トラットリア相合傘

 駅の改札を抜けると、ざぁぁと水滴がコンクリートを叩く音が静かに響いてきた。
 例年通り訪れた雨の季節は、それはそれは致し方ない自然の摂理。見上げた夜空はまるで消太さんのヒーロースーツのように黒く、星も月もすっかり雨雲の向こうへ隠れている。
「待たせたか」
 背後から聞こえた声にびくりと肩を揺らしながら振り向いて、私は目を丸くした。
「悪い、驚かせた」
「いえいえ、あの、驚いたのは気配を消していたからじゃなく、その」
 頭のてっぺんから濡れた足元までをじろじろと眺める。気配を消して近づいてくるのなんて慣れてきたけれど、今日は一体どうしたっていうの。
「……似合わないか?」
「まさか! かっこよすぎて……ドキドキします」
 だって消太さんが、きちんとジャケットなんか着て、髪も束ねて、髭だって剃ってきたんだもの。
 不安げに自分の格好を見下ろしていた三白眼は、元気を取り戻したように私を一瞥して頬をかいた。
 私もお気に入りのワンピースを着てきたけれど、この雨で履きたかったオープントゥのパンプスは諦めてしまった。こんな素敵な消太さんには、一番素敵な私で隣を歩きたかったのに。
「行くよ」
 そう言われて折り畳み傘を取り出そうとバッグに手をかけると、消太さんの手にそれを阻まれた。
 え、と顔を上げると、消太さんはバッと大きな傘を開いた。
「おいで」
 はぁっと息を飲む。私の瞳は分かりやすく輝いたんだと思う。消太さんは喉でくつりと笑った。嬉しいんだから仕方ない。ぴょんと跳ねる勢いで私は彼の隣に飛び込むと、私に合わせた歩調でゆっくりと歩き始めた。
 手が繋げないのは難点だけれど、ぴたりと身を寄せ合って歩くのは楽しい。
 傘は少し私側に傾いていて、肩が濡れないようにと配慮してくれる優しさが愛おしい。
黒く濡れた地面もキラキラと光を反射して、幻想的な絵画の世界にいるみたい。
 晴れの日とは別世界にも見える、相合傘の雨の夜。
 ふと目に入ったアンティークな雑貨屋さんの窓辺で可愛らしい猫の置物がこちらを見つめていて「あ」と足を止めてしまった。
 途端にぱらぱらと雨粒が頭に当たって、一歩先に行った消太さんが慌てて傘を伸ばしてくれる。
「よそ見するな」
 その声に私を咎める色はなくて、雨のデートでもルンルンと浮き足立つ私をやれやれと嗜めるような甘さを孕んでいた。
 再び一つの傘の中で身を寄せ合うと、彼は、私が目を奪われた窓を見て「あぁ」と自分の格好を見下ろした。
 猫は消太さんとよく似たジャケットを着て、赤い鉱石の瞳を持った黒猫だったから。
「かわいいですね」
 私が立ち止まった理由に納得したらしい彼は、同意するように柔らかく微笑んでから「いくよ」と私を促した。
 ぴちょんと弾ける水たまりの冷たい飛沫が、二人の足を濡らす。
 ここだ、と駆け込んだ軒下。暖色の光で溢れた店内からは、モダンジャズが漏れて上品で楽しげな雰囲気を醸す。
 閉じた傘の水を切り、ドアを開けてくれた彼に続く。予約の名前を告げている間、私ではまだ手の届かない大人の空間に思えて、場違いじゃないかとそわそわ前髪に手櫛を通した。
 ちらりと店内を見回すと、若い女性グループから年配のご夫婦まで様々な人がゆったりと食事を楽しんでいる。超高級、でもなさそうだけれど、ファミレスとは雲泥の差。
 店員さんが席に案内してくれる時には、消太さんはレディファーストだよと私を前に立たせた。案内された席では椅子を引いてもらって座り、お姫様の気分だけれど、お皿の上に乗ったナプキンをどうしたらいいのかすら分からないのだ。
 育ち? 経験?
 両親とだってチェーン店や地元の居酒屋くらいしか行かないし、真面目に学生してきたものだから異性とお付き合いをするのは消太さんが初めて。つまり両方及第点には遠い。
 消太さんは当然落ち着いていて、私だけがまだまだ子どもだと浮き彫りになってゆく気がして弱気になる。
「緊張しちゃいます。私、こんな素敵なお店初めてです」
「デートでよく来ますなんて言われたら困る。俺もまぁ、慣れてるわけじゃあないけどな。緊張するほど格式張ってないから安心しなさい」
 スパークリングワインで乾杯して、消太さんの真似をしてナプキンを膝に。すでに決まったコースのお料理が運ばれてきて、慣れない私はちょっと緊張しながらナイフとフォークを握る。
 緊張してしまうのは、お店が素敵だからってだけじゃない。
 目の前の消太さんが髪も結んで髭も剃って、普段と別人みたいに見えるからかもしれない。普段もかっこいいけど、仕事中とは見違える、また別の魅力にドキドキしてしまう。
 不意に、向こうの席がキャアと盛りふっと視線が奪われる。長身で金髪、ソムリエエプロンがよく似合う店員さんが女性客にワインを注いでいた。
 どうやら、とってもかっこいい店員さんを目当てに来ているお客さんも多いらしい。その彼が、次は私たちのテーブルにお料理を運んできた。
 爽やかな声でメインディッシュの説明をしてくれて、確かに確かに、ファンがつきそうだと思う。
 奥へと消えてゆく道すがら、お客さんに手を振られて、まるでファンサービスのように振り返す仕草はさながらアイドル。
「すごい。かっこいいね」
 見た目もそうだけど、優雅な身のこなしがお店の雰囲気と合っていてとても素敵だ、と思ったのをそう言葉に出すと、消太さんは「ふぅん」と眉を上げてフォークを置いた。
「どうし、ました」
 すうっと伸びてきた手が私の頬に触れた。無言のまま、指の背が優しく撫でるように頬を滑り、太い指先に顎を掴まれた。
 くいっと顔を操作されて、強制的に消太さんと見つめ合う。三白眼の黒点が熱を込めて私を貫いた。その瞬間、どくんと心臓が鼓動して、息が止まる。
 か、っこいい。
 普段と違う消太さんのこと、実はあまりじっくりなんて見られなかったのに、こんな風にされたら目が逸らせない。なに。どうしたの。やだ、王子様みたい。こんな素敵な格好で出歩いて消太さんにも女性ファンがついたらどうしよう。待って。長い。見つめ合うの長すぎる。無言どうしたの。ねぇ。心臓がもたない。そろそろ離して。
 みるみる顔を赤くする私に、消太さんは満足そうに目を細めて、ほんの少し口角を上げた。
「よそ見するな、って言っただろ」
 ずるいくらい甘い声が、鼓膜を震わせる。
「し、しま、しません」
 不格好にひっくり返った声が恥ずかしい。
「よろしい」
 ふっと吐息で笑った消太さんはついでみたいに「ソースついてる」と親指で私の口の端っこを拭ってぺろりと舐めた。

 その後のお食事は、全部わからなくて、とにかく猛烈な恋慕の味がした。
 帰り道、まだ降り続く雨の中また一つの傘に入った私たちは、どちらともなく、来た時より少しだけ隙間をあけて歩いた。
 きっと私の家に着く頃には、着替えていきますかと声をかけずにいられないくらい、肩が濡れているのだろう。

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