ミラクル回鍋肉が連れてきた

 涼しい季節を忘れてしまいそうなほど長く続いた夏の暑さも、夜にはその威力を弱めるようになった。長袖を引っ張り出してきて、去年は何を着てたっけ、と悩む例年行事の季節。
 一人で閉店業務をしなくてはならない今日。カウンター奥の厨房で調理器具を洗いながら、閉店時間まであと何分だろうかと時計を見上げる。もう少ししたら、店先のプレートをクローズに変えなければ。たぶんだけど、今日はもう、お客さんは来ない。一人の店内で私は、ため息に似た深呼吸をした。
 そんなふうに、気が抜けたのを見透かすようなタイミング。カラン、と木製のドアベルが高くて丸い音を響かせる。
 続いて聞こえたのは、左右で少し違う足音。それだけで誰が来たのかはすぐに分かった。
 慌てて洗い物をしていた手を拭いて店内へ顔を出すと、やっぱりそこには真っ黒な服装の男性が一人、長身を猫背にしてショーケース並ぶ惣菜を覗き込んでいた。
「いらっしゃいませ。こんばんは」
「どうも」
 待ち侘びた来店に張り切った私の声は普段よりワントーン高い。対照的に低くて覇気のない応答、伸ばし放題で艶のない黒髪、無精髭、それに右の三白眼を隠す黒のアイパッチ。爽やかの逆を行く、極端に言えばちょっと危険な香りさえするアンニュイなルックス。誰もが声を揃えてかっこいいと言うような王子様的要素は皆無。なのに、私の胸はこっそりと高鳴る。
「いつもの弁当を……」
「はい。あ、すみません、今日は唐揚げ売り切れなんです。どれになさいますか?」
 もう外は真っ暗で閉店間際のこの時間。好きなおかずを二種選べてワンコインのお弁当がウリの当店は、本来なら惣菜が山と盛り付けられた大皿が並び、どれにしようかなぁなんて迷うくらい食欲をそそる光景が見られるはずなのだ。だけれど、この時間と今日の繁盛の甲斐あって、どの大皿も既に殺風景。タレの跡が寂しさに拍車をかけている。
 彼が来る時は毎回そうでちょっと悔しい。だって、夏に入ってから月に二、三回ほどご利用くださるこの男性はまだ見たことがないのだ。昼前にオープンした直後の、我こそが一番美味いぞと全惣菜が胸を張ってキラキラと輝いた状態を。
 そんな中、イチオシとして大量に作っている唐揚げは残っている率が高く、彼が好んで選んでくれている一品で、なのに今日はそれすらない。
 ガラス越しにこっち側の残念な皿たちを視線で一周巡ると、彼は太い指でケースの中を示す。
「じゃあ、回鍋肉とカニ玉を」
 選ばれたのはどちらも中華。そういえば、いつも意外と組み合わせに配慮した選択をする。
 見た目に反して真面目で繊細そうな人だと思う。どこからそんな印象を受けるのか、と聞かれたら具体的な説明は難しいけれど、なんとなく。やる気がないのにどこか鋭く情熱的な瞳のせいか、容姿に無頓着だけど使い込まれた仕事熱心な手肌のせいか、無愛想だとは思うけど不思議と怖さがない。素直に言えば、かっこいいな、と、思う。
「回鍋肉とカニ玉ですね。ありがとうございます」
 三つに仕切られたモールドパックの一箇所に、ほかほかご飯を盛り付ける。おかずの部分に回鍋肉とカニ玉が入るのを想像すると、まるでお手本のようなセレクトでお腹が鳴りそう。
 これに中華風サラダが付いたらもっと良いな。
 より良い食事を求める胃袋の向上心。ふっと冷蔵庫を見ると、ガラスのドアの中にちょうどよく一つだけカップの春雨サラダが残っている。
 理由は無いけれど、私はそれを渡さなければいけない気がした。滅多に無いチャンスに思えた。だって、お客さんのお腹を満足させたいんだもの。
「あの、ええと、春雨サラダ、おまけにつけますね」
 あ。『つけますね』じゃなくて『サービスさせてください』とかの方がよかったかな。嫌いだったらどうしよう。『余ってるので』なんて付け加えるのは売れ残りを処理させる感が出て失礼だろうか。
 しゃもじからトングに持ち替えながらチラリと反応を伺うと、無表情だった彼はちょっとだけ目を大きくして、瞳にハイライトが入ったように見えた。
「いいんですか」
「はい。もう閉店ですし、せっかくなので、嫌いじゃなければ」
 言葉で返してもらう前に、喜んでいる感情が伝わってきて安心した。緊張が解けて空気があたたかくなる。ほわほわむずむず嬉しくなって、営業スマイルじゃなく素で頬が緩んだ。
「いえ……好きです。ありがとうございます」
 どきり。きゃあ。私も好きです、なんちゃって。
 分かっている。彼が好きなのは春雨サラダ。もしくは中華。とはいえ鼓膜を震わせた『好きです』は私を動揺させて、トングを持つ手が張り切ってしまった。
 回鍋肉もカニ玉もたっぷり入れたのは、彼のことが気になっているからじゃなくて、売れ残りとして廃棄されるのを避けるためだ。満足していただいてまた来て欲しいなんて下心は、それは、どのお客様にも思っているものだし。
「いえいえ、こちらこそ、いつもありがとうございます。おまたせしました。五百円です」
「はい」
 ビニール袋にお弁当を入れて、プラカップのサラダをその上に置いて、カウンターに乗せる。彼が千円札を私に渡すので、その指に触れちゃったらどうしようと思いながら受け取って、レジを打っておつりを返す。彼はそれをポケットにそのまま突っ込んで、大きなカサついた手で袋を持ち上げた。
「いつも遅くまでご苦労様です」
 レシートは結構、と断るように手のひらをこちらに向け踵を返しかけた彼は、私の言葉に、もう一度こちらへ視線を向けてふっと柔らかく目を細めた。
「あなたもね」
 優しい声色が心臓の表面をくすぐるように私の心に吹き込む。
「あ、ありがとうございました」
 そう言ってしまえば終わりの、名前も知らないお客様。
 カラン、と鳴った木製のドアベルは、恋に落ちた効果音のよう。
 ねぇ。たくさん会話しちゃった。彼の声で『好き』って聞いちゃった。何でもないけど特別な日になった。きゃあっと叫びたい気持ちを堪えて口を覆う。背中を追いかけるようにドアへ駆け寄り、プレートをクローズにひっくり返す。鼻歌を歌いながらレジを締めて、舞い踊るように片付けて、オーナーに満面のスマイルで退勤の挨拶をして、スキップして家に帰った。四回建マンションの四階までの階段も、脚が羽のように軽い。
 廃棄されそうだった春雨サラダの貰い手を見つけたから、サラダの神様が微笑んだのかもしれない。数日後、衝撃的な幸運が起こった。

