くらくらクロワッサンハプニング

 勝手に一人で舞い上がって、勝手に墜落した。
 そばに居なくても彼の心を離さないその女性は、どんなに魅力的な人だったんだろう。過去に思いを馳せる相澤さんの声には、熱く深い愛があった。
 勝てない。癒せない。舐め合う傷も私にはない。
 失恋をした気分を味わって感傷に浸った。浸ったけど、私は自分で思うよりドライな人間なのかもしれない。仕事中まで泣きそうな気分になることはないし、生活していくには家事だって何だってやることが多いから、悲しみに酔ってばかりもいられない。それより前向きに今後の事を考えた方が建設的でしょう。
 だって、冷静に振り返って分析してみて。
 ドキドキしちゃっていいか聞いたら『隅々まで知ってほしい』と言われ。隅々について聞いたら、『忘れられない人がいる』と返された。そもそも、デパートで声をかけてきたり、カレーを食べに来たり、おでん屋さんで隣に座ってきたり、ケーキを分けるためにわざわざお弁当屋さんにまで誘いに来たり、どの角度からどう見ても私が嫌われているとは思えない。
 迷惑ではないかは既に確認したのだ。個性≠フ乱用をキッパリ注意できる彼が、迷惑なのに迷惑と言わないでいる事は考えにくい。
 相澤さんは『忘れられない女性がいて新しい恋はしたくない』と恋愛自体を否定したわけではない。ただ単に、私が辛いのではと案じてくれていた。その背景には『お付き合いするのもやぶさかではないが、忘れられない人がいるため傷つけるかと思うと踏み切れない』というニュアンスが無いとも言い切れない。うん。つまり私が、私の向こうに誰かを見ている相澤さんを受け入れられるなら? 何も問題ないのでは。
「と、思ったりしたんです」
「急にポジティブですね」
 あれから一週間ちょっと。私は、休日の朝食にベーカリーの焼きたてクロワッサンが食べたくて、マンション近くの公園を通り抜けようとしていた。
 冬の匂いが濃くなって、キンと肺を冷やす空気が気持ちいい朝。紅葉は落ちて枯れ色の絨毯になり、ランニングコースの周囲を彩っている。それが綺麗で、ぼーっと歩いていたら正面から走ってきた相澤さんに声をかけられたのだ。早朝ランニングをしていたらしい彼は、この寒さの中、髪を束ねて首を風に晒して、あったかいのか疑問なランニングウェアで、でも少し汗ばんだ額の前髪をかき上げたりなんかして私に近づいてきた。
 わずかに乱れた呼吸と、その仕草の色気たるや、困ってしまう。レアリティの高い姿に遭遇するのは嬉しくて、あぁ完璧に好きだなぁって実感して切なくて、笑顔を貼り付けてベラベラと喋ってしまった。
「むやみやたらと想像を膨らませて考えすぎても、仕方ないことってあるじゃないですか」
「確かに」
 バカみたいにポジティブな見解は、吐き出してしまえば是も非も展開はなくて、へらりと笑う以上何も続けられなかった。明るく振る舞ってみたけど、合っているも間違っているも貰えないのはちょっと苦しい。
 コースの脇のベンチの前で座るでもなく並び、サクサクと落ち葉を踏む音で沈黙を紛らわす。相澤さんは私のポジティブな思考回路を披露されても、嬉しいとも的外れとも顔に出さない。安定の冷静な無表情でペットボトルを咥えた。ミネラルウォータを飲み干して上下する喉仏に見惚れてしまう。見過ぎちゃ悪いな、と意識的に下げた視線は今度は脚に吸い寄せられた。右足が、今日はいつもと違って、カーボンのプレートがぐにゃっと曲がった独特な形の義足になっていた。
 かっこいいなと思った。脚を失った相澤さんの気持ちに配慮していない短絡的な感想なので伝えるのは憚られるけれど。ヒーロー活動において身体的ハンディは致命的だろう。ただ、そのスポーティで動物的なバネのありそうなフォルムが、彼個人の魅力を落としているとは少しも思えなかったし、なにより彼が必死に戦った結果だと思うと讃えたいくらいだ。
