カレーでハッピーバースデー


 何が起こってるんだろう。
 お隣さんだからといって、部屋に呼ぶような状況はそうそう起こり得るものではないでしょう。これは適切な『仲良く』の範疇で合っているのか。勢いよく自分から誘っておいてなんだけれど、冷静になった今考えると距離の詰め方を間違えた気がしてならない。
 鍋の中で柔らかくなった鶏肉をほぐして骨を取り出し、トマト缶を投入して水分を飛ばして。カレーはとっても美味しく完成した。作り置きのアチャールも数種小鉢に盛り付けて、麻のランチョンマットの上に並べてみる。彩りも完璧だと思う。でも、料理の出来栄えが満点だからといって、強い気持ちでいられるほど簡単な話じゃない。だってこの小さなテーブルで、しかも向かい合って相澤さんと食べるんだもの。
 数十分前の出来事は私の妄想・幻覚・幻聴ではないのか? 私の脳が異常でした、と言われた方が現実味がある。けれど、心の準備を待たずして、約束の十二時丁度にぴんぽーんとチャイムが鳴り響いてしまった。
 深呼吸ひとつ。玄関を開けると、あのマカロンの日と同じく、そこには相澤さんが立っていた。
「いらっしゃいませ」
 お弁当屋さんに来た時と同じ歓迎の文句がさらりと口から流れる。相澤さんは開いたドアから踏み込まずに、伸ばし放題の黒髪に手を突っ込んで微妙な顔をした。
「誘いを受けておいてなんですが、警戒心、って注意しておいて、上がり込んでいいものかと」
「あっ……そうですよね。警戒心、注意されたのに家に招いてしまいました……」
 ノブに手をかけてドアを開いた半端な体勢のまま固まる私を、相澤さんの片目が困った色をして見つめる。軽率に部屋に男の人を上げる警戒心のなさを諭されるのかと身構えたけれど、彼は「安心材料になるかわかりませんが」と前置きして、とんでもない暴露をした。
「ヒーローで、雄英の教師をしています、ので」
「ヒーロー……雄英……って、プロヒーローってことですか?」
 衝撃的な事実。だって現役のプロヒーローなんてもれなく先の戦争を生き抜いた真の英雄。今日という日の平和の礎で、その怪我だってきっと勝利のため犠牲になったに違いないのだ。しかも雄英の教師ならば、渦中のど真ん中にいただろう。
 尊敬と憧れ、そして感謝が心の底からぶわっと湧き出て、ちょっと隈のあるその顔が輝いて見える。
 まじまじ見つめると確かに、ちらりと見える首ですらよく鍛えられているのがわかる。ほわぁ。すごい。隣にヒーローが住んでるってすごい。というかヒーローってこんな普通のマンションに住むんだ。
「ヒーローに詳しくなくて、全然気がつきませんでした。あ、だから個性使った時……」
「あの時は突然すみませんでした。職業柄注意しないわけにもいかないんで」
「わぁぁ。お隣さんがヒーローなんて、すごく心強いです。どうぞどうぞ上がってください」
 ほっとしたように眉間の力を抜いて、相澤さんが私の部屋のドアをくぐる。普段ブーツに隠れた足は今日はサンダルを履いていて、脱ぐ前からその足が人口のものであるとわかった。鈍く光る灰色のつま先がフローリングを踏む。足音の差は歩き方の癖ではなくて、物理的に別物だったんだ。
 自分の足では奏でられない足音が、私の後ろをついてくる。ヒーローという仕事をする人への畏怖が更に強くなった。片目、片足。それを失ってなお、世のため人のためにその身を捧げるのかと思うと、その自己犠牲の精神は少し怖くもある。
「特別オシャレな部屋じゃなくてアレなんですけど、カレーは美味しいと思うので……」
「いや、素敵ですよ。同じ間取りとは思えないな」
 掃除しておいてよかった。小さなダイニングテーブルの椅子を引くと、彼はそこに腰掛けた。
 正午の太陽は足元を照らす。相澤さんはすでに用意された料理を感心したように見つめ、香りを味わうように静かな深呼吸をした。
 相澤さんが、私の部屋にいる。この違和感と感動をどう表現すれば良いのかわからない。
「ちょっと待ってくださいね。飲み物、マンゴーラッシーありますけどお茶とどっちがいいですか」
「本格的ですね。ラッシー、飲んでみたいです」
「了解です」
 グラスを取り出そうと棚を開ける。普段使うベーシックなグラスが並んだその奥に、色つきや柄つきのグラスが並んでいる。その中に、そういえば一つ面白いものがあった。
「お待たせしました。お口に合うといいんですけど」
 ラッシーをテーブルに置いて、準備は完了。私は相澤さんの向かい側に着席して、手を合わせていただきますを唱えようとして、彼の凍りついた表情に気がついた。
「……相澤さん?」
「この、グラス……」
 二人分の視線を集めたラッシーのグラス。そこには、カラフルな三角とか丸とかの模様と一緒に、ガンリキネコが描かれている。まるでショックを受けたように顔面に力を入れた彼は、グラスにそっと手を伸ばした。
 明後日の方向へ向いていたガンリキネコは、くるりと回されて強制的に相澤さんと見つめ合う。精悍な面持ちでガンリキネコと対峙する成人男性の絵面。こんなの笑いの誘引力が強すぎる。
「ふふ。そうですよ。相澤さん好きなのかなぁって思って。あの時はキャラの服は避けてなんて言いましたけど、実は私も持ってたんです」
