年越しそばと除夜の鐘


 こんなに正月飾りの売れなかった年が、いまだかつてあっただろうか。粛々とした年の瀬には、雪すら降らない。
 雪が降らない冬なんて、冬じゃない。
 だから私の冬はずっと訪れなくて、このぬるい大晦日では年は越せてなくて、でも年末らしいテレビをかけると私の時間も動くんじゃないかと淡い期待を持って、貸切状態の寂しい共有スペースで膝を抱えていた。
「……そば、食ったのか」
 明るい音楽の中突如聞こえた低い声。息を飲んで振り返ると、そこには相澤先生がいた。
 いつの間に寮の扉をくぐったのだろう。首にぐるぐる捕縛布を巻いていない、ついでに髪など束ねた無防備な姿で、眼帯を外して傷を剥き出している。
「食べてない、です」
「そうか。ちょうどよかった」
 何がちょうどなのか分からないけれど、先生は私の座るソファの後ろを通って、キッチンへ入っていった。
 二人だけの気配がする寮のリビングで、大きなテレビが年末恒例の歌番組を垂れ流している。今年の流行した歌というよりは、誰もが聞き馴染んでいる、平和を願い愛を唄い頑張りを讃えるような白々しくラブアンドピースな懐メロばかり。その高潔なメッセージは誰の胸も打たず、がらんとしたハイツアライアンスに虚しく響いている。
「教員寮もな、誰もいないんだ。付き合えよ」
 はぁ、と呆けた返事は、応援ソングに負けて先生まで届いていなかったと思う。でも、すぐにくつくつお湯の沸く音がして、それから麺つゆのいい香りが漂ってきた。
「ほい」
 テーブルにどんと置かれたどんぶり二つ。麺。そして汁。終わり。そんなドシンプルな年越しそばがほわりと湯気を立てて、きらりと電気を反射した。
 アイドルがキラキラした顔で私に微笑む。それよりも、横の相澤先生と、先生が作ってくれたお蕎麦の方が私には眼福だった。
「ほいって、先生も年末年始はちょっと気が抜けるんですね」
「ま、知られても一人だからね」
 ふーん、と鼻へ空気を通す私の横で、相澤先生は熱々の汁をずずずと啜って「あち」とそのままの感想を述べた。
「先生、お麩と、揚げ玉と、ネギありますよ」
 そして私の箸はありません。それは言わなかったけど、立ち上がって今度は私がキッチンへと向かう。
「揚げ玉もらっていいか」
「ネギはいいんです?」
「ネギは、切ってたらのびるだろ」
「すぐですけど、まぁ……」
 面倒っちゃ面倒なのでいいや。
 使いかけの揚げ玉を冷蔵庫から出して、箸立てから箸を抜いて、先生の横へ戻る。先生は私を、じゃなく揚げ玉を待って食べずにいたらしい。箸は持ったまま手をテーブルにだらりとして、派手に銀テープの舞うテレビを至極興味なさそうに片目に映していた。
「揚げ玉どうぞ」
「どうも」
 ざっざと揚げ玉をどんぶりの中へ散らすと、先生はずぞぞと勢いよく蕎麦を啜った。ゼリー飲料を一瞬で飲み干す吸引力はお蕎麦相手にも有効らしい。けれどその勢いはそこまでで、箸の手を休めてもぐもぐとゆっくり咀嚼をはじめた。
 お前も使うよなを意味する「ん」と共に当然のように差し出された揚げ玉を受け取って、ぱらぱらと麺の上に散らしてみる。水分を吸うカリカリとつゆの水面に広がる油の輪が、ゆっくりと艶やかな平面の上で息づいている。
 箸にかけた幾本かの蕎麦に、ふー、ふー、と息をかけて、先生より上品にちゅるりと吸い込む。安い冷蔵の茹で蕎麦の、コシのない感じに情緒を感じる。先生が配合したつゆは少し濃いめで、私でも味がわかりやすくていいなと思った。
「初詣でも行くか」
 黙ってズゾゾとモグモグを繰り返していた先生が、その合間にぼそっと言った。聞き間違いかと思って横目で見たら、どうする、と言わんばかりに視線を返された。
「……先生と、二人でですか?」
 私の箸は止まる。先生もごくりと飲み込んだ後次の一口を啜ることなく会話をはじめた。
「不満なのか」
「いやぁ……だって……」
 何を感謝するのか。なんて罰当たりなことは言えないけれど。
 私は、今箸を持って生きるための食事をする右手を、じっと睨んだ。
 先の戦争、混乱を極めた作戦の途中、私は二人の市民の手を掴んで救出を試みていた。瓦解しかけた建物の上階、左手に子供、右手にはその母親。肩が外れそうに痛く、全身の筋肉や骨が軋む中で、頑張ってと声をかけたけれど。二人同時に引き上げるパワーが足りなかった。合理的判断は母親が素早かった。この子をお願い、と右手をすり抜けた手の感触が忘れられない。
 それ以降私は、救助が怖くなって、手を握られると吐き気がするようになった。手を差し伸べられないヒーローの存在意義とは何なのか。
