カサブランカを飲み干すまでに


「みんな無事でよかったね。かっこいいよ。大丈夫。そういうとことも含めて全部、隅から隅まで愛してるもん」
 俺がミイラのように全身包帯を巻いて帰った日、彼女は明るく微笑んでそう言った。きっと心配で眠れなかったのだろう、少しクマのできた顔で、それでも気丈に俺の全てを肯定してくれた。よく泣くくせにすぐ笑う、優しくて素直で少し自分に自信のない、料理が好きで美味しそうにご飯を食べる、丁寧なのに時々雑で抜けてるところが可愛らしい、俺の恋人。
 全寮制になってからは一緒に過ごせる時間は大幅に減ってしまったが、一生のうちほんの一時的なことだ、この程度で気持ちが揺らぐことはない、と強気な彼女に励まされたものだった。
 愛していた。忙しい合間を縫って会えた時間は、片時も離れず身を寄せ合っていたいと思うくらいには。しかし、ヴィランとの情勢は悪化の一途を辿り、それに伴って俺たちが会える時間もどんどん減っていった。
「生徒のため、平和のため。ヒーローとしても先生としても私の恋人としても、何も間違えていないと思うよ。大丈夫。私のことを忘れるくらい励むところも丸々、隅から隅まで愛してる」
 彼女がそう言うから、俺は目の前の戦争に全ての気力を注いで向き合った。
 そうしたらどうだ。俺が彼女を忘れたんじゃない。彼女が俺を忘れてしまったんだ。
 それは雄英への避難が開始された頃のこと。俺は戦闘中自分の脚を切断し、目にも致命的な怪我を負い、セントラル病院にて入院治療を受けていた。
 彼女からの連絡がしばらく途絶えて心配していたが、雄英にいた山田が安否を確認してくれて、避難済みだと聞いて安堵していた。少しばかり怪我はしたものの命に別状はなく、雄英内の診療所にいるとのことだったから。
 本当は、すぐにでも直接会ってその頬に触れてぬくもりを確かめて、腕に抱きしめて無事を確認したかった。距離的にも状況としても土台無理な話で、せめて、と通信機器を通してビデオ通話を山田に手配してもらった。が、それは容易なことではなく、お医師さんの許可が降りるまで少しの時間を要した。
 ようやく通話を許可されると同時に、お医師さんから説明があり、予想してなかった現実を突きつけられた。
 彼女は、俺のことを忘れている、と。
 俺に関する情報に触れると、発作的に頭痛を起こし気を失う。そしてそのトリガーとなった情報含め、発作前後の記憶がまた消えてしまうのだと。これが怪我からくるものなのか、個性℃膜フなのか、判断がつかない。治るのかも如何とも言えない。そして俺に関する情報さえ遮断していれば、もう体はすっかり元気なのだと。
「俺に会ったらどうなるんです。思い出すってこともあるかもしれないだろ」
 俄かに信じがたい。信じたくなかった。そんな疑わしい説明なんてご丁寧に聞いてないで、山田はさっさと病室に行ってしまえと苛立つくらいには。
 看護師が同席のもと、いざ、山田が端末を持って病室を訪ねる。画面越しに、彼女の病室のドアが開いた。
 きょとんと俺を見たその顔は、いつもの彼女で、なんだ大丈夫じゃないかとその名前を呼んだ。するとすぐにかわいらしい顔は苦痛に歪み、うっと呻いて頭を抱え蹲ってしまったのだ。
 そして、気を失って、目覚めた彼女は、山田が部屋を訪ねたこと含め綺麗サッパリ忘れていたらしい。
 無理に思い出させようとしてもその度にリセット。だから、俺の情報が入っている彼女のスマホは没収されて病院が保管していた。俺に関すること以外はきちんと覚えているというのだから、なぜよりによって、と思わざるを得なかった。