 そんなに好きなのかな。グッズとか集めていたら意外すぎて面白いけど。相澤さんはふぅんと意味深な反応をして、その視線をネコから私へ移した。
「好きなんですか」
 仲間か、と確認されているようなその語勢。けれど私はそんな、ヘヴィーなガンリキネコマニアではない。
「いやぁ、なんとなく、雑貨屋さんで目が合ったら眼力に負けて買ってしまっただけです。ガンリキネコトークはできないですけど、でも、ポップで元気が出ますよね」
 彼は、なんだ、とでも言いたげに、猫背になっていた背を伸ばして椅子の背もたれに体重をかけた。眉根に入っていた力も、少しだけ普段より大きくなっていた目も元通り。すっかりスンと無表情になった。申し訳なさを抱くと同時に、そんなにガンリキネコが好きなのかと思うと唇がムニムニしてしまう。
「予想通り食いついてもらえて嬉しいです。あ、あったかいうちにどうぞ。食べましょう」
 相澤さんは小さく同意して、綺麗な所作で丁寧に手を合わせる。お皿の上のカレーを見つめて、いただきます、と呟いてスプーンを手に取った。
 木製の皿の上を銀のスプーンが器用に踊る。ご飯とカレー、バランスよくそのひと匙に乗せて、彼は大きく口を開いた。
 歯並びが綺麗でステキだと思った。薄い唇が閉じて、スプーンを抜き取る動作は色気がある。もぐもぐと咀嚼するに合わせて動くエラは男性的で魅了される。
 自分もスプーンを持ったのに、推しの食事シーンから目が離せない。
「……美味しいです」
「よかったです。あの、思い出の味と対決だと、ハードルが高いかなと不安だったので、えへへ、こんなの違うって言われなくてよかったです」
「ほんとに、美味いです」
 相澤さんはお皿に視線を落としたまま、夢中でカレーを食べ進めた。
 さすがにこんなガン見されてたら相澤さんも居心地よくないだろう。慌てて自分も一口頬張る。何度も食べてるお馴染みレシピは期待を裏切らない。『やっぱり私のパキスタンカレー最高』の気分になって、思わずンっとハッピーなハミングが出た。
 顔の横に垂れている髪が邪魔そう。ゴム、使うかな。
 無造作なその黒髪に想いを馳せていると、相澤さんは、ごくりと喉仏を上下させて口の中を空にしてから、ぽつりと言った。
「俺、今日ね、誕生日なんですよ」
「誕生日なんですか」
「はい」
「ん? えっ、ええ 誕生日なんですか おめでとうございます!」
 あんまりさらっと言うもんだからさらっとさせちゃったけど、誕生日って。誕生日って相澤さんが生まれた年に一度の記念日ってことじゃないですか。
 私の時差を跨いだリアクションの大きさに、相澤さんはちょっとぎょっとして、また山盛りのスプーンを口に突っ込みながら頷いた。
「ありがとうございます」
「せっかくの誕生日に、何かこう、予定とか、食べたいものとか無かったんですか? 大丈夫ですか? うちに来てカレーなんて……」
 さして深い仲ともいえないただの隣人に、突然誘われてカレーを食べるなんて想定外のイベント、それって誕生日にねじ込むものじゃないでしょう。
 こんなで良かったの? 特別良い食材を使っているわけでもないし、その道を極めし料理のプロってほどでもないし、ケーキも、プレゼントだってない。
 それなのに相澤さんは、緩く首を振って微笑んだ。眉はほんの僅かに八の字になる。目尻が下がって目を細める。やたらと優しさの滲むその笑顔に、胸がぎゅっとなる。
「誕生日に思い出のカレーが食べられて、こんなに良い日になるとは思わなかった。誘われなきゃ、部屋で仕事してトレーニングしてゼリー飲料食べて終わりの一日になるところでした」
「そんな……誕生日、なのにですか……」
「誕生日なのにです」
 えええ、と、相澤さんの誕生日の過ごし方について私が不満に思うのも意味がわからないけれど。相澤さんは、誘ってくれてありがたかった、今度お礼に何かご馳走させてください、と恐れ多い申し出をくれた。
「あっ、せめて、歌いましょうか」
「……それは遠慮しておきます」
 一口食べるごとに、話題がぽんと生まれては、飲み込むごとに別の話題になったりしながら、のんびりと食事は進んだ。ふたつのお皿が空になるまでの間に、私は少し相澤さんを知ることができた。
 雄英に避難していた時にお世話になったかもしれない、とお礼を告げると、人が多すぎたから覚えていない、と言われた。アチャールも美味い、と褒めてくれたので、アチャールがパッと出てくるなんてグルメですねと返した。会話が嬉しくて調子に乗った私は、雄英出身だということも、今日何歳になったのかも、いつも首に巻いているのはオシャレなのかも質問してしまった。
 けれど。
 誕生日に食べられて嬉しいパキスタンカレーは、どんな思い出と共に心にあるのか。胃の中に確かにあるその疑問は、喉元までは込み上げるのに、カレーを飲み込むごとに一緒に胃に落ちてしまって、結局声にすることができなかった。
 お隣さんは、ヒーローで先生で、今日一つ歳を重ねた。

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