とろり溶ける、芳醇な熱の中へ


 ぱちり。
 目が開くと暗い部屋にいた。スイッチで切り替わったように眠りから覚めて、頭はやけにスッキリしている。寝過ぎた感のある鈍い体でもぞもぞと寝返りを打って、汗ばんだ前髪をかきあげる。熱は嘘のように下がっていた。
 一瞬にして時間を飛び越えたのかと思うほど深い眠りだった。随分と壮大な夢を見たような余韻だけ静かな寝室に漂い、けれど、見慣れた天井をぼうっと眺めているうちに薄まり消えていく。
 部屋の暗さからして真夜中、だと思うけれど、一体何時間寝たんだろう。枕元のスマホを求めて手探りするけれど、ない。体を起こして枕の下も探してみたけれど、ない。
 明るい時間に一度起きて、その時はスマホで時間を確認したはずなのに。どうも曖昧な記憶に首を傾げながら、とりあえず水分を摂ろうとベッドを抜け出した。ひたひたと静寂のリビングを通り、キッチンに立つ。食器棚の中、手近にあったガンリキネコのグラスを取り、シンクの蛇口に手をかけて、はっとした。
 何だろう。甘酸っぱくて、ちょっとだけスパイシーな香りが、ふわりと鼻先を擽る。
 頭の中で炭酸の泡が弾けるような、小さな痛みが一つ。とてつもなく重大な見落としをしている気がする。
 答えを求めて、わずかな匂いに神経を集中させて、そして。
「あ」
 息を呑む。これは、はちみつレモンジンジャー。
 一瞬にして溢れるように思い出した、お隣さんの存在。思い出したということは、忘れていたということ。相澤さんという存在は、淡い夢となって、一度全て消えていた。
 ぞくりとした。自覚すらしていなかった脳の異常。いつ効果が現れるかわからない呪いを受けたような恐怖に身がすくむ。震えた手の中を滑ったグラスが、ゴト、と重い音を立ててシンクへ落ちた。
 どうしてお隣の相澤さんの存在を忘れていたのか。ときめいて、舞い上がって、落ち込んで、諦めて、疑って、私の感情をたっぷり乱したはずの彼との日々が、頭から消えていたのか。でも、仕事をしたり買い物をしたり料理をしたりした事は覚えていて、数ヶ月が丸々消え去ったわけじゃなく。
「相澤さんのことだけ、忘れている……?」
 そうだ。彼は、ここに来て、そして。私はソファに横たわって、それで。
 霞んでブレて形を捉えられなかった真実へ、徐々に焦点が合い、くっきりと像を結ぶ。
『俺は、あなたの恋人で、婚約者だったんだ』
 お隣の相澤さんのことだけじゃない。もっと前に、私たちは出会っていて、そして私はそれを忘れてしまっている。
 足から力が抜けて、ずるずるとへたりこむ。衝撃、という言葉では表現するに足りない衝撃。
 お隣にさんになる前の、恋人で婚約者だったという相澤さんの記憶は無いけれど、今ならわかる。私が記憶を失っているだけなのだと。
 相澤さんの言葉が、私の頭痛が、一体何を意味しているのか理解した。違和感の点が線で繋がったような腑に落ちる感覚はあるけれど、肝心の過去の記憶がない。相澤さんのことは、お客様でお隣さんで、それはちゃんと覚えているけれどそれより前があるなんて。自分で自分のことが信じられなくて、私という人格が曖昧になって心許ない。
『もうお隣さんは終わりにするよ』
「うそ……」
 嫌な予感に慌ててスマホを探して、メッセージアプリを確認する。やはり、何度スクロールしても彼の連絡先はどこにもなかった。
 やるせない気持ちだけが胸に渦巻いて、焦りと後悔に駆られる。この喪失感を相澤さんも胸に抱えていたのだ。私とお店で会う前から、ずっとずっと。

 風邪はばっちり治ったので翌日から仕事に復帰して、休んだ分を挽回するように忙しく働いた。
 クリスマスオードブルの最後の一つを売り切って、もしかしたら今日こそはと急ぎ足でマンションへ帰っても、見上げた四階の窓に電気が灯っていることはなかった。隣の部屋は、あれから人の出入りする気配はなく、シンと静まり返ったまま。
