陽だまりで待つ

 休日の午前。ブランチの後、ゆったりと時間が流れるリビングは、コーヒーの香りが漂っている。窓の向こうには抜けるような青空が広がり、冬らしく低い太陽光がのっぺりのこたつまで届いて色違いで揃いのマグカップを照らしている。
 しかし、俺の横に彼女はいない。

 潜入捜査で女性とべったりくっついても、怪我をして帰ってきても、突然予定を反故にしても、真夜中に呼び出しが鳴ってベッドを抜け出しても、彼女が怒ることなんて一度もなかった。逐一大袈裟に騒ぎ、仕事なんだと説明しても聞く耳を持たないのが女という生き物なのだと思っていたから、俺は自分の固定観念を反省した。
 そんな彼女が「もう顔見たくない!」と涙声で言い捨てて、リビングから寝室へ逃げて行ったのが五分前。
 原因は俺の浅はかな発言。完全に俺が悪い。
 長期の作戦で一ヶ月ほど帰らない、詳細はもちろん言えない。そう伝えたら、彼女はコーヒーマグから口を離して「そう、長いね。気をつけてね」と微笑んだのだ。
 いつもの事。喚かず、縋らず、心配の言葉はあれど、その向こうには『私は私でやってるから大丈夫』という余裕が伺える。
 過去に別れた面倒な女性たちを思えば、その余裕は有り難かった。こちらも安心してヒーロー業に励めるというもの。だけれど、過去に別れた面倒な女性たちが面倒であった時、それはそれで『必要とされている』という実感があって、やれやれまた厄介だなと眉間に皺を寄せながら、俺は案外に満更でもなかったのだと今更ながら気付いてしまった。
 そんな自分の驕りに羞恥と苛立ちがあって、あと、やはり俺を引き止めもしない彼女に(それでいいのに)拗ねたのだと思う。それで、と理由をつけるにはあまりに独りよがりだけれど、それで俺は『もし帰って来なくても、ちゃんと別の男と幸せになれ』といったニュアンスのことを言ってしまったのだ。
 もちろん、心にもない。あまりに愚かな発言だった。
 つらつらと唱えた言葉の最後になって、彼女が顔を強張らせて目に涙を溜めているを見て、サッと血の気が引くのを感じた。
「そういう気持ちで、行くの……?」
 絞り出したような、震えた細い声。今にも決壊しそうな心の叫びそのものだった。俺は焦って、ごくりと喉を上下させただけ。
「そんなの、い、行ってらっしゃいって言えない」
 大きな目から、ついにぽろりと一粒の涙が落ちた。
 悪かったと謝るべきで、そんな風に思っていないと訂正すべきで、その辺の順序をすっ飛ばしてあろうことか俺は「笑っていつも通り、言ってくれるだろ」と宣った。
 そして「もう顔見たくない!」に繋がるわけだ。
 いや、違うんだ。穏やかに行ってらっしゃいと見送ってくれる、それがありがたいと思っていたのにアホみたいな事を言ってしまって、後悔と自責と焦燥とが思考回路のコントロールを暴走させて、なんだか一瞬『おまえも喚いて縋るようになったら別れることになるんじゃないか』と突拍子もないトンデモルートを通過したばっかりに、今まで通りでいてくれないと困る方面へ繋がって、結果の表出がまたひどく捻じ曲がった。
 そんな自己分析をしてる暇があるならばすぐにでも追いかけて謝罪に全力投球すべきなのだろうけれど、今世紀最大のやっちまった感で俺は五分も動けず、二人分のコーヒーが冷めていくのを見守ってしまった。
 のそり、腰を上げる。
 寝室のドアの前に立つと、無意識に呼吸が浅くなる。ああ俺は緊張しているのか、と思った。
「……入るよ」
 声はかけたけれど返事は待たない。開いたドアの向こう、二人で眠る大きなベッドに膨らみはなく、視線を巡らせる。
 日差しの届かないすみっこの影の中、彼女は膝を抱えて丸くなって座り込んでいた。
 ぐす、と鼻を啜る音が、静かな真昼の寝室に生まれては消える。
