冷え切ったココアに溺れて



 最悪とは正にこの事。
 閉店業務を終えての帰り道。息も白む寒さの中、大粒の雨に降られた。今日に限って天気予報を確認し忘れて、傘は家に置いてきた。慌てて駆け込んだコンビニでも売り切れ。しかも、何も無い道で派手に転んでトートバッグの中身をぶちまけるなどして、一人でかき集めている最中は泣きそうだった。膝までド派手に濡れて、コートは雨を吸い込んで重くなり、指先は痛いほど凍えている。
 そして、ぶるぶる震えながら辿り着いたマンション。水の跡をぼたぼた残しながら、あと少し、あと少し、と自分を奮い立たせて登った四階までの階段。やっと辿り着いた部屋の前。かじかむ指で鞄を探り、絶望した。
 鍵が無い。
 泣きっ面に蜂。しかも蜂が集団で来てる勢い。もう、どうしよう。ガチガチ歯が鳴って、鼻の奥がツンと熱くなって、涙がじわじわ溜まってきた。泣くもんか。泣いたってどうにもならないのだから。唇を噛んで、溢れそうな涙を拭ったその瞬間、隣のドアがガチャリと開いた。
「あ」
 ズビ、と鼻をすすった私を見つめる三白眼は、今まで見たことないくらい丸くなっている。
「なに、やってるんですか、んなずぶ濡れで」
 心配のキャパを超えて怒ったようなその口調に、喉がきゅっと細くなる。頑張って笑顔を作ってみたけれど、見るに堪えない出来栄えだろう。
「か、かさ、忘れて……鍵、落としちゃった、みたいで」
 あぁ、無理。説明しただけなのに、ぷつりと何かが切れてはらはら涙が溢れてきた。化粧もボロボロだろうし、髪だって張り付いてみっともない。天気予報を見なかった間抜けで、転んだドジっぷりも丸わかり。自業自得のくせに大の大人が泣き出してしまう恥ずかしさで、もうぐちゃぐちゃな気分だ。
「探してきますから、上がっていてください」
 相澤さんは、部屋のドアを大きく開けて、濡れた袖を引く。
「でもっ」
「この寒さでその格好で、放っておけるわけないでしょうが」
 そりゃそうだ、相澤さんはヒーローだもの。お隣さんが困っていたらスルーなんかできない。涙を見せるなんて、助けろって強要してるようなもんだ。
 あまりの寒さに全身の筋肉が強張り、意思に反して、うぅ、と声が漏れる。
「いっ、しょに……」
 せめて一緒に探しに行くと言おうとした私を、相澤さんは強い口調で遮った。
「いいから、まず、入りましょうか」
「ハイ」
 有無を言わせない、これ以上ここで時間を無駄にさせるな、と言わんばかりの語勢。
 ずるずる水を引きずるように玄関に上がると、相澤さんはさっと室内からタオルを持ってきてくれた。
「これ、洗いたてなので使ってください」
「すびばせん……ありがとうございます」
 霜焼けて赤くなった手で受け取る。純白のタオルがふわふわしてて、それだけでまた涙が溢れた。誰か助けてって思った時に相澤さんが現れた。優しくされてる。むり。
「どこで転んだんですか」
 頭からタオルを被って、涙と一緒に髪を拭かせていただく。白くなった視界の向こうから、まるで迷子の子どもを宥めるような声が優しく聞き取りをしてくれる。
「ここから一番近い信号です、こっちに渡って、すぐのとこで躓いて……たぶん、その時に落としたんです」
「わかりました」
 その言葉と共に、ぽん、と頭に手が乗った。タオル越しの重さが私を安心させる。大丈夫だよと語るヒーローの手が、ぽんぽんと頭を二回撫でて離れた。涙脆さが限界の私は、タオルの中でぎゅうっと唇を噛む。好きになっちゃう。好きだけど。
「鍵探してきますんで、風呂であったまっててください。ちょうど今用意できたとこなんで」
 相澤さんちのお風呂に?