 引っ越してしまったのか、雄英に寝泊まりしているだけなのか、ヒーローとしての仕事で出張しているのか。はたまた、相澤さんという理想の男性の存在は最初から幻だったのか。霞か夢か、全てがただの妄想だったんじゃないかと疑うほど、忽然と消えてしまった。
 けれど私は、確かに、彼の発言を覚えている。あの切実な目を、覚えている。
 私が記憶喪失なんて、と困惑したけれど、冷静になればその納得しか感じなかった。思えば最初のマカロンも、おでんの薬味も、チーズフォンデュもそうだ。数々の彼のエスパーが、私たちが一緒に過ごした時間を裏付ける。ストーカーではなく、調査したわけではなく、彼は元から私の好みを全て知っていた。恋人だったから。そして、相澤さんとの過去の記憶が刺激されると頭痛が起こり、また忘れてしまう。そういうことなのだ。きっと、あのはちみつレモンの香りがなければ、私は何もかも忘れてそのまま何の疑問もなく一人のクリスマスを過ごしたんだと思う。
 相澤さんはどんな気持ちで私に名乗り、どんな気持ちで去っていったんだろう。
 ぎゅうっと胸が苦しくなる。相澤さんに会いたい。ずっと私が彼を傷つけてきた。今更だけど、謝りたい。それに、どうしようもなく、彼のぬくもりに触れたい。心が裂けそうなほどの切望は、私の脳のどこか深くに眠る過去の記憶に起因しているのか、今の私が願っているのかは定かではないけれど。
 覚えていたら、会いに来て。そんな風に言っていた気がする。
 けど約束の場所がわからない。食事をするはずのレストランはどこにあるのか、きっと私は相澤さんと過去に行った場所なのだろうけれど、どう頑張って記憶を絞り出そうとしても何も思い出せなかった。
 途方にくれて迷っていた私の背中を押したのは、先週の私。相澤さんにプレゼントしようと買った、赤いマフラー。雑貨屋さんのショッパーの中で丁寧に包まれていたそれが、もう一度彼の元へ行けと叫んでいるような気がした。

 そして今日。クリスマス当日。世界の子どもたちはサンタからのプレゼントを受け取れただろうか。私は、スマホとにらめっこして、この近辺でチーズフォンデュを提供しているレストランを調べまくった。その中でいくつかの店に実際足を運び、外からお店を眺めて、何か思い出せはしないか懸命に頭を捻った。
 そう簡単に過去は蘇っちゃくれなくて、でも、捜索範囲を広げていくと、ついにピンとくる店を見つけた。電車で移動して、大きな駅で降りる。いつしか日は落ちて、夕食に最適な時間になっていた。
 平和を高らかに歌うように夜に燦然と輝くイルミネーション。眩しい駅前を抜けて少し歩くと、その店はあった。ちらちらと舞う雪を肩に乗せて、私は、知らないのに知っている店の外観を眺める。
 モスグリーンのモダンな木の外壁。その真ん中のチークの扉。まったりとした落ち着いたクリスマスミュージックが漏れ聞こえている。陽射しに透かしたガラス玉が連なったようなスリングライトが、筆記体の表札まわりを彩っている。聞いたことのない店名、見覚えのない外観。でも、なぜか、ここだけピンと来た。理由はわからない。自分の記憶の中にどうしても開かない重い扉がある。その鍵はきっと相澤さんしか持っていないのだ。
 たぶん。ここに、相澤さんがいる。いなかったらもう諦めるしかない。
 マフラーの入った袋の紐をぎゅっと握って、いざ。
 と、一歩踏み出す直前に、私の右からぬっと現れた大きな黒い躯体は。
「こんばんは」
「あ……」
 低くて覇気のない声、伸ばし放題で艶のない黒髪はハーフアップになって、無精髭は相変わらず、そして右の三白眼を隠す黒のアイパッチ。爽やかの逆を行く、極端に言えばちょっと危険な香りさえするアンニュイなルックス。
