今日は靴ずれはしてないけれど

 芝生の丘に、石畳の坂道が、すうっと真っ直ぐ夕陽を刺すように伸びている。
 この道を消太と歩くと、つま先に懐かしい痛みの記憶が蘇って、ふくらはぎが緊張する。
 あの日と違って、今日は履き慣れたスニーカー。足音だってリラックスしている。靴擦れなんて起こすはずもない。それでも、その黒い背中を見上げると、あの日の胸の高鳴りと共に爪先がツキンと痛むような気がした。
「懐かしいな」
 そう、消太が半身振り向いて、私に微笑みかける。
 私は無理して慣れないヒールを履かなくなったし、消太は照れ臭さを隠すために早足で歩かなくなった。
「そうね。もう、五年も前になるのね」
 あの日、消太はやたらと無口で、少し怖かった。私はまだ相澤さんと呼んでいたし、お互いに敬語だった。当時は、憧れの相澤さんに誘われたことに舞い上がって、呼吸の一つ一つも緊張して、少しでも可愛い私でいたくて、みっともないところを見せないようにと必死だった。必死だったから、こんなに綺麗な夕日を見せに連れてきてくれたのに、靴擦れが痛くてもう坂を登れないなんて雰囲気を壊すような事は言えなかったのだ。
「手を繋いでもいいか」
「もちろん」
 消太は左手を差し出してきた。私は不自由な方に立って支えたいのに、消太はなかなかそうさせてくれない。
 大きくて暖かな手を重ねると、まるで、硬くなった皮膚が私の肌を傷つけることを恐れるように、恐々と閉じる。
「恋人繋ぎがいいな」
 指を開いて絡め直すと、消太は傾いた陽の光を瞳に反射させて、俺もそう思ってた、と呟いた。
 かつては帰りがけにようやく繋いだ手を、今日は行き道から繋ぐ。足音は似たような音で、どちらかが無理に合わせているわけでもない。私たちのいつものペースで心地よいリズムで、ゆったりと石畳の終わりを目指す。
「あの日も綺麗だったけど、今日も晴れててすごく綺麗。雲が、ほら」
 一歩一歩動く足はそのままに、私たちは天を見上げた。
 オレンジと赤と紫と、複雑な色をした幻想的な空に、薄いヴェールを遊ばせたような雲。大きな空が視界いっぱいに広がっている。
 あの日まだただの同僚だった私たちも、この一本道の終わる場所、展望スペースの真ん中で今日と同じように肩を並べていた。海に沈んでゆく夕日を無言で眺める時間は長く長く感じたものだ。綺麗だという感動はあったのだけど、消太の夕日を睨む横顔は不機嫌そうに見えて、足の痛みは酷くて、そして帰り道も歩くのだという不安で、私は少しずつ心が砕けそうになっていた。
 でも今思えば消太はとてつもなく緊張していたのだ。
「ねぇ、今日はどんな言葉をくれるの?」
 あぁ、あの時の、初々しい恥じらいと、瑞々しい熱が蘇る。消太はあの日、太陽の最後の一欠片が消える寸前になってようやく、『告白をするので、嫌なら途中でも遮ってください』と切り出した。
『俺は、あなたのこと、ただの同僚だと思ってません。……つまり……特別に……』
 途切れた言葉の続きを探すように視線を惑わせて、結局消太は『好きです。付き合ってくれませんか』と至ってシンプルな告白をくれた。
 夕日に照らされているうちに言えば誤魔化しがきいたのに、赤い頬に言い訳が通じなくて戸惑うのがおかしくて、不器用さと懸命さが可愛くて、私は痛みも不安も忘れて、好きに溺れて頷いたのだ。
「今日は夕日が出てるうちに言うよ」
「真っ赤になっても夕日のせいだと思っておくね」
「そうしてくれ」
 夕焼けに染まりながら困ったように眉を下げて笑う。穏やかな風が海から吹いて髪を揺らすから、その顔がよく見えた。
 ねぇ、空が綺麗ね。雲がある方が好き。なんだか風情があると思うの。
 あの日と同じ場所。あの日より少し早いタイミング。あの日よりひとつ減った瞳。あの日より愛おしい笑顔で、消太は、驚くほど夕日に輝く小さな指輪を取り出した。

 私の答えは決まっている。
 その一言一言に、苦しいほど胸がいっぱいになって、ウンって大きく頷くしかないの。

 好きよ。ずっと好き。どんな姿になっても。

 ねぇ、あの日の涙が靴擦れのせいだってことは、一生の秘密にさせてね。
 今日の涙は本物の、感極まって愛が溢れた涙だから。

 お願い、ね、甘えたいから帰りはおんぶして歩いて。あの日の私たちみたいに。

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