 この好きは、憧れという言葉の範疇に納まらない。相澤さんの全てを受け入れたいし肯定したい。身体中の細胞ひとつひとつがきゅんとして心が弾け飛びそうなくらい、恋だと思う。でも。
「えへへ。でも、やっぱり相澤さんの言うとおり、辛くなる気がするので、ただ、あの、ファンでいさせてくださったら嬉しいです」
「……そうですか」
 ほら。人のいない公園を眺める涼しげな目元は、ぴくりともしない。私が引いても相澤さんは寂しいも悲しいも惜しいも思っちゃいない。
 諦めるのが合理的だ。
 相澤さんには今も忘れられない女性がいる。私は、そんな一途で愛情深い彼が好き。
 彼の心のベクトルは過去の女性の方へ向いていて、私の矢印と相互になることはない。私のこともしかして好いてくれてるのかな、と感じたアレもコレも、全ては私に似ている女性の面影に向けたものだった。全面的に勘違いをして一人で盛り上がっていたに過ぎない。
 そうだよ、私のような、個性もありふれていて、顔も普通でナイスバディなんかじゃなくて、仕事もバリキャリからかけ離れ、気も利かないし機転も利かない、教養も運動も何もかも普通普通の平々凡々を極めたような女に相澤さんのような教師でヒーローな人格者がどうして好意を抱くわけがあるのか。その女性に(見た目がなのか声がなのかどこが似ているか知らないけれど)似ていたからという理由で、いい夢を見させてもらった。
 私は私を納得させるための客観的理由をかき集めて、それを盾に武装する。相澤さんからほとばしる魅力にクラリと負けてしまわないように。
「俺は、嬉しかったんです」
 なのに、私の一生懸命なんて一切汲まずに、相澤さんはぽつりと呟いた。
「へ? 何がですか?」
「あなたが俺に、好意的なことが」
 鎮まれ鎮まれと抑えた箱から、蓋を押し返して感情が溢れ出す。これで、諦めさせてくれたらよかったのに。そんな風に目の前に可能性をチラつかせるなんて残酷だ。
「でも……」
 でも、それなら私を見て欲しいと思ってしまうじゃないですか。私が辛くなると思うって、そうできないって意味じゃないんですか。
 ポケットの中で手が冷えてきた。十二月を目前にした朝は、好きな人と会えても寒い。
「自分でもこの気持ちをどう解釈していいのか、わからないんです。彼女の代わりが欲しいわけじゃない。ただ、あなたといると、時々ひどく懐かしくなって、過去を思い出してしまうのも事実です」
「……似てるから、ですか」
 相澤さんは、ひどく寂しそうに微笑んで、そうですね、と俯いた。
 私が、憧れと恋の境界がわからなくなったように、相澤さんは懐かしさと恋の境界で迷っているのかもしれない。
 大切な人を失ったことも、その女性を忘れられないことも、彼を責められはしない。一途で思い出を大切にする相澤さんのことは、好きだと思う。でも、私の立場は? どういう気持ちで、彼がその感情に名前をつけるのを待てばいいんだろう。期待してしまう。期待してしまってその後で、やっぱり過去の彼女と違う所がいっぱいで『おまえじゃない』ってなる可能性だってあるわけで。なら、これ以上知られたくない。私を通して過去を見るのも、愛おしさを抱くのも、恋愛関係じゃないなら勝手にしていい。私だって勝手にファンとして心の中はきゃーきゃーさせてもらっていたもの。適度な距離感の普通の隣人でいてくれた方が楽なのに。
「ずるいじゃないですか、そんなの」
「悪いと思っています」
 心がぐちゃぐちゃして、これ以上複雑な思考は無理。決別した恋をもう一度手に戻されても、成就する見込みのないそれをどう扱ったらいいのかわからない。考えても仕方ないなら、考えるのをやめてしまいたい。
 相澤さんは、まっすぐに私を見つめた。
 切なく細めた目に、揺れる感情を訴える瞳に、目を奪われて動けない。投げやりな気持ちが凪いで、冷たい風がざあっと枯葉を攫うように撫でる。