 思い出してほしかった。けれど、解決法は無いのかと模索するには、世間はあまりに混乱を極めていた。決戦は近く、私情で恋人にばかり時間を割くことは許されない立場だった。ヒーローとして、教師として、俺は俺のやるべきことをしなければならない。
 俺の顔を見て、俺の声を聞いて、拒絶するように苦しみだした彼女の映像が頭から離れない。それ以降、俺は彼女との接触を諦めた。
 手放すと決めた。手放すもなにも、顔を合わせれば苦しみ気を失う彼女を、俺をすっかり忘れている彼女を、どう繋ぎ止めるのかなんてわからなかった。ロックが解除できない彼女のスマホは砕いて処分してもらった。そして、他人に頼んで彼女の借りていた部屋からいくつかの思い出を回収し、あとは全て俺の痕跡が残ることの無いように処理をしてもらった。
 彼女には、戦闘によって倒壊し燃え失せたと伝えるようお医者さんに頼み、俺の判断で、俺の責任で、俺と彼女の関係を全て、無かったことにした。
 できることなら自分の足で、二人で過ごした部屋を見納めに行きたかったが、その足が片方無いのだ。それすら叶わなかった。
 傷ついている暇も、悲しみに暮れている暇もない。失った脚の代替品を装着し、黒霧との意思疎通を試みながら、リハビリに打ち込み一刻も早く生徒たちの元へ戻ろうともがいた。
 それに、考えてしまったのだ。もし、そんな気は毛頭ないが、もし万が一ここで命を落とすならば、彼女が俺を忘れたことは幸運と言うべきかもしれない、と。俺の安否に心を砕くことなく、涙することなくいられるならば、俺が彼女の記憶から消えても――。
 この戦いに勝利すれば、誰もがまた穏やかに過ごすことができる。彼女の存在如何でやる事は変わらない。彼女はこれ以上傷つかない。
 俺は、どこかすっきりした気持ちで最終決戦に臨んだ。
 戦いは数多の犠牲の末決着を迎え、人々の心に様々な傷を残し、けれど世間が前を向いて動き出して、俺はなんとか生徒が卒業する未来を見通せるようになった。
 たくさんの葛藤や悲しみがあった。失ったものも大きかった。けれど一つの節目を迎えて、ほっと息を吐つく時間を持てるようになった。
 世界が平和を取り戻し、一人きりの自分の部屋で、思い出したのは彼女の笑顔。
「頑張ったね。いっぱい怪我しちゃって。でも偉い。隅から隅まで大好き」
 もう一度、俺の隣で言って欲しかった。いつものように。
 目も、脚も、そうっと撫でて、勲章増えたね、と。心配と不安を全部隠して笑う顔を、もう一度見せてくれないか。

 少しの迷いの末、俺は彼女の痕跡を辿ることにした。復興して生まれ変わった街のどこかに、彼女はまだいるのだろうか。遠くに引っ越していたら行方はわからない。こういう時はまず職場について探るのがセオリーだろう。早速、以前働いていた弁当屋について検索すると、同じような場所で再開したとの情報を見つけた。
 春が終わり、夏に向けて日毎気温が上がる時期、俺はこっそりと店を見に行った。店内の様子が見える大きな窓のついた真新しいテナント。その中に、いた。彼女は以前と変わらない笑顔で接客をしていた。
 俺が姿を現せば、また頭痛に苦しんで気を失うだろうか。そう思うと店の中には入れなかった。同時に「消太、来てたんだ。もうコレしか残ってないよ」と俺に嬉しそうな顔を向けてくれる妄想も膨らみ、梅雨の雨に紛れ、未練がましく店の前を通るのをやめられなかった。
 夏の暑さが続くある夜。彼女が店先の看板をクローズに変えようとして、窓ガラス越しに、うっかり目が合った。まずいと思ったが、彼女はにこりと微笑んでさっと扉を開けて、「お弁当お求めでしたか」と言ったのだ。
 つい、無視をして逃げるように去った。
 情けないが、声を聞けただけで胸がいっぱいになって、何も返事を返せなかった。
 大きな発見で、きっかけだった。彼女は俺を見ても、倒れることもなかったのだ。
