ペトリコールの香る日に

 一日のカリキュラムを終えて教室を去る間際、全ての窓を閉め、あるいは施錠の確認をして回る。
 曇天が窓の外を灰色に埋め尽くしている。いつ溢れ始めてもおかしくない夏の雨の気配が、湿気った草木のスモーキーな匂いと一緒に制服に染み込んでくる。
 暑さも相まってじっとりと重たく感じる空気は、どこか世界を儚げに彩ってため息を誘う。
 はぁ、と息を吐いて、思うのは担任の先生の事。このため息の理由は、この辺にやってきた低気圧とは何の関係もない。
 私は、先日ついに、恋に患っていることを自分で認めたところだ。
 だって、どんなに授業に集中していても勝手に視線は先生を追いかけ、どんなに人の多い集会でも真っ先に目に飛び込んでくる。
 廊下の曲がった先でも、教室のドアの向こうでも、声が聞こえるとぴくりと耳が持っていかれる。
 ずっと、これは憧憬だと言い聞かせて自分を誤魔化してきたけれど、それは一年以上の時間をかけて限界を迎えた。
 これは、恋だ。
 それも特段禁忌的な、叶う望みもない恋だ。
 正しい名前で呼ばれた感情は喜んでその存在を輝かせた。認めてしまうとどうしてか、想いは加速して余計に惹かれて止まなくて、会話してても目が見られないし参ってしまう。
 憧れならば受け止めてもらえたかもしれないけれど、恋だとなれば話は別。
 相澤先生からすると迷惑極まりない事に違いない。迷惑がられるのも、距離をとられるのも気を使われるのも嫌。ましてやハッキリと断られるなんて恐怖でしかない私は、どうにかどうにかこの気持ちがバレないように、こっそりと胸に押し込める他どうしようもない。
 私はそんな事を考えているなんて誰にも気づかれないほどの完璧な笑顔で、級友たちとにこやかに手を振り合い、教室のドアを一歩出て、無意識に左右へと首を振った。
 恋を表に出して迷惑をかける気はないけれど、その存在を盗み見るくらいは、憧れの範疇で許されるのではないか。
 そんな希望的観測を根拠にして、放課後人の溢れた廊下を歩きながら、相澤先生も歩いてないかと探す癖をやめられずにいた。
 いつものように、すうっと、周囲を走り回った視線がピタリと止まる。
 息が止まった。
 玄関へ向かう方向の廊下の先、流れる人の波の中で唯一完全に停止した異質な存在。私が見つける前から私を射抜いていた鋭い視線を、通り過ぎて逸らすことができなかった。
 意識は三白眼の黒点に縫い付けられ、ぐにゃりと形を失う。
 喧騒が遠のき、キーンと耳に静寂が響く。
 一瞬にも、数十秒にも思える時間。
 ペトリコールだけが、浅い鼻呼吸からやたらと香る。
 言語化できない悪い予感に、背筋がぞくりとして、頭が真っ白になって、体が動かせない。
 先生は、じいっと私と目を合わせたまま、ゆっくりと捕縛布に指をかけ口元を晒した。
 ――こっち。
 声は聞こえなくても、わざとゆっくりと動かされた唇を読むのは容易なことだ。
 視線を合わせたまま、先生は体だけ先に向きを変える。ふいっと頭も追随していってその視線から解放された時、私は自分が息を止めていた事に気がついた。
 見られていた。見る前から。
 思考は混乱を極めすぎて一つの言い訳すら浮かばない。
 なのに、はたと周囲の音を取り戻した私は、迷いなく人混みの中一際高い黒髪を追って足を踏み出していた。
 並ぶ教室の前を過ぎ、階段を降り、玄関に近づく。次第に人影はばらついて、私と先生の間の十歩程度の距離を遮るものは何もなくなった。
 真っ黒な後ろ姿は、ゆったりと足音を立てずに歩いている。
 追跡を許された私はここぞとばかりに、その猫背を、歩く脚の動きを、捕縛布の揺れを、視線でなぞって輪郭を記憶することに耽溺した。
 相澤先生は、きっとずっと前から気づいていたのだ。私の気持ちに。私の視線に。薄慮を後悔しても遅い。私は先生の後ろ姿を目に焼き付けながら、一歩、一歩進むたびに、拒絶されるための覚悟で心を武装した。
 恋焦がれるならばバレてはいけなかった。バレそうなら恋ではないと、憧れだと自分に言い聞かせ続けるべきだった。
 しとりと雨粒が落ちる音がしはじめる。
 懺悔の念が身体中へ降り注ぎ濡らすのに、それを塗りつぶすような好きがお腹の底から溢れてくる。
 相澤先生は、ゆるりと立ち止まりひとつのドアの中に消えた。玄関の手前の、事務室横の備品室。
 蒸し暑い廊下を歩いてきたとは思えないほど冷えたつま先で追いかけて、誘うように開いた暗がりに飛び込むけれど、先生の姿は見えず。
 立ち尽くす私の背後で、ガラガラと光が閉じた。
 相澤先生が、後ろにいる。
 僅かな呼吸音と、床に靴底の擦れる短い音がした。
 少し埃の匂いのする部屋の中は妙に涼しく、心臓が檻の中で動いてるみたいに苦しく、息が浅くなる。
 ごくりと喉を鳴らして奥歯を噛み締めて、私は最後通告を受けるべく首を回した。
