満月は白い海の中で待つ

 見上げた空は奈落ほど暗く、星も月も無い。代わりに、細かな雨がしとしと降り注ぎ、残暑の湿度を上げていた。
「十五夜に月が見えないなんて、がっかり」
 お団子とすすきを飾った窓際で、恨めしく空を睨む。十五夜なんて意識していなかったけど、たまたま休みが重なり、たまたま二人で買い物に行けて、たまたま目についたお月見コーナーで「今日だ」と喜んで、たまには二人で月でも眺めようかなんて心臓をむずむずさせながら用意したというのに。
「おいで」
 むすっと膨れた私の背中を、消太の声が優しく誘う。ひとりがけの椅子でくつろいだ彼はぽんぽんと自らの膝を叩いた。そうしたら月より団子より消太のお膝に決まってる。うさぎのようにぴょんと軽やかにその指定席におさまると、今度は腕が私を捕まえに来て、ぎゅっとくっついて肩に顎を乗せてふすんと鼻呼吸。膝の立たない右足側がちょっと低くてそっちに体が傾くから、私は消太の左頬に擦り寄るのがお決まり。長い髪がくすぐったいけど、それが消太って感じがして好き。
「満月見たかったなぁ」
「うん。残念だったね」
 消太と見たかった。色々な、大変で苦しいことを乗り越えて、世間の速度よりゆっくりと私たちは平和を認識する。気まぐれのように季節を楽しむのだって、普通の生活を送っている現実の確認作業みたいなもので。
「さっきまで晴れてたのにぃ」
「俺のせいかもしれないな」
 どうして消太のせいなの。天気を変えられるのなんてオールマイトくらいじゃない? 消太が拳を突き上げ、天を割る衝撃的な攻撃をする姿を思い浮かべてしまった。にへらっと緩んだ頬で「なんで」と聞くと、消太はちょっと沈黙して私の背中を撫でた。
 耳のすぐ横で、すうっと消太の呼吸が聞こえる。肌が吐息の温度を感じる。穏やかなテノールが耳福をもたらす。
「中秋の名月はかぐや姫が月に帰った日だ」
「そうなんだ」
 消太の口から出たかぐや姫に虚をつかれて、竹取翁澤が脳内に爆誕する。
「だからおまえが、月に攫われていなくなったら……困るだろ」
「ふふ。そんな、ふふ」
 消太の頭の中ではかぐや姫な私が爆誕してたのかと思うとおかしくて、くすくす笑いが止まらない。雨で悲しい気持ちを慰めるために、らしくない言い回しをしてみてくれたのかもしれない。しれっとした声から読み取れない感情は、抱きしめる腕の強さに現れる。
「笑うなよ」
「うん、ごめん。私そんな儚げな美女じゃないのに、大丈夫大丈夫」
「美女だよ、おまえは」
 いつ永遠の別れが来るかわからない怯えを、月にすら抱く消太が切なくて、やっぱり、満月を一緒に見たかった。攫われやしないって手を繋いで月を見上げたかった。笑ってるのに鼻の奥がツンとする。
「……来年は、晴れたらいいね」
「ん」と控えめな相槌は、晴れなくていいと言ってるみたいで可愛らしい。
 ハグを解いて、目を合わせる。鼻先どうしがキスをする距離で微笑むと、笑うな、と三白眼は不服そうに細くなって、笑みは唇で塞がれた。食むような口付けは粗雑に不安を拭うようで愛おしい。
 月は見えないのに、狼みたいね。
 わおーんと吠える狼澤が脳内に爆誕して、また笑いそうになる。よしよしと頭を撫でてあげると、寂しがりな狼はフンと強がってこちらを見つめた。
 雨は日付が変わる頃には止むらしい。
 きっと消太はそれまで起きているから、迎えが来ても出て行けやしない格好で、腕の中にいてあげましょう。

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