 それは定休日。何の予定もない午前にシフォンケーキを焼きながら、のんびり過ごしていた時のこと。
 そろそろ秋めいた靴を出そうかと玄関にいた時に、ピンポンとチャイムが鳴った。インターホンのモニタを確認しにリビングまで戻るのも手間で、防犯面で良くないとわかっていながら「はぁい」とドアを開けて固まった。
「こんにちは」
 低くて覇気のない声、伸ばし放題で艶のない黒髪はハーフアップになって、無精髭は剃られているけれど、右の三白眼を隠す黒のアイパッチは先日と同じ。アンニュイな雰囲気はそのまま、危険な香りを少し抑えたその姿は、だけど確実にあのお客様で――。
「あっ」
 私は驚きに言葉を失って、彼はそんな私に片目を見開いた。彼のまっすぐな眉がぐっと歪んで眉間に寄って、薄い唇にきゅっと力が入っている。髭がないのもかっこいい。じゃなくて。
「えっと、時々お弁当買いに来てくださってる……?」
 あ、もしかして彼は気がついていなかっただろうか。一店員の顔なんてそんな記憶に残らないだろうし、バンダナはしてないし、髪は下ろしてるし、あ、でも化粧はちゃんとしてる良かった危ない。
 何言ってんだコイツ、って顔をされるかと思ったけど、彼は「あぁ」と眉間の皺を緩めて僅かに微笑んだ。どうやら私は彼の記憶にいたらしい。
「そう、そうです。美味しかったです回鍋肉」
「それはよかったです。いつもありがとうございます」
 なぜ自宅玄関で接客のようなやり取りをしているの。プライベートモードと仕事モードの混在もパニックにを加速させる。へらりと笑ってみたけれど、いやいや、おかしい。どうしてお客様が私の家に?
 状況が飲み込めなくて頭上にハテナを飛ばしまくっている私の前に、彼が手に持っていた何かを差し出してきた。
「隣に引っ越してきました、相澤です」
「ひ、っこしの、ご挨拶……?」
「マカロンなんですが、よかったら」
 マカロン。引っ越し。隣に。大好きなお店の可愛い紙袋。隣人。のしつきマカロン。あい、ざわ。となりに、ひっこしてきました?
「マカロン……好きです。ありがとうございます」
 渡されるまま受け取って、まじまじ中を覗き込んでいると、つむじに声が降ってきた。
「今日引っ越し作業をしてるんです。お騒がせするかもしれませんが、よろしくお願いします」
 顔を上げると、彼も軽く下げた頭を戻したところで、パチリと目が合った。瞬間、背中がピリっとしてほとんど反射のように名乗って、赤くなった頬を隠すようにまた頭を下げた。
「ご丁寧にありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
 まさかの事態だ。隣に住むなんて。しかも私のお気に入りのお店のマカロン。嬉しくて『運命』の文字が頭にチラつく。
 紙袋を手放して手持ち無沙汰なのか、首に手を当てた彼は「では」と挨拶を切り上げる。
「また弁当買いに行きます。突然失礼しました」
「いえ、はい、お待ちしてますっ」
 にこりと接客の笑顔で軽く会釈しあって、左右違う足音を聞きながらドアを閉める。なんでもないのんびりした休日に、突如旋風が巻き起こった気分。
 バタンと閉まった冷たいドアにおでこをくっつけて、ふう、と大きく呼吸して、情報過多で飽和状態の脳に酸素を送り込む。
「あいざわさん……」
 ぽつり、私にしか聞こえない声で呟いてみると、じんわり耳が熱くなった。彼の名前は魔法の呪文なのかもしれない。口にした途端、心臓がきゅうっとなって、唇を噛む。
 あぁ、なにこれ。嘘みたい。嘘なのかな。現実だよね。だってマカロンが手元にある。
 見た目だけ、いや見た目と声だけで抱く、低俗で猥雑な感情。アイドルやヒーローに思う好きに似た感情。ただ隣に引っ越してきただけで、最低限すれ違ったら会釈、みたいな、それ以上親密になる事は無いんだろうと思うんだけど、だけど、それでも、私の目に映る世界は少しだけ彩度を上げた。
 お隣さんは、相澤さんになった。

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