チョコレートケーキの甘さは毒のように


 あれから数日。
 お弁当屋さんに、相澤さんが来た。
 閉店間近じゃなくて、混雑するランチタイムに。やっとたくさんの惣菜が並ぶ様子を見てもらえて嬉しくて、あれもこれもオススメしてしまった。彼は、生姜焼きと山盛りキャベツのお弁当を購入して、会計の時に「ケーキをもらったので一緒に食べませんか。今夜待ってます」と、言ったのだ。言い逃げというやつだ。返事をする前に彼は消えて、次のお客様が注文を始めてしまって、私はなんとか接客スマイルを貼り付けて終日の業務を終えた、わけだけど。
 結果、レジ締めで四十円の誤差が出た。
 完全に相澤さんに心を乱されている。仕事に影響が出るなんて社会人として失格だ。こんなんじゃダメ。ダメだけど、オーナーも面白がっていじってくるものだから、今夜の約束を頭から消せる時間なんて一瞬もなかった。
 どっと疲れた気がする、けど逆にちっとも疲れていない気もする。
 お裾分けします、とかじゃなくて、わざわざ『一緒に食べませんか』と彼は言ったのだ。胸の高鳴りをカミングアウトして、そしてこのお誘いはどういう意味なのか。隅々まで、とは、いったい彼の何を教えてくれるのだろうか。それとも、酔ったせいで思ってもない事を言ったと撤回されるのだろうか。
 私たちは連絡先の交換なんてしていないので、一方的な約束を断ることもできなければ、部屋をノックするタイミングも分からない。帰宅してから一応シャワーを浴びたりしてみた。シャワーしたのは変な事を期待してるってわけじゃなく、仕事の後だからマナーとして。もちろん。それだけ。
 気合いが入っていると思われないような、けどラフすぎない、ちょうどいい塩梅の服を一生懸命選んで、相澤さんが帰宅しているか耳を澄ませてみたりして。
 窓も開けない季節になると、防音のしっかりしたこのマンションで相澤さんの気配は微細すぎて拾えない。
 ええい。これ以上遅い時間になってもどんどん難易度が上がるだけだ。無言ですっぽかすなんてできないもの。
 ドアを開けて、静かな廊下をきょろきょろ見渡す。廊下に出て、意味もなく忍び脚で相澤さんの部屋のドアの前を一度通り過ぎて、深呼吸して、そして、人差し指にありったけの勇気を込めて、呼び鈴のボタンを押した。
 軽い電子音を響かせ、それは確かに家主を読んだはずだ。が、無音。無返答。無反応。
「あれ……?」
 少し待ってみても、物音ひとつしない。空振った気合いがしおしおと萎んでいく。しかも、よく考えてみたら手ぶらだし、ただただケーキを貰いに来たがめつい女になっている。冷静にきっちり準備してきたつもりが、まったく全然平常心を保てていなかった。
 きっとまだ帰宅していないのだ。一旦部屋に戻って出直そう、と決意したその瞬間。
「来てくれたんですね」
「わっ」
 相澤さんは部屋からじゃなくて、階段から現れた。なんで足音に気が付かなかったのか、びくっと跳ねた肩が大袈裟すぎて恥ずかしい。
「こんばんは、お疲れ様です」
「待たせましたか。少しだけ上がってください。って気で誘ったんですけど、どうしますか。もう遅いので渡すだけでも……」
 相澤さんは鍵を取り出して、ガチャリとドアを開けた。
 よそのお宅の香りがふわりと鼻先を掠める。この扉の先は、あまりにプライベートでパーソナルな空間。相澤さんの部屋。未知の片鱗に触れると興味が抑えられなくて、どうしますか、と判断を委ねられたらここで帰るのは後から後悔しそうで。それに私は、相澤さんのことを隅々まで知らないといけない、らしいので。
「おじゃま、してもいいですか」
 こんな時間だから、少しだけ。そう勇ましくお願いした私に、相澤さんはちょっとだけ口角を上げて「どーぞ」と招いてくれた。
 扉は私のために大きく開かれている。相澤さんの黒い背中を追いかけて「お邪魔します」と言った喉はそわそわして声が震えていた。あぁ、ついに、相澤さんのお部屋に足を踏み入れてしまった。
 玄関には今相澤さんが脱いだ黒のブーツと、履き古されたサンダルとスニーカー、そしてそこにひとつだけやけに小さな私のパンプスが並ぶ。
