ベランダから誘うスパイス

 相澤さんが隣に引っ越してきてから一ヶ月が経った。これといって私の生活に変化はないけれど、ゴミ出しにはきちんと間に合うように服を着て外に出――それは当たり前か。ただ、相澤さんに見られる可能性を考慮して、今までより少しだけ(服装も時間もゴミの分別も)しっかりする意識がついた。相澤さんに呆れられまいと、生活態度も改善されるんだから素晴らしい存在だ。
 冬を目指してぐんぐん下がる気温は、もうすぐ今年が終わってしまうと焦る気持ちにさせる。おせち、という文字がコンビニで見られるようになって、年末に引っ張られそうな思考を秋に戻す。だって今がまさに紅葉の見頃だし、さつまいももカボチャも栗もぶどうも梨も味わいたいんだもの。食欲の秋、最高! とはいえ、季節なんて関係なく、私の休日は食を中心として回る。
 今日も今日とて、休日しかできないじっくり系のお料理を楽しみたくて、キッチンに立っていた。
 仕事でも料理をしているのに、しかも誰に振る舞うでもないのに、よくやるねぇ。そんな世間の声が聞こえてきそうな午前十一時。コンロでは鍋がとろ火にかけられて、部屋中がスパイスの香りに満たされている。
 多めのオイルで骨付きの鶏もも肉がのんびり半身浴して、お肉がゆっくりと柔らかくなる、魔法みたいなこの時間が好き。湯気が白く揺蕩うところに、明るい日差しが差し込む光景が好き。
 無水カレーが順調に育っている香りを胸いっぱいに吸い込んで、晴天が広がる窓の外をぼんやり眺めていたら、洗濯機がピーピーと鳴いて任務の完了を知らせた。掃除をして綺麗になった部屋、片付いた洗濯カゴ。ランチに美味しいカレーを食べて、午後はゆっくりコーヒーを飲みながら本を読む予定でいる。
 濡れた洗濯物を持って掃き出しの窓を開けると、秋らしい爽涼が足元から滑り込んできた。
 隣に相澤さんが引っ越してきてからというもの、ベランダは、以前よりちょっとだけ特別な場所へと変わった。だって、緊急時には突き破れる薄い境壁一枚で、相澤さんのベランダと繋がっているんだもの。たまに、洗濯物を干していると、相澤さんの部屋の窓が空いていてラジオの音が漏れ聞こえる時がある。偶然そういった瞬間に垣間見える彼のプライベートが、いちいち私をドキドキさせるのだ。
 まあ、平日の昼間に相澤さんがお休みなわけないから、今はドキドキしたって仕方ないんだけど。
 最近お店の有線放送でよく流れている歌が、フンフンと鼻歌になって秋風に混ざる。なんとなくしか覚えていないから、頭に残ったサビの部分だけ適当に繰り返して、セルフBGMにしてタオルを干していく。太陽を浴びながらリズムに乗って手を動かしていると、不意にカラリと窓が開く音がした。
 ビクッと肩が跳ねて鼻歌は引っ込む。無意識に展開した気配センサーは、衝立のすぐ向こうでサンダルを履く相澤さんを察知した。
「いい天気ですね」
 その声は確実に、衝立越しに私に向けられている。
「相澤さん。こんにちは」
 手は持っていたタオルをギュッと握りしめた。私の声は少し驚きで力んでいた。
 ふっと綻ぶような吐息の後に「こんにちは」と声が返って来る。何これ嬉しい。思わぬ接触に、いや、ちょっと妄想してたシチュエーションに心が弾まないわけがない。
「洗濯日和だ。鼻歌も歌いたくなりますね」
「あぁぁ聴こえてましたか……! 恥ずかしい、お休みだと思わなくて」
「窓を開けてたんで。癒されましたよ。遠慮せずどうぞ」
 そう言われ、じゃあ遠慮なく、なんて歌うわけないじゃないですか。癒やされたなんて、冗談みたいなこと言って揶揄ってくる相澤さん。なかよくの意味を一生懸命考えてしまったけど何てことはない。会ったら挨拶とちょっとした会話をする、いい関係のお隣さんの仲だ。
 パッパッと持っていたタオルの皺を伸ばして、ピンチへ挟む。もちろん無言で。すぐそこに相澤さんがいると思うと無言も変な気まずさがある。でも、何を話しかけたらいいのかよくわからないでむずむずしていたら、彼はまた声を投げかけてくれた。
「いい匂いしますね。カレーですか?」
「はいっ。鼻歌も匂いもダダ漏れですみません」
「いや別に。そんな気にせんでも……」
「相澤さんが寛大でよかったです」
 パタパタ洗濯物がはためくのに混じって「腹が減るな」と小さな声が聞こえた気がする。サンダルがベランダの床を擦る音や、記憶を辿るようなフィラーが、会話が終わりではないと伝えてくる。そして彼は、意外な料理名を口にした。
「あー……パキスタンカレー、ってわかりますか」
「え?」
 ピンチハンガーを摘んだ手が止まる。見えもしないのに、白い境壁の向こうへ視線が奪われる。
 インドカレー、スープカレー、ドライカレー、キーマカレーやグリーンカレー。カレーといえば色々だけど、パキスタンカレーが彼の口から出てくるとは。
「ルーカレーじゃなくて。水分が少なくて、肉がぼろぼろに解れてる、あれ好きなんです」
「えっ、今作ってるのソレです! 無水のパキスタン風」
 嘘みたい。
「どーりで。市販のルーじゃ出ないスパイスの香りがしたんで、久しぶりに思い出しました」
 仕事帰りにお店に来てくれる時より軽く朗らかな、緩んだ声色。今、どんな表情でいるのか気になって、同じ食べ物を好きなことが嬉しくて、手擦りから身を乗り出して向こう側を覗き込みたくなる。
「偶然ですね。なかなか出会わないですよ、パキスタンカレー好きさん」
「最近食ってないですけど、昔何度かね。どっちかっていうと作る人の方が珍しいんじゃないですか」
「えへへ。好きなものが同じで嬉しいです」
 声が少しだけ近くなった。ベランダの手摺りに肘をついた彼の指先が見えて、風が持て遊んだ黒髪がそよそよチラついて。
「あなたの作ったやつなら美味そうだ」
 それは、食べたいと解釈してもいいのでしょうか。
 お弁当屋さんで良かった。料理の腕を信頼してもらえてるのが嬉しい。そりゃ社交辞令かもしれないけど、前向きで都合のいい深読みが暴走する。物干し竿に並んだタオルがパタパタはためいて私を囃し立てる。
 好きなら、ぜひ、多めにあるんで、お口に合うか不安ですが、期待させて裏切ったらアレだけど、ええと、けど勘違い、じゃなくて、つまり、その、なかよく。
「あの……もしよかったら……」
 私は私の暴走を止めることなく、境壁の際へ近づいた。
「一緒に食べませんか」
 身を乗り出せはしなかったけど、声と心が境界線を飛び越えてあっち側に届いたのは確かだと思った。
 一瞬の沈黙の間に、断られた時の誤魔化し方を考えていなかったことに焦ったけれど、その必要はなかったみたい。
「もう腹が完全にカレーを求めてるんで、お邪魔していいですか」
 食欲の秋は私の味方かもしれない。
 お隣さんは、私の部屋に来ることになった。

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