悲しみの乾杯

 お揃いのマグカップ二つ。棚に仕舞おうとした瞬間、するりと手からこぼれ落ちた。万有引力は無常にもそれらを床に叩きつけ、耳をつんざく派手な音と共に、割れて砕け散った。

 付き合い始めた頃、消太が買ってきてくれた色違いの夫婦マグ。らしくない突然のプレゼントに驚いていたら「毎日一緒にコーヒーを飲もう」と首の後ろをかきながら呟くものだから、更に驚いた。遠回しな同棲のお誘いに、目を合わせてくれない彼の胸に飛び込んだあの日をまだ鮮明に思い出せる。
 落ち込んだ時消太が作ってくれたココアも、ゆっくり映画を観る時のコーヒーも、暑い夏の麦茶も、雪の日に挑戦したホットワインも、なんだってこのお揃いのカップに注いで時間を共有してきた。私たちはゆっくりと時間をかけて、本当に夫婦になって、ほぼ毎朝このマグカップでコーヒーを飲んできたのに。
 私たちが大切に重ねてきた思い出が、杯の形を失った器からあふれてこぼれて、かき集めることすら許されずに失われたような錯覚に頭が真っ白になった。
 お腹がぎゅうっと絞られるように痛んで、心の奥底からどろどろと赤黒い負の感情が流れ出る。
 壊れてしまった。二人の大切なものが。形ある愛が。
「どうした」
 焦った顔して消太がキッチンへ飛んできた。険しい目は、二色のマグカップが見るも無惨に床に散らばっているのを確認する。
「動くなよ、踏むと危ない」
 的確な状況判断で、さっと新聞紙を持ってくると、かがみ込んで素手でカケラを集め始めた。
 わざとじゃないの、と言おうとしたのに、あまりのショックで喉は声の出し方を忘れたらしい。唇だけが震えながら開いて、何も紡げずに閉じた。
 消太は努めて穏やかに振る舞おうとしているらしく、絶望感など見せずに私の失敗の始末を続けている。
「気にするな、また買ってくるよ」
 二人の大切なものをダメにしてしまって気を病む私を、優しく気遣う穏やかな声。その冷静さに、悲しみは増幅して私を蝕む。
 カチャリ、カチャリ、全ての破片がゴミとして新聞紙の上に乗せられてゆくのを、私は手伝いもせずただただ棒立ちで見下ろした。
 謝る前に、言い訳すらする前に許されて、それが有難いことだとわかっているからこそ、私の哀情は胸の内で出口を無くして荒れ狂う。優しくされているのに、傷は癒やされなかった。私は、許して欲しかったんじゃない。かといって、責められたかったわけでもない。じゃあどうして欲しかったのかもわからない。
「仕方ないことだ」
 消太はそう言った。泣きそうな私の、この目に溜まった涙を溢させまいとしているヒーローの気構えが伝わってくる。
 ギリギリで堪えていたのに、その言葉をきっかけに表面張力は限界を迎えて、一度こぼれるともう制御がきかなくなった。癇癪を起こした幼児のように止めようのない感情の波が、言語化できない哀しみの渦が、私から言葉を奪ってしまって、喉の奥から嗚咽だけが漏れる。
「大丈夫、だから」
 消太ははっと立ち上がって、泣きじゃくる私に戸惑いながら、泣きそうに眉を下げた。
 落ち度のない消太の前で泣き喚くなんておかしいのに。手際よく悲劇を処理する消太に怒りたくなってしまったのだ。醜くて浅はかで理不尽なこの気持ちを、どうしたらいいのかわからない。
「かっ、かなしく、ないの?」
 消太は、悲しくないの。二度と戻らないのに。
 やっと絞り出したのは、まるで消太の人間性を疑っているかのような酷い質問だった。
 いつだって冷静に現実を受け止めて、一人だけ先に気持ちの整理をつけてしまう消太。置いてけぼりの私は、一人だけ悲しみの中に取り残されたみたいで孤独だった。手を差し伸べてくれるということは、もう同じ悲しみの渦中にはいないということなのだ。私が沈んでしまうから、消太は慰める役をやってしまうのかもしれない。けど、慰めて欲しいんじゃなくて、そうじゃなくて。
「俺は……」
 涙で歪んだ視界の中で、消太の顔ははっきり見えない。ただ、スンと鼻をすする音がして、いつもより湿っぽい吐息が短く吐き出されて、もしかして、泣いているのかもしれないと思った。
「悲しいよ。悲しい」
 少しだけ掠れた声と一緒に、太い腕が私を捕らえて包み込む。消太の黒いTシャツの胸に、私の涙が吸い込まれていく。
 耳をぴたりと胸につけると、とくん、とくん、と心臓が泣いている音がする。悲しい、と言った声と共に、消太の悲痛な心が私に響いて伝わってきた気がした。悲しいのだ。消太も。私たちは同じくらい、悲しいのだ。
 だとしたら、喪失感に苛まれて壊れてしまわないように、ひび割れた心を押し殺していたのかもしれない。
「一緒に、悲しみたいの」
 一人で乗り越えた悲劇は、二人の思い出になりきれずタブーになる。そんなのは嫌なのだ。うまく言語化できていなかった自分の気持ちが、ようやくハッキリと理解できた。
 二つのカップには同じものを注いできた。喧嘩をした時も、朝まで愛し合った後も。咽び泣くほどの憂いも、二人で注ぎあいたい。飲み干して、空にできたら、きっと次に進める気がするから。
「あぁ……」
 大きな手が、後頭部を包むように撫でる。つむじに贈られた口付けは少し震えていて、不規則な呼吸がぬるく私に染み込んだ。ぽろぽろと流れる涙は消太の服をみるみる濡らす。
「ご、めん、なさ」
 タイミングを逃していた謝罪は嗚咽混じりでひどいものだったけど、消太は首を横に振ると、ぎゅっと腕に力を込めて、これ以上ないくらい私を抱きしめてくれた。
「謝るな。おまえは何も悪くない」
 しゃくり上げながら、広い背中に手を回す。
 私たちはようやく、悲しみと罪悪感を分け合って、同じ味の悲劇を二人で消化し始めた。
 寝て起きたら、私たちには朝が来る。晴れていたら、手を繋いで新しいお揃いのマグカップを買いに行くの。
 そして、二人でコーヒーを飲む。
 そこからまた始めたらいい。

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