エキスパートの称号

 ビル灯りの中を、コツンコツンとヒールの音が響く。飲食店のそばを通れば明るく楽しい声がはみ出して、ついでに美味しい匂いまでして、私は一層沈む。
 なんとか今日を乗り切った。今日はひたすらに疲れた。うまく頭が回らなくて、くだらないケアレスミスが頻発して、一日が長かった。やっとやっと退社して緊張の抜けた体に、どっと疲労がのしかかってきて、駅まで歩く足は重りでもついてるのかと思うほどで。
 消太、助けてー、って気分だ。
 とにかく甘えたくて、甘えたいって言えなくて、でも甘えたいから、指先は現状だけをシンプルに伝える。
 ――風邪かも。
 そう送った2分後、電話が鳴った。嬉しい。カップラーメンより早い消太。疲労を溶かすベルを5回堪能してから、通話マークに触れる。
「具合、悪いのか」
 低くて穏やかな振動が、耳に直接伝わってくる。悪い。そうなの。
「んー、なんか、寒気するし、頭痛いし、吐きそう」
「今月はひどいな」
 うん、今月? って何? 先月は風邪ひいてないのに、とぼんやりした頭が結論に辿り着く前に、消太が答えをくれた。
「生理だろ」
 なんで自分で気付かないんだと言わんばかりの、低い声は、けれど私を攻めていない。
「あれーもうそんな時期?」
 今日が何日なのかもぱっと思い出せない頭の鈍った私に、短いため息が送られてくる。付き合いが長いから分かるんだけど、これは、こいつは俺がいなきゃ仕方ねえな、の可愛がりなため息だ。
「だよ。3日遅れだからそろそろだと思ってた」
 そんな仔細把握されてたのか。私がだらしないんじゃなくて、消太が細かいんだと思う。
「歩いてるのか。迎えに行くから電車乗るなよ、駅にいなさい」
 たぶんこの愚鈍なヒールの音をマイクが拾ったんだろう。電話向こうで、消太の仕事カバンのファスナーが閉まる音がした。帰り支度してる。
 嬉しくて泣きそうなのに、可愛くない私は、やったぁありがとうなんてすぐに口から出てこない。
「仕事、大丈夫なの?」
 消太の口ぶりから答えは読めていても、この言葉をかけずにはいられなくて。
「大丈夫だよ。晩ご飯、何がいい?」
 間髪入れずに帰ってきた大丈夫に、安心してしまって、甘えたで面倒臭い私がむくむくと心を支配する。
「わかんない、食べたくない」
「りょーかい」
「やっぱり、甘いもの食べたいかも」
「買ってくよ。20分くらいかかる。中で待ってろよ」
「うん、わかった」
 優しさが私の鎧を剥ぐ。じゃあな、と、消太が耳からスマホを離した、気がした。
「ありがとう」
 切れそうな電波にギリギリ滑り込ませたつもりだったけど、消太はちゃんと聞いていた。
「気にすんな、じゃ」
 プツ、と今度は本当に通話終了。
 私が、ありがとうを今伝えられなかったら、消太が駅に着くまでその事をうじうじと反省しただろう。消太はそれをわかってて、私の言葉を待ってたんだ。
 あぁ好きだなって思う。
 そんで、甘いものはクリーム系じゃなくて、あと硬くなくて、冷えてない、ものだといいなぁって思う。
 駅まで向かう足は、さっきより少し軽い。




 消太は私を駅でピックアップして、真っ直ぐ家への道を辿っている。
「夜用のナプキン無かったろ。買ってきたから」
「えっ、そうだっけ。ありがとう」
 周期だけじゃなく、まさか生理用品の在庫まで把握してくれてる。そういえば前も、生理の時に、鎮痛剤もう少ないからって買って帰ってきてくれた事があった。
「さすが、エキスパートだね」
「何のだよ」
「私のエキスパート」
「そりゃ光栄だな」
 車の揺れと、消太の匂いと、流れていくネオンが私を夢に誘う。小さくあくびを隠したつもりだったのに、消太はウインカーを出しながらでもそれに気がついたらしい。
「すぐ着くけど、寝たかったら寝てろよ」
「寝ない」
「じゃあ、しりとりでもするか」
「え? なんで?」
「俺が寝そうだから」
 それは危険だ。
 私たちはヒーローの名前縛りでしりとりをして、それは圧倒的私不利で、悩みながら10回ほど応酬するうちに家に着いた。"い"がきたらイレイザーベッドって言いたかったのに、一度も"い"は来なかった。
 消太はすごい。会社を出て、どよんと表情を失っていたのに、今やニヤニヤと消太とのしりとりを楽しめるまでに回復している。

 部屋に入ると、すぐに消太がお風呂の準備をしてくれて、私はその間にランチラッシュのサンドイッチを食べた。レタスハムサンドイッチとは、ちょうどいい。重くないし、野菜入ってるし、くどくない。
 それから私はのんびりお風呂に入った。消太が一度、ドアの外から「寝るなよ」と声をかけに来てびっくりした。覗かれるかと思った。
 消太は、授業で汚れたから、学校でシャワーして来たと言って入らなかった。多分、私がお風呂の間に仕事してるんだろうな。一緒に入ってもよかったのにな。
 脱衣所に出ると、なんと、用意していた着替えの上に、ナプキンが置いてあった。消太の仕業だ。まだ始まっていないのに。絶対もうくるからつけとけ、その方が合理的だろ、って頭の中の消太が私に話しかける。確かにね、と頭の中の私が答えて、素直にそれを装着した。
「消太、上がったよ」
「うん、おいで」
 消太は私をソファに招く。
 ローテーブルには、マグカップが二つ。それから小さな箱が一つ。消太はノートパソコンを広げていなかった。でも知ってる。私がお風呂から上がった音を聞いて、片付けたんだろうな。
「いいの? お仕事」
「気にするなって」
 時々消太が横になるための、二人で座るには大きいソファで、私はピタリと消太に寄り添って座る。
 湯気を立てるマグカップは、ホットミルク。両手で包んで暖かさを受け取る。でもこの、フルーティで芳醇な香りは。
「ラムミルク?」
「正解。あと、甘いのはコレでよかったか?」
 消太が小さな箱を開ける。中には、行儀よくマス目に並ぶ、丸い。
「トリュフだ」
「違うのがよかった?」
「柔らかいチョコ、いい、大正解」
「どうぞ」
 クリーム系じゃなくて、硬くなくて、冷えてない、甘いもの。大正解だ。
 一つ、ピックで刺して、口に運ぶ。カカオ率の高そうな大人の甘さが口の中でとろけて、舌を包むように広がっていく。美味しい。迎えに来てくれるの早かったのに、あれこれ用意してくれて消太はすごいな。
 暖かいラムミルクを一口、熱が喉を通って、ラム酒の香りがチョコとよく合う。無意識に、ほうっと吐息が漏れて、幸せが空気に溶ける。
 消太の愛の味がする。ホットミルクより大人で、だけど確かに甘くて、大人の香りがするのに安心して、優しくて、私の油断を誘う。
「消太ってすごいね」
「何が」
「どうしてこんなに私を喜ばせるの?」
 普段より少しぼけっとして、単調な思考の私は、頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出した。消太は、ぽんと一つトリュフを口に放り込んで、あっという間にごくんと飲み込んで、ニヤリと笑った。
「お前のエキスパートだからだろ」

 翌朝、消太は「ほらな」と得意げに眉を上げた。本当に、シーツを汚さずに済んだのだから、これは確かなる根拠を伴う称号なのである。

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