 それは、彼女の中から俺の影が完全に消え失せたからなのかと思うと、悲しく胸が軋むのを感じた。一方で、これで堂々と弁当を買いに行けると嬉しくもあった。いや、嬉しい方がきっと大きかった。
 それから、時間を見つけては、時折彼女の店を訪ねた。
 最初は最低限の接触。これとこれ、と指差すだけの注文をして無愛想に振る舞った。本当は色々聞きたいことがあったし、俺に笑いかけてくれることが嬉しくてたまらなかったが、それを表に出すわけにはいかなかったから。少しずつ、おすすめを聞いたりして会話を増やしてみた。俺の声を聞いて発作を起こす様子はなく、徐々に、徐々に、やり直せるのではないかと期待してしまった。
 彼女も俺に好印象を持っているだろうことは、目を見ればわかった。付き合っている頃から、この顔が好きだと言ってくれていたから。自分の独特な見てくれと彼女の趣味が合致していたことを素直に喜んだ。
 もう一度恋人になれたら、全て元通りじゃないか。
 家は既に突き止めていた。やりすぎかと思ったが、偶然を装って隣に部屋を借りて。少しでも好感度を上げようと、彼女がたまに買っていたマカロンを用意して挨拶に行った時には、さすがに緊張した。
 ドアを開けて、はっとした彼女の丸い目を見て、まさか全て思い出してくれたんじゃないかと期待してしまった。それは勘違いで、ただの客としての認識だった。
 フルネームではさすがに発作が起きるんじゃないか。苗字だけでもダメかもしれない。不安に思いながら「相澤です」とだけ名乗ってみたが、大丈夫だった。
 何年振りに聞くだろうか。もはや新鮮さのある「相澤さん」からの再スタート。
 戸惑いと、喜びと、恥じらいの混ざったその顔。昔のことを思い出して懐かしくなった。甘酸っぱい気持ちが帰ってきて、二度も恋ができるのは貴重で素晴らしい体験だと思い込むことにした。
 彼女は少しも変わっていなかった。
 ちょっと焦って個性≠ノ頼ろうとするところも、指摘すれば素直に反省するところも。俺との記憶が抜け落ちたというのに、彼女は悔しいほどに彼女のままだった。その人格を構成する要素に、俺という存在は微塵も影響を与えていなかったのか。そんな幼稚で自分本位な不愉快に苛まれたりもした。
 そしてゴミ出しに廊下へ出た彼女の服装でショックを受けた。ダボダボの男物のスウェットなんか着て。人好きのする彼女のことだ、もうすでに別の恋人がいる可能性だって大いにあったのに、盲点だった。彼女に触れている男がいるのだと思うと、落ち込むより腑が煮え繰り返る思いだった。
 俺を思い出せれば今の彼氏と別れるのか。記憶を刺激してやろうと、意図的に働きかけた。例えば、彼女が大爆笑したガンリキネコのトレーナーを彷彿とさせる服を、あえて見せてみたりした。笑い飛ばしはしなかったが、笑いのツボは変わっていないみたいだった。親身になって俺の相談に乗って服選びを手伝ってくれた彼女は、俺が愛した人そのままだった。
 彼女の瞳は、俺のことを新たに知るほどに、恋の色を濃くしていく気がした。それがたまらなく嬉しかった。何度でも愛し合える。ゼロになっても。チープな言葉を使えば、運命の人だと思えた。
 そして、俺が嫉妬していた恋人は存在しないことが明らかになった。勘違いだった。だが、それがむしろ良くなかった。
 ダボダボの部屋着を、落ち着くと表現した彼女。その時に思い出した。俺がいない夜は、よく俺の部屋着を着て寝ていた事を。つまり、擬似的な俺の部屋着を身に纏い安心感を得られると、彼女の身体が覚えていたということだ。
 言葉にしようのない感情が胸に渦巻いた。思い出せるんじゃないか。俺との記憶はまだ、その身体の中にあるんじゃないか。発作が起きないならば、リセットされないならば、何かのきっかけにふっと俺を思い出してくれるんじゃないか。