「時々、一緒に美味しいものを食べませんか。俺は――」
 ピピピピピ、と突然に響いた電子音で、二人の空気は引き裂かれた。
 はっとしてポケットに手を突っ込んだ彼は、流れるような動作で着信を受ける。耳に当てた端末からは、やたらとハイテンションな挨拶が漏れ聞こえていた。あぁ、とか、それでいい、とか電話の向こうと会話が始まった様子。
 宙ぶらりんなのは百も承知だけれど、今はもうクロワッサンのことだけ考えていたい。私の恋の行方をどうするかなんて答えは、今すぐ出す必要なんてない。一旦保留。
「私、あの、失礼しますね」
 小声でそう伝えて、じゃあまた、とパン屋さんへ向かおうと歩き出す。その一歩目が出たところで、即座に後ろからコートの裾を引かれた。
「待ってください」
「でも、電話」
『わお、しょーたァ! まさかお邪魔だったか?』
 通話口から漏れた声が、ハイレディ、邪魔してごめんな、とフランクに話しかけてきた。
「わかってんなら邪魔するな。邪魔だから切るぞ」
 相澤さんは想像の遥か上をいく塩対応で、シヴィー! と叫ぶ声はぶつりと問答無用で切られてしまった。相澤さん友達にこんな感じなんだ。新たな一面が見られて嬉しい。嬉しいけど、それ以上に嬉しい新情報が聞こえた。
 名前、しょうたっていうんだ。
 しょうた。あいざわしょうた。
 そういえば私は、相澤さんの下の名前すら知らなかった。過去の忘れられない別れも、名前も、知らない事だらけなのに好きなの。
 あいざわしょうた。
 これ以上相澤さんにぴったりな名前なんてないというくらい、その苗字と名前はしっくり馴染む。不思議と声に出して呼びたくなる。
「しょーた……」
「は」
 相澤さんは端末を操作してた手を止めて、ぱっと私を見つめた。
「っていうんですね。下の名前」
 驚きでいつもより開いていた目が、あぁ、と半眼に戻る。
 背の高い彼を見上げるその向こうで太陽が輝いて、朝日のカケラがまつ毛の先で弾けた。同時に、ズキンと頭が痛む。
「そうです。相澤消太です。あなたは――」
 相澤さんが何を質問したのか、聞こえているはずなのに理解できなかった。
 チカチカと光が増えて、ズキズキと頭痛が頭蓋に響く。脳が鼓動してるような痛みに目が開けられなくて、瞼を閉じた視界は黒いのにもやもやとして、頭を抱えるように抑えたところで平衡感覚がぐにゃりと歪んだ。
「おい、どうした」
 緊迫感のある声に、心配しないで、と笑顔を作ろうとして失敗した。無駄に焦らせてしまって申し訳なくなる。
 たまにある症状だ。避難時に頭を打った後遺症で、発作的に頭痛が起きて意識が保てなくなる。気圧だとか、ストレスとか、体調によって、良くない状態が重なると起こるらしい。
「すみません、すぐ治ります、から」
 なんて説得力のないへろへろさ。
 すぐ治るなんて言った直後に、ふらりと脚が前か後ろかによろけて、相澤さんに抱き止められた気がする。あぁダメだ。ぐらぐらするのが止まらない。大丈夫ですか、とかけられる声が遠い。
 一瞬だけ、眠ってしまったかも知れない。そう思っては、また暗闇に意識が沈むのを、何度か繰り返したと思う。
 逞しい腕に抱かれてぐらりと横転する感覚、ベンチの硬さが頭痛を酷くさせたかと思えば、すぐに心地良くなって、冬枯れの枝先に太陽が煌めく光景、相澤さんの低くて心地よい声と何か短い会話をしたような、断片的に記憶に残っている。夢は暗転、朦朧とした現実が次第に身体の感覚を通して帰ってくる。
 重力を感じる。私は横になっている。それは分かる。どこにいるんだろう。
 薄目を開けると、抜けるような青をバックに相澤さんが私を覗き込んでいた。
「……落ち着きましたか」
「……え……」
 ぼんやりと見つめた無精髭。黒のアイパッチ、はみ出す傷跡。背中に感じる木製ベンチの硬さと、後頭部に感じる引き締まった太ももの感触。
 ひざまくら。ひざまくら? ひざまくら!
