一過性の理不尽に効く薬

「コップ、どこにやったの?」
 ダイニングテーブルの横に立ち、コップが置いてあったはずの場所に手のひらをつく。もっと普通に聞けたはずなのに、私の言葉はイライラと責め立てる言い方で消太にぶつかっていった。
「コップ?」
 ソファでタブレット端末を眺めていた消太は、私の不機嫌さに触発されることなく穏やかにこちらに視線を向けた。
「ここに置いてあったやつ。まだ飲むから使おうと思ってた」
 信じられないほど怒気を含んで尖った声が喉から放たれる。どうしてこんなにイライラするのか分からない。とにかくここにあるはずのコップが無いことが、無性に許せなくてたまらない。急沸騰した脳みそを冷ます術がなくて、ただただ熱が消太へ向かう。
「空だったから下げて洗ってた」
「どうして勝手なことするの?」
「ごめん」
 空になったからまた注ぐんでしょうが。いちいち洗わなくたって。あぁ。
 普段私に注意される立場の消太が、私が放置したコップに気付いて、きっと『いつも俺に片付けろって言うくせに自分は』とか呆れたに決まってる。
 攻撃的な私に、消太はこれっぽっちもダメージを受けていない。その涼しげな顔がまた気に食わなくて、私は余計に頭に血が上る。
「私が食器も下げないだらしない女だと思ったんでしょう」
「思ってないさ」
 さらりとした即答が神経を逆撫でする。平然と嘘をついてるんだから。イライラする。イライラする! 頭を掻きむしって物を投げまくって暴れ回りたくなる。
「余計な事しないで……!」
「あぁ。気をつけるよ」
 私の感情なんて彼に届かないと思わせるくらいに、温度差がひどくて虚しい。頭の後ろ側がもやもやして、胸が苦しくて酸素が薄く感じる。出どころ不明の黒い泥が心を埋め尽くすのに、消太は愚かでひ弱な存在を慈しむみたいに静かな瞳で私を見つめるから追い詰められてしまう。
「どうして怒らないの」
「怒る理由がないからな」
 コップなんて、普通に考えればどうでもいい。新しいコップを使おうが、洗われたそれを拭いて使おうが、飲み物は飲める。なのに消太はそんな正論のひとつも私に向けやしない。
「できた人間といると惨めになる……!」
 惨めになって、もっとイライラする。売り言葉を買い叩いてくれたなら、同じだけのみみっちさに慰められもしただろうに。自分の手を離れて暴走してゆく感情が、渦に呑まれて消えゆく理性が、怖くて怖くて仕方ない。
「……べつに、俺はそんなできた人間じゃないよ」
 消太がそうなら、私なんて、クズだ。憤怒を無差別に撒き散らし火の粉を振り撒くクズ。誰もが納得する理由なんて、この怒りには存在しない。波立って爆発しそうな心を消太に向けるのは、ただ私がクズだからだ。
 このよくできた大人な精神を持つ男が、私に黙って攻撃されている。それなのに何も解決しない。
「私は怒りたいの。こんな、コップなんか理由にして消太を傷つけたいの」
「違うだろ」
 消太は、ふっと吐息を漏らして薄らと笑う。私より私を理解してるツラして。カッと顔が熱くなって腹の底からむかむかとして、制御できない感情の波に涙が滲む。
「何で笑うの?! バカにして」
「してないよ。可愛いから笑った」
 はぁ? と思わず口があんぐりと開いた。可愛い。可愛い? 私のこの訳のわからない怒りをぶつけられて可愛い? 頭おかしいんじゃないの。
「可愛いってなに。今、消太が親切でコップ下げてくれたのに、怒ってるんだよ? 理不尽でしょう?!」
「理不尽ね。俺はそうは思わないが、お前は理不尽だと思ってても抑えられなくて怒ってるんだろ」
 そうだ。自分で口にして思うけど、とんだ理不尽だ。洗い物してくれたのに、どうしてありがとうで済ませないのか。クズだからだ。最低だ。消太はこんなに優しいのに。傷つけたくない。攻撃的になりたくない。消太は私みたいな情緒不安定女が独り占めしていいような男じゃない。