 靴下越しに感じる廊下はひんやりしている。私の部屋を左右反転しただけの間取りで、迷うこともない。同じ、なのに全く違う。リビングの電灯は備え付けの真っ白なシーリングライトそのままで、暖色系に付け替えた私の部屋の明かりに慣れていると、無機質な感じがする。そして驚きの物の少なさ。まだ未開封の段ボールも残っているし、リビングなんてカーペットもない。床に直置きのテレビ、それから真ん中にちゃぶ台、そして部屋の角に仕事机がひとつあるくらい。もう一部屋あるとはいえ、あまりに物が無さすぎる。ここで生活しているというより、潜伏生活とか張り込みでもしているんじゃないかってくらいの感じ。相澤さん個人の生活感が欠如しすぎている。ミニマリスト? 物の多い私の部屋とは方向性が百八十度違う。
「何もない部屋ですみません。座布団とか無いんで、床になっちゃいますけど。紅茶、好き嫌いありますか?」
 相澤さんはスタスタと部屋の対角へ行き机の前に立つと、そこにあったフォトフレームをパタンと伏せた。それから、スマホやら何やら、ポケットとか腰のポーチに入っていたいくつかの何かを机に置いて、首に巻いていた布も取って、スタスタと戻ってくると私の前を通り過ぎてキッチンへと入る。
「あ、いえ、お構いなく……」
「じゃあ、俺のおすすめ淹れますね」
 対面キッチンになっているから、相澤さんがお茶の準備をしている姿がちらちらと見える。よく片付いたキッチンはそもそも台所用品が少ないと見た。手際のいい作業音は静かな部屋によく響いて、やけに大きく聞こえた。
 フローリングに正座は座り心地がよろしくないけど、この空間に居られることが嬉しくてどうでもいい。
「相澤さん、紅茶好きなんですか?」
「意外ですか?」
 質問に質問で返された。
 カップにお湯を注いで、伏せたまつ毛が一瞬だけ上がって、小さな黒目が一瞬だけ私をくすぐった。
「……正直言うと……意外です」
「だろうね。イメージ通りで合ってますよ。よく俺に色々と渡してくる同僚がいて、例の如く貰いもんです。口に合わなかったら、なんか他にも、種類が色々入ってるっぽいんですけど」
「ダージリンの香りですよね? 好きです。ああ、ごめんなさい、仕事終わりにお茶を淹れさせるなんて……」
「あー……あぁ、本当だ。ダージリンって書いてありました。お湯を沸かしただけですけどね。いい感じの時に出してください」
 キッチンから出てきた彼は、部屋のど真ん中に置かれた丸いローテーブルに紅茶とケーキを運んできた。紐付きのティーバッグが浮かぶマグカップ。(ここで華奢なティーカップが出てこないところがなんとなく相澤さんらしくていいなと思った。)それからコトンと置かれた空の小皿と、チョコレートケーキと小さなナイフ。
「また意外かもしれませんが、ケーキは好きです」
「ふふ。甘いものお好きだって言ってましたもんね」
「だからってね、俺用にワンホールは多すぎだろ」
 確かに。一人で食べるには大きい、けど二人ならなんとかなりそうな絶妙なサイズ感。グラサージュの艶が美しく、その上に散らされたナッツのデコレーションに見覚えがある。この近所にあるケーキ屋さんの定番ケーキだ。そしてその真ん中には、ハッピーバースデーと書かれたプレートが乗っている。
「誕生日ケーキなんですね」
「ええ。出張に行っていた同僚がね、遅くなったけどってわざわざくれたんです」
「へぇ、すてき。仲がいいんですね」
 まぁ、と歯切れの悪い困ったような顔は、照れ隠しだということがバレバレで、相澤さんは案外わかりやすい表情をするんだなぁと思った。
「持ち帰ってもいいですから、半分は貰ってください。なま物なので協力お願いします」
「そんなに、いいんですか」
 ティーバッグを小皿によけて、指先を温めるようにマグを手で包む。掌は余すところなくじんじんと熱くなって、冷えていたはずの毛細血管まで膨張してぐるぐると血を巡らせはじめた。
 相澤さんはケーキを四つにカットすると、私の分と自分の分をお皿に取り分けた。同梱されていたらしいプラスチックの使い捨てフォークを支給されて、一緒にいただきますと手を合わせる。