「いや、そんな、そこまでは」
 ぶんぶん首を振ったら髪から水滴が飛び散って、相澤さんが顔を顰めた。う、と停止して黙る私に、彼は大きなため息をつく。
「なら、せめて着替えてください」
 着替えをせよと。確かに、ずぶ濡れは寒いし、気持ち悪いので着替えたい。でも、着替えがない。まさか、あ、あい、相澤さんの服を、借りるなんて私たちまだそんな関係じゃないし。
「着替えたいのは山々ですが……着替えがないので……」
 タオルを頭巾のように被り俯くと、相澤さんはまた部屋の奥へ消えて、程なくして玄関に戻ってきた。その手には、もう一枚新たなタオルと、透明な袋に綺麗に包まれたルームウェアが。
「着替えはこれしかないんですが、どうぞ。新品なので」
 ピンク色のそれは明らかに女性用のもの。しかも、誰でも知ってるブランドの。安くはないやつ。
 凍えた体より、体のもっと奥の奥がぎゅっと寒くなった。
 これは忘れられない彼女のものだったんじゃない? 写真だけじゃなく、服も保管されていたのだ。相澤さんは私が思っているよりずっと、過去の彼女に囚われているのではと。
「き、きれません」
 あっさり人に差し出していいものなのか。タオルじゃあるまいし、このルームウェアは、きっと私が触れて上書きしていい思い出じゃない。
「……デートの前に風邪ひかれたら困るんですよ、こっちは」
「そ……」
 それは、相澤さんの優しい理由付けだ。
 彼は、袋に入ったそれを脱衣所に置くと、狭い玄関で私を追い詰めるように迫ってきて、ブーツに足を突っ込んだ。間近の彼の肩が濡れないように、私は身を縮こめる。
「俺の着古した服よりマシでしょう。コンビニ寄ってくるんで、少し時間かかりますから。せめてシャワーで暖まって、俺がいないうちに着替えてください」
 相澤さんはそう言い切ると、私の返事を待たずに、傘を引っ掴んでさっと外へ出て行ってしまった。
 バタンと扉が閉まる。ご丁寧に施錠までされて、足音はすぐに遠ざかって消えた。
 この格好のまま待っていたら怒られる気がする。彼の言う通り、風邪をひいてしまうのは良くない。
 私は、濡れた足を靴から抜いて、恐る恐るフローリングを踏んだ。脱衣所のドアまでは数歩。余計な物のない脱衣スペースの、ドラム式洗濯機の上に、例のルームウェアが置かれている。パステルなピンクはこの空間で完全に異分子。なぜ新品のまま相澤さんが所持していたのか、それはもう聞く勇気がない。恐らくは何かしら曰くのあるこれを、着る、しかない。
 水分を含んで張り付く服を、一枚一枚脱ぎ捨てる。相澤さんはいないけれど、彼の部屋で裸になるのは、どうしようもなく落ち着かない気持ちになった。コートの中までは染みなかったので、ブラとパンツは無事。それだけが救いだ。
 この新品のルームウェアに袖を通すのに、この汚れた体のままではいけない気がする。浴室は私の部屋と全く同じユニットバスだけど、置いてあるのは石鹸とリンスインシャンプーだけで、やはりここが相澤さんの部屋なのだと実感する。お湯が張られた湯船は無視して、シャワーだけ借りることにした。
 ザア、と浴室に水音が響く。雨は不快だけど、シャワーの暑いお湯が肌を撫でていくのは心地いい。
 どうして相澤さんはお風呂が沸いたタイミングでわざわざ出かけたんだろう。私が帰ってきたのがわかって顔を出した、という可能性も捨てきれないけれど、いやいや、私は相澤さんを信じることにしたのだから。
 冷えた体は徐々に強張りが解けて、じんじんと末端の血流が巡るのを感じる。震えは、いつの間にか止まっていた。
 お風呂のドアを少しだけ開けて聞き耳を立てる。相澤さんが帰ってきた様子はなさそうで、私はそわそわとマットに上がり、新しいタオルで身体を拭き上げて、あのルームウェアの封を開けた。
 もふっと柔らかくって、もこもこのぬくぬくで、抜群に着心地がいい。お値段がするだけある。