 だから、踏み込んだ。
 懐かしい彼女の作るカレーの香りに誘われて。誕生日だという理由を後ろ盾に、俺は、彼女の得意料理の一つであるパキスタンカレーを一緒に食べたのだ。
 部屋のインテリアの趣味だって、変わっちゃいなかった。木製の家具と観葉植物、棚に並んだスパイス。もちろん一度全て廃棄されているから、俺の知っている家具なんて一つも無いわけだが、それでもその部屋の空気は以前と変わらず懐かしく、暖かく俺を受け入れてくれた。
 あの日、彼女の記憶が消えて、関係を無かったものにした時覚悟していたはずだった。もう二度と手料理を食べられず、向かい合って食事をすることなど無いのだと、諦めていた。特別なことをして祝うような年齢でもないくせに、誕生日に幸運が舞い込んで浮き足立つ気持ちは止められなかった。
 そして、アレだ。ガンリキネコのグラス。
 おまえの趣味じゃないだろ。アレが目に留まって買ってしまったのは、俺の、俺との思い出が、その無意識の奥に眠っているんじゃないか。彼女の行動原理のほんの一部分にでも、やっぱり俺の存在が残っているんじゃないか。寝る時の服装に加えて、ガンリキネコだ。
 変わっていない。彼女は、俺といた時と同じ彼女だ。料理の味も、何もかも。
 いただきます、の声を合わせ、スプーンを口に入れて、スパイスの香りが喉を通った時には、ぐっと込み上げるものがあった。声が震えそうになった。
 楽しそうに俺と談笑する顔は、恋人であった時と少しも変わらず、おかしな錯覚を起こしそうになった。全て元通りになったんじゃないかなんて。しかし、話の内容が俺に関する質問だったりしたので、あぁやっぱり何もしらないお隣さんなのだ、と一人で上がったり沈んだり、俺らしくもない感情の起伏に揺られた。
 会話の中に、俺と結びつきの強いであろうキーワードを盛り込んでみた。ヒーローと聞いても、雄英と聞いても、彼女は何も思いだす様子も苦しむ様子もなかった。
 お隣さん、という関係から一歩ずつ近付いて、新たに関係を築き直したい。そう望んでいた、ある夜、帰宅途中の駅付近で、偶然彼女の姿を見つけた。おでん屋台の灯りに吸い寄せられるように暖簾をくぐるのを見て、クスリと笑ってしまった。
 以前ならば、すぐに電話して『そんなに腹が減ってるのか』なんて言って、キョロキョロ俺を探す姿を楽しんだだろう。ようやく見つけてパッと明るくなる表情が好きだった。今は連絡先すら知らないお隣さんだ。
 ストーカーじみていると思いつつ、それならもう隣に引っ越した時点で相当なストーカーだしなと開き直って、その背を追いかけおでん屋台の席についた。
 俺の登場に驚いてドキドキが顔に出ているのが可愛くて。つい、彼女が言う前にいつもの一味を渡した。ちょっと不思議そうな顔をされたけれど、食事の好みが同じだというのは彼女にとって好印象だというのは知っていたから、そういう事に丸め込んだ。彼女をよく知っている分、好感度の上げ方については、初めて恋をした時よりも合理的な選択が取れた。効率的である一方、俺だけが二度目なのだ。その距離に戸惑いも感じた。俺は、当たり前に知っている彼女の趣味嗜好に、へぇ、と新鮮なリアクションをしなければいけない。嘘をつき、欺き、偽りの自分を見せていることに、多少なり罪悪感があった。
 俺ばかりが彼女を知っている。だからこそ、初めての時と比べると、落とすのも恋人になるのも容易に思えた。けれど。けれど、迷いもあった。俺は、この罪悪感を抱えたまま、彼女の過去を隠したまま、一生それを告げないまま、一緒にいられるんだろうか、と。
「俺のこと、もっと知ってください。隅々まで」