 フォークは、柔らかなムースとしっとりしたビスキュイに簡単に沈んだ。最初のひとくちを口に迎えると、思わず「ん」と感嘆の声が出てしまう。
「おいしいですね。この時間にこれは、背徳感ありますが」
「共犯ですね。たまにはいいでしょう」
 ぱくり、相澤さんの一口は大きい。ぺろり、唇についたチョコレートを舐めとった舌が、無機質な白灯の下に輝いて見えた。
「実はシャンパンももらったんです」
「ん、んんん!」
 相澤さんがせっかく同僚さんから貰ったものなのに、そんなに分けてもらうのはくれた方に申し訳ない。そう思って、もぐもぐする口を押さえながら首を振ったのに、相澤さんはシレッとした顔で次の一口を切り崩す。
「それはあげませんけど」
「ええっ、な、なんで言ったんですか
 ガガーン。思わずちょっと大きな声を出したら、相澤さんは下を向いてふっと吹き出すように笑った。
「ただの自慢です」
 もー。もぉ。もお! 相澤さんがそのテンションで人を揶揄うとびっくりしちゃう。
 かーっと熱くなる顔を手でパタパタ仰いで、紅茶を啜って気分を落ち着かせる。何か反撃してみたいけど、何も思いつかない。あぁ、手のひらで弄ばれているようなのだって、嬉しいとしか思えないんだもの。
 そんなことより、ケーキが美味しい。甘くて、相澤さんは穏やかで緩んだ表情をしていて、目に焼き付けたい。フローリングに当たる脚が少し痛いことも、特に気にならない。
 だから、期待してしまうのだ。ケーキの消費に雄英の同僚さんやヒーロー仲間に声をかけず、わざわざ私のお店まできて誘ってくれたり、分けるんじゃなくて一緒に食べて、この時間に私を部屋に上げてくれる。それはお隣さんとしての関係を、少し超えているんじゃないかと。つまり、相澤さんも私に、少なからず特別な感情を抱いてくれているのではと。
「相澤さん、どうして今日……その、私に何か、お話があったんじゃないですか?」
 例えば先日の件の撤回など。ね、近づきすぎた関係を戻すなら早いほうがいいから。
 ドキドキしながら、フォークでちょいとチョコレートムースをつつく。三白眼が真正面から私をじっと見つめる。
「俺より、あなたの方が聞きたいことがあるって顔してますけど」
 ゴクリと喉が空気を飲んだ。
 聞きたいことなんて、いっぱいある。私の心を全て見透かしているような瞳は、逃げたいのに、もっと覗き込みたい危険な魅力に満ちている。もう見透かされているならば、正直になるしかないと思わせる、そんな鋭い熱が刺さってくる。
「あの、相澤さん……の、隅々って、どこまでですか」
 口に出すとなんとおかしな日本語。相澤さんは眉間に薄く皺を刻んで、薄く嫌悪の滲む訝しげな顔をした。
「隅々? ……やらしい話ですか、それ」
「なっ、ち、ちがいますっ!」
「嘘です。俺が言いましたよ。覚えてます」
「もぉー……」
 完全に弄ばれている。私だっていい大人だと思うけど、少し年上の彼の余裕は遥かに私のそれを上回っている。人生経験の差。それは確実にあるだろう。血の滲むような努力の積み重ねも、一瞬の判断で命が脅かされるような状況も、彼はきっといくつも乗り越えてきたのだから。相澤さんの前だと自分がすごく幼稚で浅い人間に思えて、背伸びしたくてたまらなくなる。そして、どうしたって敵わない、尊敬するしかない相手だと感じるたびに、更に好きだと思ってしまう。
「今日の相澤さん、意地悪じゃないですか?」
「すみません。あなたが、いつもいい反応してくれるので、つい」
 そんな『つい』がありますか。
 会話をしながらでも、どんなにゆっくり食べても、ケーキの一切れがなくなるまでにそれほど時間はかからない。相澤さんは最後の一口をお皿の上に残して、フォークを持つ手を止めた。
「緊張しているんです。俺は、今あなたにとって、少なくとも一つくらいはどこか好かれる要素があるんでしょう」
「……」
「中身を知ったら、その気持ちは変わるかもしれない。部屋だってね、こんなですよ」
 ふるふる首を横に振る。特別褒め称えるようなセンスはない、どころか家具がほぼない。相澤さんの言う隅々には、ミニマリスト的な一面も含まれるのかな。それを見せたかった?