 相澤さんが良いと言ったのだから、遠慮せず着ていいのだ。それを免罪符に、けれど私の決断にはもっとどす黒い感情が影響していた。
 過去の彼女より、私を優先してくれたのだ、と。これを着ることのできない存在に、これを着ることで打ち勝てるような、優越感に浸れるような。そんな卑しい発想でこのふわもこの感触を肌に纏ったのだ。
 かちゃ、と脱衣所のドアを開け静まり返った廊下へ出る。玄関にまだ相澤さんの靴は無い。
 とりあえず、濡れた廊下を拭いておかなくちゃ。そう思って、しゃがんで床を拭いていると、ツウっと鼻水が出てきた。
 家主がいないのに申し訳ないと思いながら、ティッシュを一枚拝借させていただこうとリビングへ向かう。
 必要最低限しか物がない殺風景な部屋は、電気が点いていなくて薄暗いせいか、以前来た時より無機質で冷たい雰囲気を漂わせている。でも、廊下からの明かりが四角く伸びていて、ティッシュを探せないほど暗くはない。きょろきょろ見回すと、リビングの隅のデスクの上にボックスティッシュを発見した。勝手にすみません、と心の中で謝りながら、光の境界を超えて影に入る。デスクの前で、ティッシュを一枚抜き取って鼻水をかむ。
 スッキリした鼻から、すんと部屋の匂いを吸い込んで、深呼吸して、私は。
 魔が、さしたのだ。
 ティッシュのすぐそばにある、写真立て。それは今日も伏せられて、何か写っているのか見られはしない。
 どうしても、我慢できないほど気になったのかと言われたら、そうじゃない。けれど、今私が身に纏っているこの服を着るはずだった女性が、いったいどんな人物なのか、私とどう似ているのか、ずっと気になっていたのは事実。
 まるで、禁断に魅了されたかのように手が伸びていた。
 木製のフレームに指先が触れる。
 私は、机に突っ伏したそれを、ゆっくりと起こす。
 ガチャ。
「っ」
「鍵、ありましたよ。着替え終わってますか」
「はいっ」
 脊髄反射で写真立てを元に戻す。
 玄関で私の返事を待ってから靴を脱いだ彼は、左右違う足音を鳴らしながらリビングへ真っ直ぐに歩いてくる。
 相澤さんの影が先にリビングに入って、それから明かりの中に、コンビニ袋をぶら下げた姿が見えた。逆光でよく見えない表情は、少し驚いているような、顰めっ面なような。
「あ、シャワー、お借りました。あの、服も……。鼻水出ちゃって、ティッシュ貰いました、勝手にすみません」
「いや、全然、何枚でもどうぞ。電気くらいつけてよかったんですよ」
 パチン、と部屋が明るくなる。相澤さんは、私の前まで歩いてきて「はい」と鍵を渡してくれた。
「ありがとうございます! 本当に、ご迷惑おかけしてばかりですみません」
「いいえ」
 私は、この目の前にいる男が、憧れの相澤さんとは別の生き物のように感じられて、一刻も早くこの部屋から去りたかった。
 濡れた服などをまとめてビニール袋に詰め込んで、玄関に放置していたバッグも持って、相澤さんに見送られて。お礼と謝罪を繰り返し伝えてぺこぺこへらへらしながら、逃げるように部屋を後にした。
「髪、乾かしてから寝てくださいね」
 そう優しく声をかけ、最後に温かい缶ココアまで持たせてくれた。だというのに、そこまで私に良くしてくれた彼を、今までと同じ目で見られない。
 まだ、頭が混乱していて、うまく受け止められない。理解ができなくて、ただ怖くて、部屋に戻ってすぐにルームウェアを脱ぎ捨ててお風呂に直行した。
 信じられなかった。彼の、今までの振る舞いも全て、やっぱり疑惑が正解で、相性の良さも計られたものだったんだろうか。
 お風呂から上がると、玄関に放置していたココアはすっかり冷め切っていた。このひとつの親切も、全て、その裏に別の目的がちらついているように思えて悲しい。
 お隣さんは、私の写真を持っていた。

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