カラフルマカロンの衝撃

 前代未聞の大規模なヴィラン総統作戦は、もはや戦闘というに相応しいほどの広域を巻き込んだ。瓦解した建物も多く、死者も怪我人も多数。ヒーローも苦戦を強いられ、正に命をかけた激戦の末、ヒーローが輝く勝利を手に入れた。
 物語ならば、そこでめでたしめでたしと締め括るのかもしれないけど、一般市民にとってはそこからが新たな生活のスタートだ。
 個性≠ノより荒廃した街は、個性≠ノよって急速かつ華麗に復興し、凄惨な思い出を塗り替えるように瞬く間に街としての機能を取り戻した。
 地図的にはほとんど変化ないものの、馴染みの駅前もアパート周辺の路地も、どこを見ても新品に生まれ変わった。見慣れているようで全く違う、未来にタイムスリップしてきたような不思議な感覚になる。
 多くの人が先の戦争によって傷つき、価値観を根底から変えられる衝撃を受けた。大切な人を失い、住む場所や働く場所をめちゃくちゃにされた。あの頃、ヒーローや警察も一般市民も、余裕のある人なんていなくて、不安の中もがいて希望を探すのに必死だった。ヒーローへの不信感から自警団が発足するなど混乱を極めたし、命を賭して戦ってくれているヒーローすら責める始末。けれど、そんな状況を変えたのはやっぱりヒーローだった。強大な敵を前に戦うヒーローの姿が市民の心に火をつけたからこそ、多くの人が立ち上がり協力して街を作り直すことができたのだ。
 私も一時は雄英への避難を余儀なくされた。タルタロスから脱獄した囚人たちが暴れ、住んでいたアパートは運悪く倒壊。火災もあったせいで家財も思い出もスマホも財布もおばあちゃんにもらった大事な着物も、何もかもが消えてしまった。それでも、職場の人や友人など身近な人は助かっているし、以前住んでいたのと同じ場所に再建された部屋に住むことができた。
 不幸中の幸い? いいえ。今の状況を見れば幸せの中の幸せ。私は軽く頭を打ったくらいで、傷跡や後遺症が残るようなケガの一つもすることなく、オーナーは店を作り直してお弁当屋さんの仕事も続けることができている。
 故郷へ帰る選択もできたけれど、そうしなかったのは、絶望を日毎希望で上書きするようにみるみる進化してゆくこの街を、肌で感じて見守りたかったから。
 この街が発展することこそが悪からの勝利の咆哮。その前を向く人々の力を、熱量を全身で感じて、私もその一部になって生きたかったから。
 ヒーローの努力と犠牲、そしてみんなの手で作り上げた平穏な日常。
 そう。だから、この慌ただしい朝だって、全て乗り越えた証。とても贅沢なパニック。幸せの一端と言えるでしょう。
「ご、ゴミ出し、時間っ、やっばい」
 やばい、やばい、やばい。
 頭の中が昨日貰ったマカロンのことでいっぱいになって、出勤前のルーティーンが狂いに狂って、焦れば焦るほどにアレしてないコレしてないと朝から部屋の中を右往左往。
 だって、あまりの衝撃に色々吹っ飛んでいたけれど、冷静になってよく考えてみたら、あの人気スイーツ店に相澤さんがわざわざ行って、引っ越しの挨拶のためにマカロンなんて洒落た手土産を用意するだろうか。しかも五個入り! 値段もする。もっとその辺で無難なモノがいくらでも売っている。隣が男性か女性かだってわからないのに。
 そこから導き出された予測。もしかして彼女が――という可能性に行き着いた瞬間、ガツンと脳が揺れた。要するに、牽制。匂わせ。その類。まぁ、部屋を決めるまでに内見とかに来ているだろうし、彼女も同伴だったのかもしれないし、隣に住んでいるのが女だと知る機会が無いとは言い切れない。独占欲強いタイプの彼女さんがいるなら、彼との距離感も考えなければ。
 そんな事を考えているから、ドタバタしてしまうのだ。時計は信じられない時間を指している。焦ってゴミ袋の口を縛り、サンダルをつっかけてドアに倒れ込むように玄関を開けた。