「こん、ばんは」
 相澤さん。相澤さんだ。柔らかく眉尻を下げ、少し充血した瞳が涙の膜を湛えてツリーライトの光をきらきらと映している。
「風邪、大丈夫でしたか」
「あ、はい、もう、すっかり」
 訳がわからないままお隣から消えた彼が、今隣にいる。それだけで目の奥がじわじわ熱くなって、ほっと全身が脱力しそうになる。
 よかった、と呟いた彼は、電飾の通りを遠く眺めた。その横顔の綺麗な鼻筋に見惚れそうになりながら、私も彼に倣って、まっすぐ続く駅前通りの灯りを見つめる。このドキドキをどう表現すればいいのか、彼と何から話せばいいのか、よくわからなくて。
「どこまで、覚えていますか」
「全部……」
 ハッと彼が振り向いて、焦る。
「あっ、あの日の相澤さんが言ってた事は、たぶん全部、ちゃんと覚えてます」
 期待させてしまった。私はもしかして、何度もこうして無慈悲に彼の期待を打ち砕いてきたんじゃないかと思った。
「熱もあったし記憶がぼやぼやしている部分はあるんですけど、その……私は、相澤さんと付き合っていて、でも記憶がなくなってしまった、ってこと、ですよね。その過去は、やっぱり覚えてなくて……」
 記憶違いでなければ、婚約もしていたと言っていた。はず。
 相澤さんはひとつ頷いて、口の端に薄く笑みを浮かべた。
「でも、この店を思い出してくれたんですね」
 思い出したと言えるような記憶はない。私はこの店の思い出を持っていない。
「自分でも何故ここだと思ったのか分からないんです。でも……。私、ここに来たことがあるんですね」
「ええ。頭痛は起きてませんか」
 きっと二人で過ごした大切な日々があったのに、覚えていないと残酷な事を言う私に、相澤さんは体調の心配なんかしてくれる。大丈夫、とふるふる首を振った私に、相澤さんはほうっと白い息を吐いた。
「私の……記憶がなくなったのは、雄英に避難した時、ですよね? 頭を打ったから」
「その時で間違いない。が、頭を打ったせいか、避難の混乱で誰かの個性≠受けた事故なのか、判断は難しいそうだ」
 そうだったんだ。ただでさえ過酷なあの戦いの最中、恋人が自分のことを忘れてしまったと知って、どれだけ苦しかっただろう。どれだけ孤独だっただろう。
「俺のこと、嫌いになりましたか。あなたを騙して近づいた」
 さっきよりもブンブン力強く首を振る。相澤さんの事を責める気にはなれない。ようやく戦いを終えて会いに行った恋人が、赤の他人として接してきて、でももう一度やり直したいと恋を教えてくれた彼が、どんな気持ちだったか思えば。
「私の方こそ……ごめんなさい」
 辛いのは圧倒的に相澤さんだ。わかっているのに、ぽろぽろ涙が溢れる。好きな人が私のせいで傷ついていた。私が苦しめてきた。その大きな愛に報いるように全て思い出せたらいいのに、自分ではどうしようもできなくて。
「謝らなくていい。思い出してほしいわけじゃない」
「私……相澤さんが一番大変な時に、そばに、いられなかった。心の支えになるどころか、忘れてしまうなんて」
 いいんだ、と言った彼の手は私の頬に触れようと伸びて、迷うように宙で止まった。
「まだ何も、思い出せないんです。思い出せないのに、私……」
 目の前で停止した優しい大きなヒーローの手を、そっと両手で包む。少し冷えて、カサついて、懐かしい感触がした。
「たぶん、相澤さんの帰りを、待ってた気がするんです」
 驚きに見開いたひとつの瞳が、次の瞬間微笑むと同時に一粒涙を落とした。忘れちゃったくせに何を言っているんだろうと自分でも思う。結局まだ思い出せないのに勝手で申し訳ない。でも、心の奥底の、湧き出す源流すら見つけられない程深い深い場所から、強く確かな想いが溢れてくる。
 背景のイルミネーションが滲む。相澤さんのまつ毛で小さな光が震えて、きれいだと思った。
