真実のホットはちみつレモンジンジャー



 あらゆる感覚が覚束ない、ふわふわした夢の世界。ゆらりと漂っていた私は「お店に電話しなきゃ!」と焦る気持ちで現実に急浮上した。
 寝ぼけ眼で慌ててスマホを探してシーツの上を撫でまわし、手探りで見つけたそれの画面を見てハッとする。時刻はすでに午後三時。下校中の子どもたちの賑やかな声がぼんやりと聞こえている。
「もう連絡したんだった……」
 はぁ、と溜め息と同時に、ぽてんと力を抜いた体がベッドに柔らかく沈む。お店に発熱と欠勤の連絡をしてから、随分寝ていたらしい。
 身体中の神経が過敏になったみたいに、全身がぞわぞわする。布団の中にすっぽり包まれているはずなのにつま先が冷えて、なのに吐き出される荒い息は熱い。午前中に飲んだ薬が切れて、一度下がった体温がぐんぐん上昇している真っ最中だ。
 熱に浮かされてただでさえ働かない頭は、相澤さんの部屋で見た写真のことを思い出して更に掻き乱される。
 伏せられていた写真立て。そこにおさめられていた私の写真。夏物のワンピースを着て楽しそうに笑う私がそこにいた。カメラ目線ではなかった。例えばもし、仮に、盗撮だとしたら、それは相澤さんが初めてお店に来るよりずっとずっと前に撮られたものだろう。
 あまりにも趣味が合いすぎていた。理想の人すぎだった。それで、視界の端にチラつくようになった違和感を、『そんなわけない』という根拠のない楽観でどうにか無視してきた。
 けれどもう、何の言い訳もできない。浮かんだり覆ったりしていた疑惑は、クロで確定だ。
 相澤さんは私に会う前から私のことを知っていたのだ。知ってて、隣に引っ越してきたのだ。
 こうだったら最悪、とイメージしていたストーリーがそのままリアルになってしまった。けれど、これで全ての納得がいった。いくら盲目な恋をしていたって、さすがに目覚める強烈な一撃。それと熱風邪の合わせ技で私のライフはゼロよ。
 寒い。喉が渇いた。食欲はないけど何かお腹に入れて、薬を飲まなくちゃ。
 突きつけられた真実から逃げるように、風邪症状へ目をむける。気を抜くとまた閉じてしまう瞼と弱々しく戦っていると、不意に、ピンポンと無機質な音が響いた。
 途端に、第六感が警鐘を鳴らす。
 いや、ネットで何か買っただけかも。何だろう。ともかく眠気はいくらか飛ばされて、重い体を起こすきっかけとしては丁度よかった。
 のそりとベッドから起き上がり、ぺたぺた裸足でリビングへ出て、インターホンの画面を見る。やはり、と言うべきか。そこには、黒い髪を長く伸ばし、片目をアイパッチで隠した男が佇んでいた。
 発熱と関係のない悪寒がゾクリと背中を這い上がる。居留守を決め込むには、お隣さんは近すぎる。恐る恐る触れた通話のボタンは思ったより軽く、ピ、と簡単に彼と私を繋げた。
「はい」
「相澤です。大丈夫ですか」
 色っぽいと感じてたはずの、低くて抑揚のない声が怖い。なぜ、私の不調を把握しているのか。
「……だ、大丈夫です」
「お弁当屋さんで、熱を出して休んでいると聞いて……店長さんからプリンの差し入れを預かったんで、渡したいと思ったんですが」
 慌てて付け足したような理由。証拠を求めて握りしめていたスマホを見ると、確かに、オーナーからプリンを預けたとメッセージが届いていた。相澤さんがケーキを食べようと誘ってくれた時、オーナーも私の気持ちを知っていたから背中を押すノリだったのだろう。
「あの、今、その……」
 部屋着なので、なんて、この前ルームウェアを貰って着た姿も見せた私が今更。それに、せっかく届けてくれたプリンを受け取らないわけにもいかない。
「すっぴんなので、あんまり見ないでくださいね」
「わかりました」
 プリンを受け取るだけ。それだけ。ドアの隙間からで事足りる。相澤さんだって病人の部屋に上がり込む気は無いだろう。