 外廊下から裏手の道を見下ろすと、もうすぐ近くにゴミ収集車が見えている。ここは四階。今から階段を駆け降りてゴミ置き場まで走っても間に合う気がしない。目の前でゴミ回収を見送るなんて事態だけは避けたくて、つい。
「ダメだけど……見逃してっ」
 こんな時だけ都合よく縋られる神様は呆れ顔でため息でも吐いてるだろう。私は禁止されている個性の乱用≠ノ踏み切り、ゴミ袋に手を翳す。
 私の個性≠ヘサイコキネシス。ちょっと物をふわーっと動かせるだけの無害な個性。むむむっと手のひらからパワーが出ているイメージで念じると、ゴミ袋はふわりと動き出し、外廊下から出てゴミ置き場まで宙を滑るようにスイーっと降りていく。
 とっても便利なんだけど、懸念がひとつ。距離が開くとコントロールの難易度が跳ね上がる。私は外廊下の柵から乗り出すように手を伸ばして念を送り続けた。あと二メートルほどでミッションコンプリート、と思った矢先、さっとマンションから現れた人影が、ふよふよと浮遊するゴミ袋をがしっと引っ掴んだ。
「え、ぁ」
 瞬間、私の念力はぷつんと途切れた。私のゴミと元々持っていたゴミ、両手に袋を引っ提げた男が、ゴミ捨て場の蓋を開けてそこふたつとも放り込んだ。両手をパンパンと払うように叩く、その全身黒コーデと首に巻いた布には、ものすんごく見覚えがある。
「あ、相澤さん……!」
 よりによって、相澤さん!
 長い黒髪を風になびかせ、くるりと振り向き私を見上げる一つの瞳。その何とも感情の読み取れない表情に、昨日とは違う意味でドキドキが止まらない。相澤さんは人差し指を私へ向けると、トントンと突くような小さな動作でもって、そこにいてください、と無言で伝えてきた。
 相澤さんがマンションの影に入ると同時にゴミ収集車が来てゴミ袋を回収していく。
 間に合った。間に合ったけど。うわぁ。悪い事なんてするんじゃなかった。ゴミを出しそびれた方がマシだよこれは。
 がっくり柵に額をつけて項垂れていると、左右異なる足音が階段を登って近づいてくる。ゆらりと現れた黒い影に緊張が走る。
「公共の場での個性使用は禁止されていますが、何か資格をお持ちですか」
「いいえ……持っていません。すみません」
 階段を登り終えると、相澤さんは歩きながら私に問いかけた。落ち着いた低い声は普段通り、特別怒っているようには聞こえない。なのにこの居心地の悪さといったら、震えそう。処刑を執行するスイッチでも握られているみたいに怯え切った私を、相澤さんが嗜める。
「コントロール誤って人の上にゴミを落としたらどうするつもりです」
「返す言葉もございません」
 実際、一歩タイミングを間違えば相澤さんにぶつけていてもおかしくなかった。家の中でリモコンを取り寄せるのとは違う。外なのだから弁えるべきだった。
 しかもこの歳になってお隣さんに叱られるなんて。反省と羞恥で変な汗が噴き出して、顔も上げられない。犬みたいに耳としっぽがあったら両方べったり垂れ下がっている状態。
 そして単純に恐怖だ。もし彼が悪い人なら、これをネタに強請られるのだろうか。いい人だから注意してくれてると思っていいのか、でも赤の他人にこんなにハッキリ説教する人も珍しい。私が悪いのは重々承知だけど、そんなに怖い顔しなくても。
「普段はしないんです、本当に。今日はたまたま、慌てて、それで、つい」
 そもそも相澤さんのマカロンが私を狂わせたと言っても過言ではない。いや、過言か。理由はともかくダメなものはダメですよね。救いにならない言い訳で恥の上塗りをしちゃって、あまりの格好悪さにもじもじ服を握り捏ねていると、相澤さんの短いため息が聞こえた。
「今後気をつけてください。……それはともかく、あなたね」