 寝室には踏み込んだけれど、撫でることも抱きしめることも手が躊躇ってできそうになかった。彼女の座す日陰の領域は、まるでここから入るなと線を引いて俺を拒絶しているようで。
 何も言わない彼女は、腕の中に顔を伏せて、宣言通り少しもこちらを見てくれない。
 ギリギリ線を超えない明るい床に座って、彼女と同じように膝を抱えてみた。あっちへ行けと言われないことにほっとして、ただ、ゆっくり流れる無言の時間を噛み締めた。俺はこの失言と愚行を、しかと噛み締めるべきだと思った。
 どれくらいの時間が経ったか。日向にはみ出た裸足のかわいい爪先が、僅かにぴくりと動いて、それから彼女はぽつりと小さく呟いた。
「いつまでそうしてるの」
 やっと声が聞けた。いつまでこうしてるんだろうな、俺は。
「顔見て謝りたいから、顔上げてくれるまで」
 どの口が言ってんだ。本当は、弁解の余地がない過失をどうリカバリーしたらいいのかわからなくて、どうしたら彼女の本心をうまく聞き出せるのかもわからなくて、戸惑ってかける言葉を見つけられないだけのくせに、気が長く余裕のあるような素振りなんてして。
 しかしまるっきり出まかせでもない。本当にいつまででも待つつもりでいる。許せだなんて我儘は言わないが、せめて目を見て謝りたい。嫌いとか、バカとか、そんな言葉はどんなに傷ついても選ばなかったんだろう。思ってないから。俺は思ってないことを口走ってしまったのに。悪かった。
「……笑って見送るなんて、そんなに、簡単じゃない」
「うん」
 そうだろうな。おまえの努力を、まるで正面から受け取って拗ねるなんて、こんなおっさんにもなって何やってんだろうな俺は。
「けど、ヒーローの消太が好き」
「うん」
 そっか気を付けてね、と平坦な反応の裏にどれほど葛藤を隠していたのか、気付けなくて悪かった。
「怪我してきても、ドタキャンしても、いいの」
「うん」
 仕事への理解も応援も感謝してる。本当に。
「でも……でも……帰って来なかったらなんて、そんな気持ちで、行かないで」
「うん」
 涙声が強くなり、すず、と聞こえたきり、またしんと黙る。
 俺を愛しているがために傷ついたのだ。愛されていたのに傷つけた。もう二度と自分の存在と彼女の我慢を蔑ろになんてしない。
 抱きしめたい。この日向の線を越えて。
「顔、見たくないなんて、思ってないよ」
「うん」
 ぎゅっと縮こまり自分を抱きしめるような彼女の手が、もぞもぞと緩む。
「俺も、思ってないことを言った」
 彼女はふぅっと深呼吸して、それからおずおずと目だけで俺を見た。まつ毛にたっぷり水滴を湛えて、赤くなった瞳。やっと覗けたその顔に、愛おしさと申し訳なさが胸を埋め尽くして、苦しくて喉が詰まった。
「悪かった」
 何をどう言ったらいいのか、あぁ、こんな時ばかりは喋りの上手いアイツが羨ましくなる。
 拒否されやしないか、緩慢に伸ばした手が影に侵入した。そっと髪に触れると、俺を受け入れるように彼女はゆるりと瞼を閉じた。濡れた目尻と頬が熱い。手のひらに擦り寄ってきた彼女は、俺に言いようのない安堵をくれた。

 あまりの聞き分けの良さに、少しだけ不安を覚えたなんて、甘えてしまったなんて、んなのは照れ臭くて墓場まで持っていきたい秘密だけれど。
 きっと墓も同じだから、おまえには全てバレるのだろう。なんて。柄にもなく考えた。
 抱きしめた肩は細く、しがみついてきた手は弱く、喰んだ唇はしっとりと濡れていて、その全てを余すことなく愛したいと思った。
 その後、陽だまりのテーブルで、二人で飲んだぬるいコーヒーの美味しさと、彼女の泣き腫らした横顔の向こうに広がった冬の晴れ空を、俺はずっと忘れないだろう。

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