 今までとは違う意味でドキドキしながら、玄関のドアノブに手をかけた。ガチャ、と開いた隙間から、冷えた空気が滑り込んでくる。
「こんにちは、わざわざすみません」
 すっぴんだと伝えたから気を使ってくれたのか、相澤さんは顔が見えないようにドアの影に立っていてくれた。
「いえ、俺も心配だったので……これ、預かってきたプリンです」
 廊下だけ見えていたドアの隙間に、お店のビニール袋を持った相澤さんの手がにょきっと現れた。
「ありがとうございます。移したら悪いですし、すみません、これで」
 パシリのようなことをさせて申し訳ないと思いながら、手だけを外に出してプリンの袋を受け取った。ほっとしながら、失礼します、と手を引っ込めようとした時。
「待ってください」
「ひっ」
 ぱしっと手首を掴まれた。
 ガサっとビニールが騒めき、ドアが揺れ、息苦しいほど心臓が暴れる。
 鍛えられた頑丈な手は、私が少し引いたところでびくともしない。締め付けてはこないものの逃げられる余地も感じられなくて、ドアを挟んで硬直する。
「離し、て」
「俺の部屋で……何か、見ました?」
 喉が引き攣って声にならない。薄暗い彼の部屋で見た私の笑顔が思い起こされる。爽やかなその写真が意味するものは、恐怖でしかない。
 冷や汗がこめかみを流れる。わななく唇が必死に防御のための嘘を紡ぐ。
「いえ……な、にも、見てないです」
 震えた声は『何か見た』と言ってるようなものだった。写真立てを見てしまったことはバレた。元に戻したはずなのに。
 ドアの陰から、ふー、と大きなため息が聞こえた。必死に静穏を装っている気配が恐怖を煽る。逆上されたら、もし、強引な手段に出られたら、この力の差ではどうしようもない。
「体調不良なところに押しかけて悪いですが、少し話をさせてください」
 影が濃くなったかと思うと、相澤さんがドアの隙間を塞ぐようにこちらをのぞいていた。私を見下ろすその瞳は、穏やかな輝きを失って冷たい。
 そういえばどうして今、私が目を覚ましたタイミングで来たんだろう。まさか、やっぱり音を聞かれてたのかもしれない。疑いが勢いを増して、あらゆるところに火をつける。
「……でも……もう、あの、ぐあいが悪くて、ちょっと……」
 相澤さんは手を離してくれない。ドアの隙間から出したきり、プリンを持った私の右手は戻らないまま。ふと視線を上げると、がっしりとドアに指がかかっていた。これでは繋がった手が解放されたとて、ドアを閉めることも叶わない。どんどん追い詰められている。
「俺からの差し入れも受け取ってもらえませんか」
「……なんですか?」
「はちみつレモンに、生姜も入ったやつ」
 あぁ。吐き気が込み上げる。
 子どもの頃から風邪をひいたときに母が作ってくれたハチミツレモンジンジャー。一人暮らしをしてからも、体調を崩しかけたら作って飲んでいた。
「風邪のときは、コレでしょう?」
「なんで……」
 非常にローカルな我が家の定番を、ただのお隣さんが知っている。
 どくん、と脳が脈打つ。ずきん、ずきん、と鼓動のリズムで痛みが襲ってくる。まるでそのタイミングすらわかっていたかのように、ドアが開かれた。抵抗できないまま、相澤さんの義足が、私の部屋に踏み入る。
「や」
 バタン、と閉まった扉の内側に、彼がいる。よろめいた私を支えている。
「どうして……どうしてそんなに、私のこと、知ってるんですか」
 俯いた視界で、彼が靴を脱ぐのが見える。握っていたはずのプリンの袋はいつの間にか奪われて、シューズボックスの上に置き去りにされた。
 相澤さんに肩を支えられているのか、掴まれ操られているのか。とたとたと不安定な足取りの私は、相澤さんにされるがままリビングへと移動して、ソファに寝かされた。熱い。寒い。そして頭が痛い。はぁはぁと呼吸は浅く荒く、口が乾いて、酸素が薄い。
