数量限定オードブルより難しい予約

 
 冬は月が澄んで見える。あんなに遠くの月がくっきりと見えるのに、私の心は濁っていて、自分でもその輪郭を認識できない。
 仕事帰りの道。ちょうど半分のお月様を見上げて、肺いっぱいに冷えた空気を吸い込む。白い息、街灯、電線、下限の月。相澤さんに似合いそうな綺麗な闇。
 あぁ、また。彼のことを考えている。日常の思考のあちこちに相澤さんが登場して、そのたびにきゅうっと胸が締め付けられる。
 相澤さんは、あの日、一緒にパンを買って家まで送ってくれた。「また動けなくなりそうなら連絡をください」と彼がスマホを取り出したので、ヒーローらしい配慮からのごくごく自然な流れで連絡先を交換した。
 トークアプリに一人増えたフレンド。初期設定から弄られてないデフォルトのアイコンは味気ない。それが、外見に頓着のない彼を表しているみたいでむしろ良い。その隣に『相澤消太』とフルネームが表示されているところも、真面目で律儀で尊い。
 トーク画面には『体調はどうですか』『大丈夫です。お世話になりました』という一往復のやり取りだけ残っている。私はそこに『お礼にまたご飯を食べに来ませんか』を送るか迷って、迷って、もう一週間近く経ってしまった。
 彼の名前が私の手のひらの中にあることにフフフとニヤけたりしながら、あの日の彼の言動を反芻したりして、浮ついたり迷子になったり、私の恋は迷走中。
 情緒不安定だ。好き。でも相澤さんは過去に囚われている。彼をもっと知りたい。叶わない想いならやめたい。繋がりが嬉しい。なのに苦しい。仲良くなりたい。これ以上好きになったら戻れない。もう、手遅れじゃない?
 相澤さんのことしか考えていないのに、気分の高低差が激しくて自分でもびっくりしてしまう。好きだと思った次の瞬間に、でもダメだぁ、ってなる。ブーツの硬い足音が弱々しくなって、風景の流れる速度が遅くなる。はぁ、と恋の患いが白い息になって口から漏れた。
 不意に、コートのポケットの中で握りしめていた端末がブーブー小刻みに震えはじめた。パッと光った画面には、相澤さんの名前。その表示はメッセージではなく、音声での通話を要求している。
「こんばんはっ」
 慌ててロックを解除して、鼻息荒く飛び出した挨拶が恥ずかしい。ちょっと沈みかけた気持ちは瞬く間に急浮上して、ぶわっと心が弾け飛びそうになる。
『こんばんは』
 端末から流れた彼の声が、耳孔いっぱいに響く。対面しているときより近くて、小さなリップ音まで聞こえてしまう、遠いのにダイレクトな距離。私の体は熱を生み出して、湯気が出ちゃいそう。
「あの、なにか」
『振り向いてみてください』
「え……?」
 まさか、そんな少女漫画みたいな展開が。足を止めて、くるり、今来た道を振り返る。
 するとすぐ後ろに――じゃなくて、やや向こうに真っ黒の影が見えた。
「相澤さん、黒すぎですね……」
 ゆったりとこちらへ近づいてきた影が、どうも、と挨拶するように軽く手を振る。街灯の光が強く落ちる範囲に入ると、ようやくその顔まではっきりと認識できた。仕事柄それが正解なんだと思うけど、あまりに闇に溶け込んでいておもしろい。
「すごい、忍者みたいですね」
『さっきから後ろにいたんですけど、このままだと尾けてるみたいで……。隣を歩いてよかったら、一緒に帰りませんか』
 確かに、声をかけるにも自然と追いつくにも離れすぎた微妙な遠さ。ずうっと私の後ろ姿を見ながら歩いていたら、予期せぬ不安を煽りそうだと気を遣ってくれたのだろう。
「ふふ。ぜひ。夜道も安心安全ですね」
 なんてったってヒーロー。
『それにね、あなたにお願いがあるんです』
 電話から聞こえる声と、私に追いついた相澤さんの生の声が重なる。
「お願い、ですか?」
 ぷつん、と目の前で切られた通話。相澤さんの手はスマホと一緒に突っ込んだきり、ポケットから出てこないで、私たちは横に並んで歩き始めた。
 すたすた、コツコツ、足音のリズムは私に合わせてくれている。お願いって何だろう。気になってソワソワする私にふられたのは、どこか余所余所しい季節の話題だった。
「もう十二月ですね」
「ですね。一年が早すぎてびっくりします」
「駅前の……イルミネーション、見ましたか」
「見ました! 今年は派手ですね」
「えぇ……。……今夜はずいぶん寒いですね」
「そうですね。寒いと月が綺麗に見えますよね」
 どうしたんだろう相澤さん。薄い雲のかかった月のように曖昧で、目的地を横目にうろうろしているような、核心に触れない会話にもどかしさを感じる。チラリとお隣の顔を見上げてみたけど、見えたのは長い前髪とアイパッチ。口元だって布で隠れていて、彼の気分は感じ取れない。
「この前の、大丈夫でしたか。体調は」
「はい。すっかりもう元気いっぱいです。ご迷惑をおかけしました。何かお礼したいと思っていたんです」
「お礼……そうですね。じゃあ、お礼に、お願いをきいてもらえますか」
 淡々と、いつも通りの穏やかな口調なのに、かしこまった前置きから緊張が伝わってくる。朝晩歩く通勤路がやけに長く感じて、いつのまにか歩くテンポが落ちていたことに気がついた。
「なんでしょうか……私でも出来ることなら何なりと」
 無理難題を言う人ではないと思うけど、彼のそこはかとない緊張に当てられて、わたしまで真面目な顔で彼を伺う。相澤さんは一度静かで深い呼吸をして、それから意を決したように切り出した。
「単刀直入に言いますが」
「はい……!」
「デートしてくれませんか」
「デー……はい?」
 デート? デートって言いました? 二人で出かけるってこと? それがお礼になる意味も、それをお願いされる経緯も何もわからない。
「よく考えたんですけど、俺はあなたが好きみたいなので、試しにデートしませんか」
 なーるほど、相澤さんは私が好き。へぇ。補足情報のはずがむしろ混乱招いている。
「……ごめんなさい、ちょっと理解が追いつかないんですが」
 処理落ちしそうになりながら彼を見上げると、やっぱり表情は見えない。もしや計算で私の左にいる? 恥ずかしいから顔が見えにくいようにこっちに立ってる?
 でも待って、私、諦めようとしてたはず。ちょっと引き止められた気もするけど、そもそも相澤さんが、忘れられない彼女がいるから私が辛くなるって言ったからで、それはどうなったのだろう。彼女を忘れるほど私の存在が彼の心を占拠したとは思えない。なのに突然好きとか、デートとか、どうして。
「ダメですか?」
「や、あ、ダメじゃないですけど……」
 その質問はずるい。だってそんな、打たれ強そうな髭面でシュンとした顔をして、長身は猫背に縮こめて、弱々しくお願いされたら勝てるわけない。こういうタイミングでわざわざ顔がちゃんと見えるようにこっちを向くんだから、絶対絶対わかってやってる。
 しかも、そこから彼の畳み掛けが始まる。
「よかった。ではクリスマスに」
「クリスマス
「オードブルの販売で忙しいのはイブまででしょう」
「なぜ知ってるんですか」
「チラシ貰ったんで」
 確かに、クリスマスオードブルのチラシを配っているし、引き渡しは二十四日。二十五日は定休日じゃないけどお休みだ。会話の展開に合わせるように、歩みもスタスタと軽快さを取り戻す。
「二十五日の夜、時間開けておいてください」
「急展開すぎませんか? 私、辛くなるって言われて、諦めようとしてて、それで」
 さんざん私の気持ちを翻弄したくせに、簡単に流されてなどやるものか、と彼の気持ちをを追及する。相澤さんは、確かに、と頷いて、でも、と続けた。
「諦めるのは無理そうですよね」
「わぁ、う、や、そうですけど」
 その自信はどこから? でも事実、私も四六時中事あるごとに相澤さんのことを思い出しているのだから、否定できない。
「この前のお礼ってことで、食事だけでもいいんで」
「デートがお礼になりますか? あっ、私に奢らせてくれるなら」
「それでは好き勝手注文できないんで、割り勘にしましょう。店は俺が決めます」
「ありがとう、ございます?」
 押して引いて、うまいことやり込められた感が拭えない。
「クリスマスといえば、何が食べたいですか」
 でも、戸惑っていた気持ちはどこへやら。食欲を刺激されたら弱い。質問に対して素直に、何かなぁと首を傾げて、もう頭の中にはベリーメリークリスマスなテーブルが広がってキラキラと輝いている。クリスマスメニューの定番といえば、やっぱりチキン。ケーキ。パイシチュー? でも私の中でクリスマスっていえば。
「「チーズフォンデュ」」
 見事に声がハモった。ハッとして足を止めて見上げると、相澤さんの目は優しく溶けて目尻を下げて、嬉しそうに私を見つめていた。
「とか、どうかって聞こうとしたんですけど。決定でよさそうだ」
 いい店知ってるので予約しておきます、と、再び歩き始めた彼に一歩遅れて動き出す。
 夜の風が、私ののぼせた頭から熱を奪っていく。街灯へ近づくと明るさは増して彼の姿がよく見えるようになるのに、反対に足元から伸びるその影はくっきりと黒を主張して、どうしてだろう、少しだけ、ざわざわと心が揺れる。
 急に地面が柔らかくなってしまったみたい。不安なのに、私と反対に彼は白い息を楽しげに弾ませた。
「やっぱり」
 ――彼女と似てる?
「気が合いますね」
 恋は盲目。視界を遮り判断を誤らせる桃色の霧は、ずぐりと足元にまとわりつく鈍色の影を無かったことにしてしまう。
「ですね。すごい、やっぱり相澤さんって、エスパーじゃないですか?」
 へへ、と笑って、半歩後ろから広い背中を見つめる。
 ずっと仄かに感じていた、けど意識の外側に追いやってあえて気に留めなかった違和感。私はまたそこから目を逸らして、冬の月と彼の横顔を見上げた。相澤さんの告白で延命された私の恋を、ここで殺すのは可哀想で。
 私が相澤さんへの気持ちを抑えようと思ったのは、きっと、元カノのせいだけじゃない。けど、でも、偶然、もしくは奇跡といわなかったら、何だっていうの。そうでしょう?
 お隣さんは、私の好みを知っているわけないんだから。

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