「ただいま」
 心配かけて悪かった、と囁く声は優しさに満ちている。その言葉の宛先は私の中にある。届いている。
 理由なんてわからないけど、忘れてしまった過去の私が私を突き動かして、彼を抱きしめなければいけないと思った。一人で戦ってきた彼を、慰めて労って、もう大丈夫だと伝えなければいけない。でも突然抱きしめるなんてできなくて、握った手をぎゅっとしながら、思い切ってぽすんと彼の胸におでこを寄せた。
「相澤さん、おかえりなさい」
 心臓がうるさいくらいに鼓動している。おずおずと彼のコートに手を添えると、力強い腕がぎゅっと私を抱きしめてくれた。
「あぁ……」
 求めるまま広く逞しい背中に手を這わせて、その存在を身体中で感じる。相澤さんの匂いに包まれると、不思議と懐かしくてもっと涙が溢れた。二人を隔てる冬のコートのせいで温もりも鼓動も分け合うことはできないけれど、私たちの心はその壁を超えて溶け合って一つになれたような気がした。
 全身の細胞が熱くなって、魂の奥から歓喜に満たされる。
 こうしたかった。きっと、ずっと、相澤さんとこうしたかった。
 耳元に触れる熱い吐息が震えている。生きている彼が腕の中にいることが尊くて仕方ないと感じた。
 往来でのハグなんてきっと普段なら恥ずかしいのに、生きてる温度の呼吸が愛おしくてそんなの気にならない。イルミネーションの街角で、私たちはあるべき姿を取り戻した。
「ずっと好きだった。前も、今も。何も思い出せなくてもいいから、もう一度、やり直してくれないか」
 過去に、彼とどんな出会いをして恋をしたのか、どうしてこんなに素敵な人が私を必要としてくれるのか、まだどこか不安な気持ちは拭えない。でも、イエス以外の選択肢なんてあるはずもない。
「はい。すごく、嬉しい」
 相澤さんが私を諦めないでいてくれたことが嬉しい。記憶のない今の私でも好きになってくれたことが嬉しい。私が知らない過去から現在まで、ずっと隅々まで彼は愛してくれていた。
「相澤さんのこと、隅から隅まで、愛したいです」
 ぎゅっと腕の力が強くなる。ちょっと息苦しいくらい。相澤さんは案外情熱的で、またひとつ彼を深く知ることができた。
 スンと二人同時に鼻をすすって、ふっと空気が緩んだ。ふわふわした気持ちになる。たくましい胸におでこを押し付けてクスクス笑えば、今度は腕が緩んで、屈んだ彼が顔を覗き込んできた。
「二度も恋してくれてありがとう」
「こちらこそ、私を諦めないでいてくれて、二度も恋人に選んでくれて、ありがとう」
 涙で濡れた目元を太い親指の腹が拭ってくれた。潤んだ瞳で見つめあって、またスンと同時に鼻をすすって、ふふっと綻ぶ。
「寒いね」
「お腹も空きましたね」
 一人で意気込んでくぐるはずだったドアを、相澤さんと一緒に開く。
 半歩遅れたクリスマスを楽しむ恋人たちが溢れる店内は、ピアノのBGMと食器の触れ合う音、それから食欲をそそる香りが充満している。私たちもその空間に違和感なく溶け込む恋人同士なわけで、幸せで暖かな、でもこそばゆい気持ちがして唇がむにむにしてしまう。
 通された奥の席は彼の指定らしかったけれど、くるりと周囲を見回しても何も思い出せそうになかった。思い出せなくていいと言われても、好きな人との過去を知らないのは悔しくて、どこかにヒントが無いかと探してしまう。落ち着きなく視線を巡らせる私に、相澤さんは「俺のことも見てください」なんて真顔で揶揄ってくるから心臓に悪い。
 ほどなくして、テーブルには前菜の皿が置かれて、注がれたワインは白。透き通る淡金色がテーブルクロスに輝く影を落とす。
「ここには何度も来ているんですか?」
「だいぶ前に、二回ほど一緒に来たことがあります。ま、とりあえず」