 相澤先生はドアに背中を預けてそこにいた。眉間に皺を刻み、細められた目が私だけに向いている。
 好き。ダメと言われても、好き。
 ごめんなさい、好きになってごめんなさい。好きを止められなくてごめんなさい。
 行儀よく揃っていた薄い唇が、音を準備する。銃口を突きつけられた私は、この恋の死を覚悟しながら、引き金が引かれるのをじっと待った。
「そんな目で、見るな」
 低く、しっとりとした、請い願うような声が温く空気を揺らす。
 視線は刺すように鋭いけれど、その瞳はやけに熱を孕んでいる。
 覚悟していた終わりは与えられず、代わりに有り得ないほどおめでたい期待が全身をぶわりと駆け巡る。
 私は、どんな顔をしているのだろう。どんな目で先生を。
 今度は高揚で息が苦しい。冷えた手足はまだ徐々に温度を取り戻そうとしている中、顔だけがやたらと熱い。
「ごめんなさい」
 震える喉から搾り出した、けれど何が何だか咀嚼できていない。
「言いたい事はこれだけだ」
 そんな目で見るな、とだけ言うために? やめてほしいなら、叶わぬ恋なら気づいた時点でバッサリと切り捨ててくれそうなのに。与えられた中途半端な言葉では、私は前向きな解釈をしてしまう。他人にバレるほどの恋慕を視線に含ませなければ、この気持ちが許されるなどと。
 相澤先生は私に背中を向けて、今しがた閉じたばかりのドアに手をかける。今確かめなければ、先生の言葉の意味を聞かなくては、私は勝手に期待してしまう。落とすならばハッキリとトドメを刺してほしい、じゃないと、優しさを勘違いしてしまう。
「先生」
 小さな呼びかけに、捕縛布の肩はぴくりと揺れて止まった。
「……私、このままで、いいんですか」
 この恋を、殺さなくていいんですか。
 背中で私の声を受け止めた先生は、体半分振り向いて、温く停滞した空気をため息でかき混ぜた。
 返事は貰えないかもしれない。俯いて唇を噛んだ私の前に、音もなく揃う真っ黒のブーツ。
 するりと黒を辿って登りつく先に、相変わらず眉間に皺のよったままの、端正な顔。睨んでるんじゃなくて、切なげに歪んだその目からは、私と同じ類の感情が滲み出ている。
「……おまえ次第だよ」
 ぽん、と頭に大きな手が乗る。
 それは、とても相澤先生らしい返答だと思った。
 恋する瞳を向けても差し障りなくなる時まで、この気持ちを大切にしてもいい。けれど、ハッキリした約束をしないのは、私が別の恋をする可能性に配慮している。
 止めろでも、待ってるでもない、先生の欲望を含まない許し。
 頭の上に乗った重さに、私の体温はみるみる上がる。
 爆発しそうな歓喜をぎゅうっと身体の中に押し込めて、この細い糸が途切れないように願う。
「ありがとうございます」
「俺からは、何も期待するな」
 信じられない。だって、先生も、つまり、相澤先生も、私のことを。
「それって、」
「コラ」
 頭に乗っていた手が滑り降りて、私の視界を奪う。
「何も、だよ」
 低く、優しく、甘い囁き。身体は震えて、鳥肌が立つ。
 この掌の向こうで、相澤先生はどんな顔をしているのだろう。
 先生の今までの平静が全て、私と同じく、装われたものなのかもしれないと思うと激烈な愛しさを感じてしまう。
「はいっ」
 素直な優等生の私は、きちんと先生の言う事を聞く。
 だから私たちは恋人ではなく、来年卒業したからってどうとなる確証もなく、今だってただの先生と生徒。
「ひどい雨だな。傘、持ってるか」
 ぱっと手は私に光を返して、ドアを開ける。
 蒸し暑い廊下にはもう生徒は見当たらない。窓の外は、いつの間にか本降りになった雨がだばだばと垂れ流れている。
「え、あ、いえ」
 傘は、ある。鞄の中に折り畳み傘がある。
 バレただろうか。何も期待してはいけないのに、早速離れ難くなったバカな私は、あからさまに視線を惑わせてしまった。
「……寮まで送るよ」
 相澤先生は、先生用の玄関から傘を持ってさっと一人で外に出た。
 慌てて玄関を抜けて、私を待つ傘の半分に飛び込んだ肩が、とんと先生の腕を押してしまって。
「すみません」
 見上げた、黒い傘の中の黒。雨に囲まれた、二人の空間。
 私を見下ろして微笑んだ先生の目は、ただの生徒に向けるにはあまりに、あまりに甘くて。
 一方的な恋慕がまさか通うなどと、露ほども思っていなかった私は、突然の供給過多に正解の反応を見失う。
「そ、そんな目で、見ないでください」
 私たちは、ただの、先生と生徒なんですから。
 ペトリコールは消えて、ゲオスミンにはまだ早い。
 傘の中にいても足を濡らす雨を踏む、私の心だけ梅雨が明け、タチアオイの満開になる香りがした。

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