愛おしさで身体が弾けそうになる。
私は笑って「ひみつ」と答えて、甘くボタニカルな香りの黒髪に唇を寄せた。
無精髭に三白眼、無骨な手にテノールの声。
あなたは私の、夢のガーベラ。
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