「私最低……もう無理。捨てて」
 今度は急降下だ。死にたくなる。どうしてコップなんかで怒っていたのかも分からない。頭がおかしいのは私だ。感情が欠陥だらけの出来損ない人間。いっそ見捨てて欲しい。
「捨てないよ」
 消太はそっとソファから立ち上がった。私が逃げないのを確認してから近づいてくる。逃げたい衝動があるのに足が動かない。逃げたい気持ちが歪んで消太を殴りたくなって、自分で握った拳が怖くなって震える。拒絶したい。傷つけたくない。頭がぐるぐるして動けない。
「大丈夫」
 消太はそう言って、私が体の横で握っていた拳を、ゆっくりと丁寧に解いた。指が一本ずつ、開いてゆくほどに殴る心配がなくなって体の力が抜けてゆく。
 ふぅふぅと呼吸が大きくなって初めて、さっきまで息を止めていたかもしれないと気付く。
 消太は片手を握ったまま、私の背中を大きな手で摩り、もう一度、優しく「大丈夫」と繰り返した。
「なんで、こーゆー時嬉しそうにすんの」
 消太は私がこんなな時やたらと機嫌良さそうに目を細める。それが癪に障るからやめてほしいのに。喚く私を許し、暴れそうになる体を絆し、満足そうにするのをやめて欲しい。理不尽には消太だって怒るべきなのに。
 どうしてだろうな、と消太は私の手を離した。
「普段のおまえは立派だが、だからこそ今こうして感情に流されているのが、安心する」
「何がいいわけ? 可愛げどっかに置いてきたの。親しき中の礼儀も吹っ飛ばす勢いなのに、なんでそんなに……そんな、ぅ……」
 自己嫌悪と罪悪感で吐きそうだ。だから前までは、荒れる時期は消太と連絡を取らず、家にも入れなかったのに。消太がいるせいで私はこんなにも自分が嫌になる。
「よしよし。わかってる。周期的なもんも、我慢しないでいてくれて嬉しいよ」
 大きな両手が頭を撫でて、頬を包む。俯けなくなって見上げた消太はやっぱり穏やかに笑ってて、もがいてめちゃくちゃにしたくなる。
「ばか、ばか」
 はいはい、と言わんばかりに親指が目尻を愛でて、めちゃくちゃな感情で頭がパンクしそうな私はそれが嬉しいのか悲しいのかもわからなくないまま受け入れた。荒波に進路を失いそうな不安定な心が、まっすぐ私を見つめる黒曜石に捕まる。
「おまえは、傷つけたいんじゃなくて、甘えたいんだよ」
 ぱちんと、膜が弾けて水から打ち上げられた心地がした。こんな全身に針のむしろを纏って抱きしめろと脅すような甘え方があってたまるか。おかしい。おかしいのに、涙が溢れて止まらなくなる。
 よしよし、と髪を撫でられて、引き寄せられて、ぽすんと厚い胸におでこを叩きつけた。ぎゅっと両手でスカートを握って、これはハグではなく、頭突きだと自分に言い聞かせてみる。
 牙を立てて毛を逆立てているのに、大丈夫と言われた小動物はこんな気持ちかもしれない。自分のつけた傷を舐める時、こんな気持ちかもしれない。
「今の私じゃ消太と楽しくできないの」
 ぐずぐずと鼻を啜りながら言うと、消太は直立の私を力を込めて抱きしめた。
「だからって一人になるな」
 フェアじゃない。メリットがない。何も返せない。そういじける私に、消太は「俺しか見られない顔が見られる」とニヤついて鼻先にキスをした。

 空のまま勝手に消えたコップには、消太が熱いココアを注いでくれた。そうだ、これが飲みたかったんだと思い出す。
 私のイライラもぐじぐじも、甘く温かいそれを飲み切る前に眠気に変わってしまった。
 消太は私にしか見せない顔で、おやすみと眉間を撫でる。私は一過性の理不尽を振り回す自分のことは大嫌いなのに、消太のこの顔を独り占めできることは、幸せだと思ってしまった。

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