 第一印象は無気力。爆笑も想像できないけどブチギレも想像できないような、感情の振り幅が少なそうな印象を持っていた。けれど実際目の前の相澤さんは眉間に深く皺を刻んで、視線を鋭く私を睨んで、目で見てわかる不機嫌を顕にしている。と思ったら、ぱっと顔を横へ向けて、目元を手で遮るように隠した。
「その格好はどうなんですか。たとえ廊下に出るだけっていったって、他人に見られる可能性を考えてください」
「へ? あっ!」
 そういえば。自分の服を見下ろすと、オーバーサイズのTシャツをワンピースのように着て、ショートパンツからは生足が伸びてサンダルをつっかけている。ショートパンツはほぼTシャツに隠れてるし、これじゃあ下は履いてないように見えるだろう。
 どう繕っても人様の前に現れる格好ではない。慌ててゴミを持って廊下に飛び出したし、ゴミ捨て場まで行く選択肢はほぼ無かったので気にするのを忘れていた。先日まで隣が空き部屋だったこともあり、人に出会うことを考慮していなかった。
「警戒心ってもんがないんですか」
「油断、してました……」
 相澤さんとの身長差を考えると、ゆるゆるの襟は危険がすぎる。見えてはいけない貧相なものでお目汚ししてしまったかもしれない。
 最悪。あれこれ見られて注意を受けて。情けなくて恥ずかしくて涙が出そう。
 きゅっと襟元を握りしめて、一歩後ずさる。相澤さんはこっちを見ないようにしながらも、私があまりにしゅんとしたのを感じ取ったようだ。アイパッチの下にはみ出した傷跡を小指でカリカリと掻きながら、語勢を弱くして「いや、まぁ」と言葉を選ぶ。
「……あなたの服装にとやかく言う権利は、俺には無いですから……。とにかく、早く入ってください」
 大きくて皮の厚い手のひらがこっちに向く。促されるままそそくさとドアを開けて、その陰に体を隠しながら相澤さんを見てハッとした。苦い顔した髭の頬がほんの少し赤いような、その顰めっ面は怒りというより動揺しているような、そんな気がして。
「隣に引っ越してきて早々、口うるさくてすみませんね。ただ、世の中まだ物騒だ」
 この気持ちはなんだろう。怒られたのに、たしかにしょげたのに、今は嫌な気分じゃない。腑に落ちている反省感。
 根拠ある正当な指摘だからってだけじゃなく、うまく言えないけれど、相澤さんの誠実さが伝わってきたからだ。弱みを握ったとニヤつく悪人でもないし、ネチネチと無関係の小言まで掘り返すクレーマーとも違う。そんな裏のない安心感が相澤さんの声や表情から感じ取ることができる。さして仲良くもない相手に、ダメなことをダメと言える実直さは、私は持っていない。けど、本当はそうできるヒーロー性を持った人間でありたいとも思う気はあるわけで、その理想像まんまの相澤さんの対応に尊敬の念が湧き上がる。
 厳しいけど理不尽さはなくて、伝わりにくいけど情に厚い。生徒に慕われる先生みたい。
「いえ、心配してくれてありがとうございます」
 相澤さんは、ふう、とため息を吐くと、切り替えるようにゆっくりと瞬きをして、いつもの無表情に戻った。
「では仕事なんで。もう外で個性は使わんでくださいよ」
「はい。絶対使いません!」
 半分くらい玄関に上がりながら、ドアから顔を出して手をひらひら振る。「いってらっしゃい」と見送ると、相澤さんは面食らったように一瞬だけ固まって、それから困ったように眉を下げた。
「いってきます」
 ふっと綻んだ笑顔に胸を撃ち抜かれる。こんなタイミングで笑顔なんて。最悪な朝だと思ったけど、最後に与えられた飴が甘すぎて溶けてしまいそう。
 朝の忙しい時間。急いで出勤準備をしなくてはいけないのに、黒い背中が階段を降りて見えなくなるまで、私はそこに縫い付けられたように動けなかった。
 お隣さんは、厳しさが優しい。

-BACK-



- ナノ -