「俺はここで続けるつもりだよ」
 手を差し伸べられなくなったヒーローの卵に、個性がほとんど使えなくなった現役ヒーローが留任を宣言した。
「ヒーローもですか?」
「廃業にはしないさ。個性そのものが消え失せたわけじゃない。何かしら役に立てる方法は常に模索していくつもりだ」
「先生は強いですね」
 年末年始、命と時間の尊さを知ってるクラスメイトたちは、みんな家族に元気な姿を見せに帰郷している。私は、家族に会って、ヒーローを目指し続けるのかと聞かれてしまうのが怖かった。まだ、うんともいいやとも言えない気持ちでいたから。決断を迫られるのが恐ろしかったから、帰れなかった。
 私の両親は戦いと無縁の性格で、だから私が危険に身を投じるのは目を覆う気持ちでいただろう。トラウマを乗り越えられていない弱った私が帰ったら、きっと、ヒーローをやめて地元に戻ってきてもいいと言われる。そんな風に甘く優しくされたら、今の私は、夢を確実に諦めてしまう。そんな予感があった。
 先生は強いけど、私は弱い。拗ねた唇でちゅるちゅると蕎麦を啜っていたら、先生はもう食べ終えたらしく箸を置いた。
「おまえもね」
「え?」
「乗り越える気があるから、おまえは帰らなかったんだろ」
 そう。なのか?
 やめて帰っておいで、と、言われたくない、ということは、そうなのか?
「乗り越えられますかね」
「さぁ。やらんとわからんさ」
 だいぶ食べ進み、つゆの水面が色濃く蕎麦を隠す。浮いた油の小さな輪を箸の先でツンと突くと、二つが融合して一つの輪になった。
「先生、じゃあ、手を握ってもいいですか」
 ぱちんと器に箸を置いて、空いた右手をぐーぱーしてみる。先生は、眉を上げて少しだけ驚いた顔をしていた。やらないと分からないとは言ったけど、今か、といった風。けれと我らが先生は、すぐに折れてくれるのだ。上がった眉はしぶしぶといった感じで下りて、手だってスウェットに拭って準備してくれる。
「……。セクハラって後から言うなよ」
 ぱーで差し出された手は私より遥かに傷だらけだ。自分から求めておいて、承諾されると緊張する。飲み込んだ蕎麦が戻ってきそうだ。まごつく私を、先生は急かさず見守ってくれる。そのうち、なんだか照れ臭さも湧き上がってきた。これ以上間を開けたらいけないきがして、心臓の鼓動がピークになった時、私はえいっとその大きな手を握った。
 その瞬間、ひしっと握り返された。
 吐きそう。だけど怯えた手を先生は離してくれない。
 太い指。厚い手のひら。硬い皮。あたたかくて逞しい、人を助ける手の温もりが、私に伝わってくる。
 私の手を離したあの人も、私の、この手に同じ温もりを感じでくれたんだろうか。私になら子供を託せると、安心して離したんだろうか。
「……私、大丈夫だと、思いますか」
 ぎゅっと力を込めたって、相澤先生の手は壊れそうにない。繋がった手を目に焼き付けるように見つめていたら、先生は力を抜くように、ふっと鼻から息を吐いた。
「見込みがないと思ったら、除籍にしてるさ」
 ああ。そりゃそうか。先生の優しい厳しさは、何より信用できる。除籍にされない限りは、期待してもらえてる限りは、頑張りたい。頑張るんだ。先生の生徒として胸を張れるように。
「さて、初詣でも行くか」
 先生は、さっきの会話なんて忘れたみたいに、もう一度私に尋ねた。歌番組は終わって、有名な寺院の様子が放送されている。そこでは誰かが誰かのための願掛けをして、やっと訪れた平和に感謝している。ぼおんと天まで届きそうな鐘の音が、ゆっくりと、何度も鳴る。そのたびに一歩一歩前に進むような気がした。暗い年は明け、もうすぐ新たな年を迎えるのだ。
「はい」
 頷くと、先生は大きな手でぽんぽんと頭を撫でてくれた。
「伸びるから食べなさい」
「はい」
 ごつごつした手が緩んで私を離す。悲しい感触と、愛情の感触を、私は両方とも抱えて強さに変えなければならない。
 離した手を、名残惜しいと思った。だから大丈夫なんだと思えた。
 相澤先生の手から箸に持ち替えて、私はお蕎麦を啜る。
「先生、お蕎麦、ちょっとしょっぱすぎですね」
 伸びたお蕎麦は塩気を増していて、息が詰まって、一口一口に時間がかかった。
「味しないよりいいだろ」
 先生は横で、私が全て飲み込むまで、何も言わずに除夜の鐘を聴いていた。
 私たちは、世界は、新しい一年を進む。

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