「俺のヒーロー名、分かりますか」
 相澤さんは、私と目線を合わせるようにソファの前でしゃがみ、意図のわからない質問をしてきた。私は相澤さんのように隣人のプライベートを探ったりしない。だから、彼のヒーローネームなんて、与えられていない情報を知っているわけがない。
「いえ……」
「イレイザーヘッドです」
 初めて聞く名前だと思った。
「イレイザー、ヘッド……」
 ぽつりと無意識に復唱する。相澤さんは、そう、と頷いて、それから汗ばんだ私の額に手を当てた。怖いはずなのに、外から来た彼の冷えた手は気持ちよくてうっとり目を閉じてしまう。
「俺の個性=A知ってますか」
 イレイザーベッドの個性。そんなの。
「まっしょう……。え……?」
 よく作る料理の名前のように、するりと口から出た言葉。でも、私がそれを知ってるわけがない。知っているわけがない個性≠ェ、どうして。混乱と同時に、激化する頭痛に頭を抑えて体を丸める。
「あってますよ。抹消」
「なんで……っ、ぅ」
 労わるように肩を摩る手が優しい。相澤さんの声は落ち着いていて、私のこの状態を見ても少しも慌ててなんかいなくて、まるで、全てわかっていたんじゃないかというほど穏やかで。
 痛みと共にチカチカと星が瞬く。意識が徐々に世界から離れようとしているのがわかる。
「――」
 あぁ、幻聴じゃない。相澤さんは私の名前を呼んでいる。苗字でもサン付けでもなく、ただ名前を呼び捨てで。
 私を呼んだ薄い唇がきゅっと閉じて、喉仏がこくりと上下する。真っ直ぐに私を見つめる瞳は少し潤んでいて、悲しそうに歪んだ眉の根元が深く皺を刻んでいる。ほとんど瞼は開かなくて、なのに一瞬見えたその光景が持つふんだんな情報が私に淀みなく浸透してくる。何が何だかわからないのに、目から自然と涙が流れて、こめかみを濡らす。
 相澤さんが、小さく息を吸ったのが聞こえた。私はそれを聞き届けなければいけない気がして、落ちそうな意識を彼に向けた。
「俺は……俺は、あなたの恋人で、婚約者だったんだ」
 なにを、なんで、どうして。そんなわけない。何も覚えていない。嘘だ、と突き放したいのに、そんな事言えないくらい彼の声は切実で、まるで、泣いているようだった。
「……無理させて悪かった。怖がらせて悪かった。最後に、どうしても……」
「あいざ、さん」
 ガンガン響く痛みが、私をこの時間から追い出そうとしてくる。渦巻いた感情が、痛みが、どろどろに溶けて溺れそう。平衡感覚を失って、泥の中を漂うように体が重く、思考がままならない。
「俺を忘れてくれ」
 ねぇ、どうして。
 抵抗できない強烈な力が私の意識を闇に引っ張る。最後に、必死にまつげを震わせて見上げた彼の顔は、ひどく切なそうに歪んで、だけど愛に満ちて微笑んでいた。
「世界で一番、愛してるよ」
 あぁ――。
 あるはずのない記憶。相澤さんが「一度しか言わないからな」と照れくさそうに頬を染めている姿が一瞬だけ脳裏に過った気がした。痛みと共に、瞼の裏でキラキラと光が弾ける。
 私はこの愛の囁きを、知っている。この胸に切なく輝く幸福を、知っている。
「う、ぅ……」
「もう、お隣さんは終わりにするよ。大丈夫、おまえは俺がいなくても……」
 相澤さんの大きな手が、私の頬を包む。遠のく意識の中、彼の吐息がすぐそこに迫るのを感じた。
「もし目覚めても、俺のことを、今日のことを覚えていたら……クリスマス、あの店に来て欲しい」
 唇が触れ合う。
 大切な、大切な、宝物のような一瞬の切り抜きが、懐かしくて嬉しい気持ちが、あるはずない過去から甦った、ような、不思議な感覚に沈みながら。
 お隣さんは、――。
 私の意識は、ぷつんと途切れた。

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