 けれど知りたい。私は知りたい。相澤さんのことを。知らなくては、これ以上先へ進めないなら、教えてほしい。
 私は、彼より先に最後の一口を飲み込んで、紅茶で唇を潤して、マグを置くと同時に切り出した。
「教えてください。私のことも、知ってほしいです。それで、考えませんか。二人で。だって、たぶん、そういうものじゃないですか」
 恋愛って。
 そう付け加えるのは照れ臭くて、紅茶が潤してくれた効果はもう切れてしまって、乾いた喉は唾を飲む。
 ちらりと彼を見つめると、その表情は微細に変化した。顔のパーツがほんの一ミリ二ミリ動いただけ。けど、さっきまでの温度は無くなって、その表情が色を失ったように見えた。
「……俺の、隅々の、隅のうちのひとつなんですけど」
 相澤さんの声だけが寂しげな部屋に浮き上がる。空気がぴりっと引き締まって、下される宣告は良くないものだと予感して、なのに私の口は勝手に「はい」と相槌で続きを求めてしまった。
 相澤さんは、ケーキが入っていた白い箱に触れ、手慰みにその淵をなぞる。
 そして淡々と、まるで教科書でも読むかのように言った。
「忘れられない人がいるんです」
「そう、なんですか」
「あなたは、その人に、よく似ている」
 真っ逆さまに、紺色の奈落に落ちるような心地がした。ついでに猛吹雪に包まれて、重力だか磁場だかが狂って頭がぐるぐるして、冷えた雪粒が身体中を叩く痛みもあるような、そんな衝撃。
 表情を失うことすらできず微笑みがそのまま引き攣って頬に残り、見開いた目に張る涙の膜が痛みを伴って厚くなるのをじわじわ感じる。
「大切なんですね。その人が、今も」
 相澤さんは私を見ない。視線は、ケーキの最後の一口へ向いたまま、ゆっくりと黒いまつ毛を降ろした。言葉にせずともそれは肯定だった。
「幸せですね、彼女は。とても、愛されていたんですね」
 相澤さんは、頷きはしないで、眉尻を下げて泣きそうな目をして微笑んだ。逞しく無骨な彼が儚さを纏って、その過去にどれほどの愛と傷があるのかを、私は悟ってしまった。いや、私如きが悟れるような想いじゃないけれど。
 このままでは凍りついてしまいそうで、紅茶のマグカップを両手で包む。さっきみたいに掌は温まってくれなくて、ぎゅっと力を入れて密着させても、耐えられないほどの熱さはもう無くて。
「だから俺じゃ、あなたは辛くなると思います」
 聞かずとも、あの伏せられた写真立ての意味は明白だ。
 胃の中でどろりと溶けたチョコレートムースの、甘さが毒みたいに苦しい。私は無理矢理微笑んで、背筋を伸ばすことに必死で。その後相澤さんが何か言ったのによく分からないまま、私が一体何にショックを受けているのかも言語化できないまま、へらりと笑ってやり過ごす。
 相澤さんは、一切れのケーキを箱に入れると、あとは持ち帰ってどうぞと私に押しつけた。ホールケーキ用の箱に一切れは、持った時の重さがアンバランスで、崩さないように腕に抱いて隣の部屋への数メートルを帰る。
 困る。非常に。明日の朝、冷蔵庫を開けたらこの箱が視界に入って、私の心がぐらぐらしてしまうじゃないですか。
 お隣さんは、甘いのに苦い。

-BACK-



×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -