魅惑のおでん鍋を覗き込む時


「えーっと、こんにゃく! それから、大根と、はんぺんと、がんもください!」
 はいよっ、とハリのある大将の声が、さらにおんでんを美味しくする秘訣だと思う。突然に冷え込みが増して、まだ心は秋に残された冬の始まり、温もりに手を伸ばしたくなるこのタイミングで今季初お目見えのレトロなおでん屋台。お出汁のいい香りと提灯の雅な光で私を誘惑して、気づけば吸い寄せられるようにここに座っていた。
 仕事帰りの人が多いこの時間、日本人の魂には魅力的すぎる。みんなお腹空いちゃうね。ほら、またひとり。背後で暖簾の動く気配がした。
「俺も同じものを」
 耳に心地いいバリトンボイスは私の頭上を飛び越える。大将の元気な返事の後、どーも、と私の右から現れた大きな黒い躯体は。
「相澤さん!」
「こんばんは。隣いいですか」
「こん、あ、どうぞっ」
 狭いカウンターでぎゅうぎゅうに並んだ丸椅子が、相澤さんを乗せてギッと歪な音を出した。肩がぶつかりそうな距離は近すぎて、驚きも大きすぎて、横に捻ったまま首が戻らない。
 いたって普通の顔でこっちを見た相澤さんと、ど正面からバッチバチに目が合っているのに、頭の中はどうしてどうして≠ェループして完全にフリーズしてしまった。
「口、開いてますよ」
 はっとして「ん」と唇を閉じると、彼は素早く顔を背けて肩を慄わせる。
「だ、って、ビックリするじゃないですか。どうしたんですかこんな所で」
 おまち、と湯気立つお皿が二つ差し出される。相澤さんはそれを両方受け取って、ひとつを私の前に置いてくれた。つやつやでお出汁しみしみのおでんにぐうっとお腹が鳴る。寒風に靡く白い湯気が熱さを物語って、口の中に唾液が湧いてきた。
「屋台に吸い込まれていくあなたを見たんで、つい追いかけました」
 パキン、と割れた割り箸。
 変に力が入って偏った太さになってしまったんですが。相澤さん。
 心拍数上昇、血圧も上昇、思考回路はショート寸前。
 突然の相澤さんの登場で、古き良き日本の伝統おでん屋台でほっこりしに来たはずなのに、どうしてこんなドキドキタイムになっているのか。こんな時シラフではいられない。いられないですとも。
「すみません、出汁割りください。相澤さんも飲みますか?」
 はふ、と口から白い湯気を出した相澤さんが頷いたので、大将に「ふたつで!」とピースサインを向けた。
 寒空の下で食べるあつあつおでんは格別に美味しい。しみしみなら尚更。隣で機関車みたいになってる相澤さんと一緒になって、はんぺんを頬張ってはふはふする。視界が白く濁って、口の中が幸せで満たされて、最高。そうだ、薬味も欲しい。田楽味噌に柚子胡椒、辛子も置いてあるけれど、私は七味がいい。
「あ、あの、すみません、そっちにある――」
「ん」
 プロヒーローの反応速度と対応力すごい。言い切る前に目の前にトンと置かれたのは、七味の瓶。
「ありがとうございます……。え、今、七味って言おうとしたんですよ。どうしてわかったんですか?」
 味噌とか辛子の方が手が伸びそうなものなのに。相澤さんは、私が使い終わって卓に置いた小瓶の蓋を開けて、がんもにササっと振りかけた。
「俺も七味が好きだからです」
「へぇ、ふふ。エスパーなのかと思っちゃいました。そういう″個性=H みたいな」
 相澤さんはがんもにかぶりつきながら、さてね、と謎めかすように眉を上げた。
 出汁割りおまち、と私たちの間を割るようにカップが供される。おでんの汁の中で燗された熱々の日本酒は、出汁で薄く色づいてキラキラと輝いて見えた。
「わぁ、美味しそう。じゃあ、偶然の出会いに、乾杯」
 ちょこっとカップを持ち上げるだけの会釈的な乾杯。ちびちびとカップに唇をつけながら、七味を振ったおでんを味わう。喉を通してゴクリと飲み込んだ熱が、内側から臓器を温めて血の巡りを早くする。アルコールもすぐに脳まで巡って、ふわふわと適度に緊張が溶けて気持ちいい。アンバランスな割れ方の箸だって、なんだか面白くて「私割り箸へたくそすぎますね」って相澤さんに見せたりした。
 うまい、熱い、おいしい、初めて入ったのに懐かしい、レトロかわいいのに設備が最新。
 そんな、どうでもいい目の前の食事と状況への感想を喋りながら、私たちは二人ともはふはふと白い息を口から発射して、楽しい時間を過ごした。
「奢ります」
 もう帰る事になって、財布を探っていたら、相澤さんはそんなことを言って勝手にお金を払ってしまった。屋台という形態に似合わない電子決済で、ピピッと一瞬で済ませてしまった彼は、当然のように「帰りましょうか」と私の起立を促した。
「えぇ、奢ってもらうなんて、悪いですよ。私好き勝手注文しちゃったのに」
「服選びとカレーのお礼です。最初から奢るつもりで追いかけたんですけど、先に言ったら遠慮して量を控えるかと思ったので」
「策士
 パチパチ拍手をした私に、ほら、立てますか、と差し出された手。
 ぱーに開いた手のひらの大きいこと。指の太さも私とは全然違う。指の付け根のとこにタコができて、ヒーローとしての研鑽が見える。
 ドキドキ心臓がうるさくなって、手を見つめて固まってしまった。
「ドキッとするじゃないですか」
 脳で思ったことがぽろりと口から出てしまって、アルコールの恐ろしさを知る。
「じゃあ自分で立ってください」
「立てますよ。全然、酔ってないですから」
 酔っている人は大抵そう言いますけど、なんて疑われながら、私はすくっと立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
「すみません。ではご馳走になります。ありがとうございます」
「いえ。先にご馳走になったのはこっちですから」
 帰る場所はほぼ同じ。当然、私たちは二人並んで歩き出す。
 私が相澤さんに抱いているのは、ルッキズム上等なミーハーすぎるマインドで、恋じゃなかったはずだった。見た目が好み。目の保養。それだけ。だって性格はよく知らなかったから。
 今は、知ってしまった。職業も、意外な一面も、ストイックさも、気遣いや優しさも。そのどれもが魅力的で、表面的だった好意は今や全く別の深度で燻っている。
 ほら、彼は私に車道側を歩かせない。
 赤信号で私が止まるか、ちゃんとこっちを見て確認してくれている。酔ってるから心配してくれている。
 突然、隣に引っ越してきた相澤さん。突然、隣に座ってきた相澤さん。今、隣を歩いてくれている相澤さん。緊張しながらサラダをサービスした時と、明らかに違う砕けた距離感。
 こんなの、恋に落ちずにいられる? インポッシブルなミッションでしょう。
 すっかり冬らしいツンとした冷気を孕む夜が、アルコールで火照った体を撫でていくのが、情緒があるようなそんな気がした。酔いフィルターがかかると、たとえ民家の窓から漏れる光でもイルミネーションのように感じてしまう。無言で歩く中にも暖かさがあるような、心地よさがあるような、そんな空気感は相澤さんが意図的に作り出しているの?
「あの、相澤さん、私……」
 ぽつり、アスファルトに向かって落ちた呟きを、相澤さんは聞き漏らさずに掬い取る。進行方向を見つめていた彼の視線が私に向いたのがわかった。
 もうマンションは目の前。このお散歩は終わり。おでん屋台で出会った時には驚いて逃げたいくらいだったのに、今はこんなにも、この時間が終わるのが惜しい。それもこれも、相澤さんが優しいから。ううん。そんな事ないかも。普通なのかも。でも、無口で硬そうな彼が柔らかく接してくれるから、相澤さんが、勘違いしそうな事ばっかりするから。
「どうしました? 具合悪いですか?」
「具合、悪いのかもしれないです。結構ドキドキしちゃってるんです。私。見た目だけじゃなくて、お誕生日の日とか今日とかみたいに、お話しするのも楽しくて」
「……はい」
 あぁ、言っちゃった。その先を考えていないのに、そもそも見た目が好みですって言った事もないのに当然のように見た目の話をしちゃった。それに対して、はい、って。
「でも、お隣さんですし、お隣さんとして仲良く以上は迷惑だったり、その、そんな気もないのに好かれて気持ち悪いとかあったら、悪いですし、えと、つまり」
 どもった言葉は進路を失って、もごもごと迷走する。あぁ、どうしよう、上手なまとめに辿り着かない。自分が何を思っているのかも、もうよくわからない。
「もし、その……」
 要領を得ない私の途切れがちな独白は、ブオンと音を立てて走り去ったトラックに遮られて本当に途切れてしまった。相澤さんはその沈黙を自分のものにして、つまり、と囁く。
「俺と、恋愛したいんですか」
 ひゅっと冷たい空気が喉に流れ込んだ。思考力の鈍くなった頭がさあっと冴えて、現実の輪郭がはっきりしてくる。
「あっ……ハイ……」
 皆まで言うなって言葉は今使うやつで合ってる? そんなバッサリとした表現されるほど、私はまだ、相澤さんに恋をしているわけじゃなくて。それが不快じゃないか聞きたかっただけで。
「なら……」
 と続けた彼のその次を聞きたいような聞きたくないような、背中がぞわぞわして歩く足が速くなる。逃げ腰が彼にも伝わって、合わせて歩幅を大きくした長い脚は優雅で、私のテンポの速い足音がみっともなく聞こえる。
「俺のこと、もっと知ってください」
 もうマンションに辿り着いてしまった。エントランスの重いドアに体重をかけて開けようとして、彼の言葉に力を抜かれて、押し返されてしまった。
「もっと……?」
 相澤さんが私を後ろから覆うように手を伸ばし、ドアを押し広げる。背中に彼の服が当たっている。この距離は、お隣さんとして適切とは言えない。
「もっと。隅々まで」
 そう、低く囁いた声は、耳からあまりに近くて危険な威力を持っていた。おでんでもアルコールでも叩き出せない体温の急上昇。顔はありえないくらい熱くなって、ついでにセンシティブな隅々≠ェぽわんと脳内に想像されてしまって。
「すっ、す、よ、酔ってますか」
 慌ててマンション内に駆け込んで距離を取る私を、相澤さんはふっと揶揄うように笑った。
「そうかもしれないな。だから、また後日、ゆっくり話しましょう」
 酔い覚ましてから帰ります、階段気をつけて。そう告げると、相澤さんはまた夜の街へ出て行ってしまった。
 取り残された私はおぼつかない足取りで階段を登る。こつん、こつんと一段上がるたびに、私は相澤さんの沼に深く沈んでいく気がした。
 ドキドキするだけ、楽しいだけ、ミーハーでファンの域を出ているかはわからない。これはまだ恋じゃないと自分に言い聞かせるには、頭の中が彼でいっぱいすぎる。
 朝から、ゴミ出しや出勤時見かけないか気にして、お弁当を買いに来ないか期待して、夜寝る前に彼も休息が取れているか案ずる。
 平凡な私が、ヒーローと教師二足の草鞋を履きこなす彼に釣り合わないのは理解していて、こんな私を好きになってくれるわけがない、というのが最後の砦だったのに。もうどうしようもない。
 私は相澤さんを知りたい。それが許されるならば。もっと、もっと隅々まで。
 お隣さんは、私を夢中にさせる。

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