 俺も彼女も酒が入って少しだけ酔っていた。ふわっとした頭で後先考えず出た願いは、きっと心の底からの素直な気持ちだった。戸惑い赤くなるその様子が可愛いのに辛かった。
 隅から隅まで、愛してくれていた。けれど俺は、見せられない秘密を抱えてしまった。
 もしまた恋人になるならば、きっと、俺がどういう思いで彼女に近づいたのかを告げなければならない。そうじゃないと、また隅から隅まで愛してはもらえないのだ。元には戻れない。
 ともかく、少しずつ俺に関する情報や刺激を増やし、どうなるのか観察する必要がある。
 今度は、俺の部屋に招いてみた。断ることなんてできないように、一方的に約束を取り付けた。暴走している自覚はあった。
 殺風景な部屋。彼女が好んでいた紅茶を買っておいて、彼女が初めて俺に買ってくれたケーキを用意した。付き合ってから初めての俺の誕生日だったか、あまり高級でもアレだし、手作りって重いと思われたらアレだし、と迷った彼女が買ってきた近所のケーキ屋のチョコレートケーキ。安物だから遠慮なくドタキャンしてね、とおかしな予防線を張られた思い出の味。
 俺は、その懐かしい甘さと、目の前にいるもう恋人ではない彼女、思いだす気配のない様子に、どうにもやり切れない気持ちでいた。
 隅々、って。
 そう質問してきた彼女。
 なぁ、それはおまえが言ってくれていたんだよ。俺のために、何度もそう愛を伝えてくれていたんだ。
 俺を知らない彼女と仲良くなるほど、昔恋人であったころの面影が強く頭に過ぎる。同じ彼女なのだ。同じなのに、俺が人生の支えにしてきた色々なものを、もう彼女はその中に持っていない。
 どれだけ俺がおまえを愛していたか。愛し合っていたか。
 その想いが口走らせた、忘れられない人がいる、という言葉。嘘じゃないさ。今もまだ愛している。おまえのことで、けれど、おまえじゃない。
 血の気の引いていく顔を見て、最低なことに、今の彼女でも俺にそれくらい恋してくれているのだと思うと、薄汚い欲求が満たされるのを感じた。じんわりと胸が熱くなって、ひどく歪んだ自分に嫌気がさした。
 懸命に笑顔を貼り付けて自室に戻る彼女を見送ってから、浅はかで自分本位な言動を後悔した。
 向こうから諦められたら、それで終わりじゃないか。俺はただのお隣さんのまま、彼女は今後も平和に生きる。それだけだが。向こうに拒絶されたらと思うと、縋るような気持ちが湧いて出た。
 悪い予感は当たる。ある朝のランニングの帰り、偶然にも公園で出会った彼女は、ふっきれたように明るく、ただのファンでいる、と言ったのだ。握れると思った手がするりと逃げていったような寂しさに、痛感した。嫌だ。俺を諦めないでほしい。もう一度チャンスがほしい。その行く末はわからないけれど。
 この気持ちは、ただの過去への執着なのか。元恋人として彼女に縋っているだけなのか、それとも、今の彼女にもう一度恋をしているのか。わからないままとにかく引き止めたくて、ヤケクソで「俺に好意的なことが嬉しかった」なんて言って、合理的な言葉を探すうちに鳴った電話。
 耳にうるさいハイテンションボイスが、音漏れして彼女にも届いてしまったんだろう。
「しょーた」
 愛おしい声が、俺の名前を呼んだ。
 時間が止まったかと思った。いや、巻き戻った、か。彼女が記憶を失うなんて、悪い夢でも見ていたんじゃないか。悪い夢が、醒めたんじゃないか。
「って、いうんですね」
 そう続いたから、俺はまた悪夢に戻った。ランニングじゃ息切れなんてしないのに、彼女の言葉一つで、肺が機能低下を起こしているのかと思うくらい息苦しかった。しかしそれ以上に、俺の目の前で彼女が苦しみだした。
 俺の名前がトリガーになって、頭痛が起きて倒れたのだ。俺の存在が、記憶が、彼女の脳内で戦っているように思えた。もう、どんな情報でも彼女の記憶を揺さぶることすら出来ないのかと諦めかけていたが、痛みを呼び起こすだけの刺激になれたのだ。俺の、名前が。
 地面に落ちて鮮やかさを失った秋の紅葉と、俺の心とがよく似た色をしていると思った。
 ベンチに座り、気を失った彼女の頭を腿に乗せ、風がふわふわと揺らす髪を指に絡めて弄び、丸いおでこを撫でる。
 目が覚めたら、さっき耳にした俺の名前を忘れているのだろうか。せっかく一からやり直した相澤さんのことも丸ごと忘れてしまっているかもしれない。だとしたら俺は突如膝枕なんかしてる変質者扱いだ。ヒーローライセンスを見せれば助けたと信じてくれるだろうか。
 なぁ。もう少し寝ていていいよ。
 力の抜けた寝顔を見つめていたら、喉から溢れ出るように自然と彼女の名前を呟いていた。久しぶりにその名前を紡いだ唇が、懐かしさに震えた。次は意図して、はっきりと名前を呼んだ。意識のない状態でも呼べてよかった。これが最後かもしれないと思ったから。
 結果として、彼女は出会い直した俺のことは覚えていてくれた。名前については知らないが、少し強引に連絡先を交換した。そこにフルネームが表示されているのを見ても、彼女は発作を起こすことはなかった。
 だが、俺を多く知っていくほど、苦しい発作のリスクは高まるだろう。記憶が飛んだりすれば、脳への負担やダメージもあるかもしれない。これからもし、また彼女が俺を受け入れてくれて、付き合うことになって、関係が深まれば頭痛もリセットも避けられないだろう。
 好きだ。俺を覚えていなくても。だから、平穏な生活をこれ以上刺激することはやめようと思った。
 クリスマスまで。そこまでで、終わりにする。そう思って約束を取り付けた。
 デート。好き。チーズフォンデュ。眠った記憶を呼び覚ますような情報よりも、彼女がドキドキワクワクするような発言を心がけた。動揺しているうちに俺の思惑通りに会話が進んで、気が合う演出もしっかりして。
 もう最後にするから、俺のわがままに付き合ってくれ。
 そう俺が決意を固める一方で、彼女の思考は予想外の方向へ進んでいた。
 気が合えば好感度も上がると思っていたが、あまりに奇妙なほど合わせすぎたらしい。俺は彼女のストーカーだと疑われはじめていた。意図的な「奇遇ですね」をいくつか散りばめたが、それと「忘れられない女性がいる」と打ち明けた情報と、それに度重なる偶然が作用して、どうも不安を煽ったらしい。偶然出くわす分には、運命が味方しているかもしれない、なんてロマンチックな思考をしていた自分が恥ずかしくなった。
 彼女はまだ、好きだとか信じたいという気持ちと疑いの間で揺れているようで、困ったように、なぜあの部屋に引っ越したのかなんて質問をしてきた。
 記憶うんぬん以前に犯罪を疑われている。いや、疑われるようなことは十分にした。疑いというより事実だ。彼女にとって俺は知らない男なんだから。知らない男。知らない男なんだ。くそ。
 どうにか最後は笑顔を見せてくれたからよかったものの、俺は色々とやり方を間違えていたと気付かされた。
 そして、また、偶然。
 ヒーローとして管轄範囲内でいざこざが起きたとの連絡が入ってきた。他のヒーローが既に対応に向かっているようだったが、あまりに近かったので一応臨場すべきかと玄関のドアを開けたら、そこにずぶ濡れの彼女がいたのだ。
 偶然なんだが、また警戒させてしまったかもしれない。そう心配しつつ、ずぶ濡れで鍵を落としたと聞いたら、その状態で放ってはおけなかった。
 俺の部屋に引き摺り込み、クリスマスプレゼント用に買っていたルームウェアを出してきて、風呂で温まってから着替えるように伝えて街へ。
 ヒーロー活動は一瞬で他のヒーローに引き継ぎ、鍵を探して、彼女の予測通りの場所で発見して、コンビニに寄ると言ってしまった手前とりあえずココアとゼリー飲料を買って戻ってくると、薄暗いリビングの奥に彼女が佇んでいた。
 まずい、と思った。
 けど彼女がニコニコ笑って、ぺこぺこ頭を下げてお礼を言って帰って行ったので、何も追求することはできなかった。ただ、完全に心のシャッターを下ろされたのはわかった。
 写真を見られたのだろう。初対面としての距離感で接してくる彼女に心を潰されそうになっても、確かにあった幸せな日々を思い出させてくれる一枚。欠損を支えてくれた笑顔。どうしても捨てられなかったそれが仇となった。
 焦燥と後悔と激しい動揺。すぐにでも手を引くべきかと迷って、少しだけ様子を見たくて立ち寄った弁当屋に、彼女の姿はなかった。
 熱を出して休んでいると聞いて、心配が顔に出た。店長が言葉通り俺を後押ししてくれて、プリンを差し入れに渡されて。仕事の空き時間に一旦帰り、彼女の部屋を訪ねた。
 泣かせるつもりはなかったんだ。怖がらせたかったわけじゃない。何度か作ってくれたあの味を再現しようと四苦八苦して、ようやく仕上がったはちみつとレモンと生姜の飲み物。それが、また彼女の記憶の蓋をこじあけようとしたのだ。
 イレイザーヘッドは覚えてないのに、抹消は呼び起こせたのは嬉しかった。混乱し狼狽えるその目が、切なかった。
 風邪の発熱と発作の頭痛に苦しんで朦朧とした彼女に、俺は、俺たちは以前恋人だったなどと、異常者の妄想とも取れる事実を告げた。
 全て、忘れてくれ。嫌な思いをさせて悪かった。思い出したくもない思い出を勝手にほじくり返そうとしてすまなかった。平穏な日常に巣食った異分子は、無かったことにしよう。
 俺は、わざと頭痛を悪化させるつもりで、彼女の名前を呼んだ。『一度しか言わないからな』と前につけて言ったはずのセリフを、こんな気持ちで、もう一度言うとは思わなかった。最大に幸福だったときの、煌めく思い出の中の、だけど俺しか覚えていない言葉を、呪いの呪文のように唱えた。
「世界で一番、愛してるよ」
 ダメ押しのように口付ける。これが本当に最後だと、泣きそうなほどの切なさと愛おしさを込めて。
 まもなく彼女は意識を飛ばした。離れ難いその頬に、瞼に、耳に、唇を寄せて別れを告げる。化粧をしてないその顔は、俺しか知らないままだろうか。全て忘れても、俺はずっと覚えている。俺はおまえの思い出と生きていくよ。
 俺は、俺の痕跡を部屋から跡形もなく消し、その場を立ち去った。
 全部話してしまえば、また俺に関することは全て忘れてしまうだろう。なぜだか、それこそが最も有効な忘却のスイッチである確信を持っていた。
 相澤消太はおまえの人生にいなかった。相澤さんも、はじめからいなかった。
 俺の存在が記憶から消えたら、わずかでも喪失感を感じたり、心にぽっかり、なんて感覚を覚えたりするのだろうか。そうだとしても、それは物憂げな秋冬の情感として解釈されて、いずれ春には消えるのだろう。
 もう隣人ではいられない。寮もあるから急ぎで必要な荷物は無い。道を間違い、彼女の害になると知って、隣の部屋に居座ることなんてできない。
 お隣さんは、何も知らない。
 けれどもし、目が覚めて、俺のことを覚えていたら。好きだという感情が残っていたら。クリスマスの約束を覚えていたら。思い出の店を思い出してくれたら。
 そんな無謀な奇跡が、聖なる日に起こるとしたら、俺はもう一度おまえとの未来を願っても良いだろうか。

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