「あ、ごめんなさ、ぅ」
「急に動くな」
 起きようと手をぱたつかせ頭を浮かせたら、テシッとおでこに手が降ってきて阻止された。あったかい。手のひらが、おでこで熱でも測るようにくっついている。
 こんな、ふ、触れ合い! ぼんやりしてる場合じゃない。というか一気に覚醒してスッキリしてる気がする。
「いえもう、あの、おさまってきたので……」
 まだ少しぐらぐらするけどガンガン響くような痛みはないし、大丈夫。それよりもう早く手をよけて、この膝枕から解放してほしい。頭より心臓がヤバい。
「熱っぽいですか?」
「そ、それは相澤さんのせい……」
「……元気になったみたいですね」
 相澤さんの少し硬くて乾燥ぎみな皮膚が、おでこを優しく撫でた。ふわり、するり。私を見下ろすその顔は、安堵と慈しみを混ぜたような表情で、私は、木枯らしが彼の後毛を揺らすのを呆然と眺めていた。
 胸がいっぱいとか言葉が出ないとか、そういう状態。落ち葉が風に吹かれて地面を転がっていく乾いた音だけが、二人の間に流れていた。
 相澤さんが今も私の向こうに過去の彼女を見ているのかもしれないと思うと、慈愛に満ちた眼差しにもぎゅっと心を締め付けられる。なのに、膝枕で高鳴る鼓動も熱くなる顔も、誤魔化せない恋を表している。私が、相澤さんの過去ごとまるっと全部好きになっちゃえばいい、私が気に病まないならいいじゃん。と、ポジティブになってみても、いざ優しくされると、それが本当に私に向けられたものか疑って、心がくるくる忙しなく表情を変える。好きだけど、好きだから、割り切れない。
 加えて、相澤さんの気持ちが私をただのお隣さんに戻らせてくれない。
 中途半端でもやもやしたままだけど、少し休むと頭痛はすっかり良くなった。心配しなくて大丈夫です、とパン屋に行く事を諦めない私に、相澤さんは厳しい顔をして首を振った。どうにか帰らせようとしてきたけど、絶対クロワッサン食べたいんですと抵抗したら、諦めたようにパン屋へ同行してくれた。そこまでしなくても、放っておいてくれたら良かったのに。好きが加速しちゃうから。
 しかも相澤さんもパンを買って二人で帰宅。まるでデートみたいになっちゃった。部屋が隣りなだけだけど、きっちりドアまで見送って「念の為病院へ」なんて促しも忘れないヒーローぶり。
 私は一人でクロワッサンを食べながら、さっきの事を思い出す。
 頭痛に朦朧としている間、救急車を、なんて言われて、ちょっと休めば治るとか、そんな会話をしたような、してないような。そんな曖昧な記憶だから、確かな事なんて何も無い。
 だから、たぶん、横になってたその最中、教えたことのない下の名前を呼ばれた気がしたのは、私お得意のポジティブな妄想だと思う。
 お隣さんは、諦めさせてくれない、ずるいひと。

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