 相澤さんは乾杯を求めて、キラキラしたグラスを小さく揺らした。色鮮やかなアラカルトの前菜は早く食べてほしそうにお皿の上で行儀良くしている。
「メリークリスマス」
 コン、と軽く触れ合う硝子。薄いリムに唇をつけ、フルーティなアルコールを一口喉へ流し込む。キャンドルの揺れる炎が映り込んだ銀のカトラリーに手を伸ばし、いただきます、と声を揃えた。
「どんな時に来たのか、聞いてもいいですか?」
 過去に時間を共有してるはずの私に、覚えていないから教えてくれと言われるのは苦しくないか。伺うように彼を見て遠慮がちに聞いてみたけれど、そんな杞憂は必要なかったらしい。相澤さんは、記憶について隠す必要がなくなってスッキリしているようにすら見えた。
「ここで、俺が告白したんです」
 そんな重大な節目が、ここで。
「色恋に縁がなかったんで、そういうタイミングっていうのが分からなくて。なかなか告白する勇気が出なかったんですけどね。あなたが他の男に声をかけられているのを見たら、焦って……」
 相澤さんは懐かしそうに目を細める。私たちはきっと何年も前にここを訪れ、初々しく曖昧な絆にはっきりとした名前をつけたのだ。忘れるなんてできるはずもない煌めく記憶を、私は持っていない。
 少しずつ、思い出せたらどんなにいいだろう。一緒に過ごすうちに、こうして話を聞くうちに、一つずつ思い出のカケラを集めていけたら。
「その……今の私と、昔の私は結構違いますか」
「いいや、驚くほどそのままですよ。何度勘違いしそうになったか」
「う。ごめんなさい」
「言ったでしょう。忘れられない人に似ているって。けど、俺は改めて、今のあなたも好きになったんです」
「あ、相澤さん、まってください刺激が強い」
 まっすぐこちらを見つめる真っ直ぐな瞳も、甘いセリフも、慣れなくて戸惑う。誤魔化すように食事を続けるけど、ぱくり、口に運んだ料理の味は行方不明だ。
「何かこう、恋人だった時の思い出の品? とかって、持っているんですか?」
 別の話題にしようと質問を投げかける。口に入っていたサーモンを飲み込んでから、相澤さんはさらりと衝撃的なことを述べた。
「あの写真と、あと、あぁ、着物を持っているので返します」
「え?」
「おばあさんから受け継いだ着物、それだけはどうにか回収しました」
 もう二度と手に入らないと思っていた思い出が、私のところに返ってくる?
 驚きと嬉しさにナゼとどうしてが混ざっていっぺんに押し寄せて、金魚のようにぱくぱくと空を喰む。相澤さんは続ける。
「いつか返したいと思っていたんです。他は……指輪があります」
「ゆ、指輪」
「それはまた、いずれ。俺たちのペースで」
 ニヤリと歯を見せて意地悪に笑う彼に、胸の高鳴りが止まらない。だって将来を見据えているってことだ。でも、過去に婚約していたからといって、今の私にそれを押し付けるつもりがないのだと伝わってきた。敬語のままなのもそう。相澤さんは、今の私と新たに関係を築くそのプロセスを蔑ろにすることなく、今の私と積み重ねる時間を大切にしてくれている。一方で恐らく、相澤さんは知っているのだ。私がきっと再び同じ道を辿ることを。
 ただでさえ恋の成就に舞い上がっているのに、アルコールが更に開放的な気分にしてくれて、パキスタンカレーを食べた時みたいにリラックスして食事が進む。
 前菜が無くなる頃、メインのチーズフォンデュが運ばれてきた。ころんとしたフォルムの小さなお鍋が可愛らしい。
「わぁ、すごい、お野菜いっぱいでカラフルですね!」
 彩豊かな野菜とバリエーション豊富なお肉に魚介。つい、テンションが上がってはしゃぐ私に、相澤さんはふっと微笑んでフォンデュフォークを手渡してくれた。フランスパンをひとかけら刺して、とろりととろけるチーズの海に潜らせる。ふぅふぅ、と息を吹きかけてからぱくっと頬張る。
「ん」
 鼻に抜ける濃厚なチーズの香りがたまらない。美味しい。そして。
「この味、知っている気がします」
 よく見ると、お鍋の下で火が燃える、このビタミンカラーのフォンデュ鍋も、見覚えがあるような無いような。思い出したとは言えない程度のほんのりした既視感、正夢かのようなデジャビュ。何か掴めそうで掴めない、頼りない感覚。
 ううん、と悩ましく味わって、ふと向かいの相澤さんを見ると、彼はなんとも言い難い複雑な表情をして私を見つめていた。
「相澤さん……?」
「頭痛は、大丈夫ですか」
 その三白眼は、とても真剣で、眉間に薄く皺を刻んでいる。私が相澤さんとの過去に関連したもので刺激を受けた時、頭痛が起きる。その後、私は度々記憶を飛ばしてきたのだろう。熱が下がったあの時みたいに。彼が何に動揺しているのか、想像に易い。そして、思い出さなくていい、という言葉の裏にある、もう忘れないで欲しいという願いも。
「大丈夫です。少しも痛くないです」
 にっこり微笑んで、今度はエビにチーズをたっぷり絡めて、不安気な彼に差し出してみる。
「相澤さんもどうぞ」
「え」
 予想外の『あーん』に面食らった彼は一瞬固まって、それから照れくさそうに唇を引き締める。冷めちゃいますよ、とさらに促すと、少し身を乗り出してあーんと口を開けてくれた。綺麗な歯並びの間にエビさんを入れて、閉じた口からフォークを抜く。もぐもぐと咀嚼する彼から、不安の色は消えていた。
「私、熱を出して相澤さんがお見舞いに来てくれた後、目が覚めたら全部忘れていたんです。ほんの一時。でも、ちゃんと思い出しました。だから、きっと大丈夫だと思います」
 根拠はない。根拠はないんだけど、でも、私の中から記憶の情報そのものが消え失せてしまったわけではないのだ。たぶん。だから、大丈夫。
「あなたの大丈夫は、効きます」
 熱いチーズをくるりと混ぜる。この美味しいお鍋の中に、過去も今も不安も期待も全部溶かして、美味しく平らげてしまえたらいいのに。
 それから、私たちはあまり過去を掘り起こさずに、最近の街の変化や話題の食べ物の話をした。何気なく「行ってみたいな」と言った場所をスマホにメモするマメな姿にきゅんとしたり、熱々のチーズをつけても冷まさず口に運ぶから熱への耐性に驚いたり。まだ知らない部分がたくさんある、付き合いたての恋人としての楽しい時間を過ごすことができた。
 想像以上のボリュームだったチーズフォンデュコース。シャンパンまで開けてしまった。途中、満腹になった私にかわって、相澤さんが全部ぺろりと平らげてくれた。まだまだ話したいことはたくさんあるけれど、そろそろ帰りましょう、と言われて席を立つ。荷物カゴからバッグを取ろうとして、そこに一緒に入れていた重大な忘れ物に気付いた。
「あっ、プレゼント、持ってきたんでした」
 ショッパーの中から包みを取り出して、透けるほど薄い包装紙を解く。
「良かったら、外寒いので……」
 気に入ってくれるかな、と心配しながらボルドーのマフラーを差し出した私に、相澤さんはハッと吹き出した。
「変わらないな。前にも同じようなのを貰いました」
 ありがとう、と背を屈めた彼の首に、マフラーを巻き付ける。過去の私からセンスが進歩していないのだと思うと恥ずかしくて、同じ私なんだから仕方ないじゃないですか、と謎の言い訳をして、赤くなった顔を隠した。
 割り勘の約束だったはずが、恋人になったんだから割り勘じゃなくていいでしょう、という独自の理論に押されて、負けじと約束は約束だと押し返して、会計前に仲良く揉めるなどして。きっと相澤さんも高揚しているのだ。饒舌さも表情も今まで見たことのない彼が見られて、一段と距離が近くなったようで嬉しい。
 ほろ酔いで外に出て冷たい空気を吸い込むと、体の内側の熱がよくわかる。クリスマスはもう終わるけれど、街にはまだ少し浮き足だった空気が残っていた。見渡す通りはキラキラとイルミネーションに輝いていて、一度はもうダメかもしれないと思うほどめちゃくちゃに荒れ果てたとは思えない。強く望まれて、綺麗で穏やかな日々を取り戻したのだ。
 相澤さんは、またお隣の部屋に帰ってきてくれる。たくさん会えて合理的、かつ同棲ほど急展開じゃないから丁度いい、との見解に完全に同意した。
 相澤さんと並んで夜道を歩く。この前のおでん屋台からの帰り道と同じくらい、いやあの時以上に、とくとく心臓が打って全身にときめきを運んでいる気がする。
 帰るのはお隣の部屋とはいえ、そこで明確にデートの終わりとなる。一歩一歩着実にさよならに近づいていると思うと、名残惜しい気分が寂しさを連れてきて、どうにかこの時間を引き延ばせないかなんて欲深いことを考えてしまう。
 それに、さっきから体の横で揺れてる手の、触れそうで触れない距離がもどかしい。
「あの……あ、シュトーレンがまだ半分くらい余ってるんです。この後うちで食べませんか?」
 クリスマスらしさを含みながらも無難な口実を思いついた自分を褒めてあげたい。自然な提案のはず。ちょっと鼻息が荒い感じになったかもしれないけれど。対して、返答は、是でも非でもない無気力なトーンで。
「どこで覚えてきたんだ。そんな誘い方」
「え……え、や、ちがいます! そういう意味じゃなくて、だって、どうせ帰るとこお隣ですし、コーヒーの一杯くらい……っ」
 相澤さんはくつくつ喉を鳴らして笑う。揶揄われても嫌な気はしない。盲目な恋はすっかり再燃した。顔が熱くなって湯気が出そう。
「俺も、離れ難いと思っていたところです」
 ほら、不用意にきゅんとさせてくる。
「それどころか」
「え?」
 ちらりと見上げた彼は、まっすぐに駅のイルミネーションの方へ向いていて、アイパッチとマフラーのせいで表情は窺い知れない。
「帰るまで遠いな……」
 ぽつり、呟いた声はどこか拗ねたような不満げな色をしている。
「ふふ。ですね。でも、ゆっくり歩くのも嫌いじゃないです。相澤さんとイルミネーションが見られるなんて嬉しい」
「あぁ、そうだな。全部、隅から隅まで、掛け替えのない時間だ」
 偶然に、手の甲同士が掠る。ドクンと昂った期待を捕まえるように、明確な意思を持って手が触れ合った。やんわりと指が絡まり、それに応えるように互い違いに指をかけてゆく。ドキドキしすぎて手元は見られないから、景色に見惚れるふりをした。太い指が私の指の間にきちんと組み合って、解けないように、けれど優しく結ばれる。
「もう手放さない」
 柔く手を引かれて、足が止まった。不意に頬を撫でた指先が、私の視線を月に誘う。
「相澤さん……」
「ずっと、俺の隣にいてくれ」
 ライトの点滅と私がひとつの瞳に映り込んでいる。その目から、声から、触れ合う指先から、愛が流れ込んでくる。
「うん、はい、ずっと。好きです、ずっと」
「はぁ……悪い、家まで待てそうにない。今は、特別、許してくれないか」
 蕩けそうな眼差しにくらりとして、返事の代わりに瞼を閉じた。
 私たちの間に流れた白い息が途切れる。
 懐かしくて愛おしい温もり。暗い瞼の裏にパチパチと光が瞬く。それは優しく夜を照らすようで、次いでズキンと始まった痛みと、重力から放たれる不安な感覚。倒れるほど酷くはない、中途半端な発作。不思議と恐怖は感じなかった。私の奥底に閉じ込められた大切な記憶が懸命にドアを叩いているだけだから。いつかきっと、過去は私と一つになる。そうならなくても、大丈夫。
 お隣さんは、知っている。
 私たちは、お隣にあるべきなのだと。

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